第10話 破壊



 また、女の子から、あまり感じのよくない視線。


 気がついていないふりをして通りすぎるけれど、ヒソヒソ話の中から聞こえてくるのは、決まって『芹沢くん』という錬太郎くんの名字。沙都の言っていたことは本当だったんだなあって、最近は自覚が出てきた。


「いろいろと大変そうだね、皆川さん」


「べつに、大変だなんて」


 小日向くんは、おもしろがっているようにしか見えない。


「錬太郎を好きな子、多いからね」


「わたしと噂になってるって知ったら、錬太郎くん、怒るだろうね」


 いい迷惑だって、絶対に言われる。


「皆川さんの方は、かまわないけど?」


 話すようになって、わかったことがある。小日向くんは、ちょっとだけ、意地悪。そう、曇りのない小日向くんの綺麗な目を見ながら、考える。


「沙都だったら、補習に行ってる」


 ドキドキするのを悟られないように意識すると、今度は必要以上に愛想が悪くなってしまう。


「ああ、そっか」


 そんなわたしをおかしそうに見る小日向くんは、いったい、何を考えているんだろう? いくら考えても、わかるわけはないけれど。


 そして、聞きたいことはいくらでもあるのに、聞けるような関係でもない。小日向くんの方も、わたしのことになんか、何も興味はないだろうし。


 でも、寂しくなんかない。この前、錬太郎くんに言ったことは、本心だから。心の中で、何度もそう繰り返していたら。


「……ねえ、皆川さん」


「何?」


 見上げると、わたしから微妙に視線をずらしている、小日向くん。


「最近さ」


「うん?」


「沙都から、何か聞いてない?」


 明らかに、ようすが不自然。


「何かって、何を……?」


 小日向くんが平静を装っているのがわかる。


「聞いてないんだったら、いいや。ありがとね、皆川さん」


「そう……なの?」


 何だろう? 不安をかき立てられるような、この胸騒ぎ。


「補習が終わる頃、また来てみるよ。沙都も、皆川さんくらい出来がよければいいのにね」


「あ……」


 小日向くんの乾いた違和感のある笑みに騙されるほど、わたしは無関心でいられない。


「待って。沙都と何かあったの?」


 さっきまでの沙都は、いつもどおりにしか見えなかったけれど。


「何もないよ。どうして?」


 予想どおりの反応をした小日向くんに、本心を教えてくれる気が全くないこともわかりきっていて。


「……ううん」


 だから、わたしが聞けるのは、一度だけ。


「あ。そういえば、錬太郎は帰ったばかりだから、今すぐ追いかければ、間に合うかもよ」


「関係ない。わたし、図書館に寄りたいし」


「そう」


 振り返って、子供みたいに笑った小日向くんは、いつもみたいに日の光が透けたようにまぶしく見えたから、やっぱり、あの薄暗い書庫は似合わないと思った。





「波流ちゃん」


 昇降口で靴をはきかえようとしたところで、沙都に呼び止められた。


「補習、終わったの?」


「うん」


 うれしそうに笑いかけてくる、沙都。特別変わった印象は、受けないけれど。


「小日向くん、ちょっと前に教室に来たよ。沙都を捜しに」


「本当?ありがと」


 それでも、意識して見てみると、少し痩せたような感じもする。


「あのさ、沙都」


 どうしても気になる。


「最近、何か心配なこととかない?」


「どうして……?」


「あ、あのね」


 失敗した。突然すぎて、沙都が目を見開いている。


「ごめん。深い意味はないんだけど、ちょっと聞いてみただけで……」


 あわてて、そう弁解しようとしたときだった。


「波流ちゃん……!」


 涙声で、沙都がわたしに抱きついてくる。


「どうしたの?沙都」


 驚いたのはわたしで、自分から聞いたくせに、戸惑いを隠せない。


「ずっと、誰かに吐き出したかったの」


 何かが崩壊したように、泣き出す沙都。


「沙都……?」


 小さな沙都の肩を、そっと抱き返す。


「陽くんが……多分、浮気してる。きっと、わたしの他に女の子がいるの」


「え……?」


 沙都の言葉に、びっくりしたけれど。


「そんなわけないよ」


 反射的に、口から出てきた。だって、わかるよ。自分の好きな人だから。小日向くんが沙都を大切にしていることくらい、痛いほどに。


「どうして、そんなふうに思うの?」


「……カン」


 消え入りそうなくらい小さな声で、沙都が答える。


「そんなこと」


 沙都を安心させるために、わたしは笑った。


「小日向くんは、沙都を裏切るようなことはしないよ」


「そう……かな」


 声の調子は少し落ち着いたようだけれど、まだ不安そうにしている沙都。


「さっきだって、心配してたんだよ、小日向くん」


「陽くんが……?」


 沙都が顔を上げる。


「そうだよ。きっと、沙都のようすがおかしかったのがわかって、気がかりだったんだよ」


 教室で一緒にいたのに、わたしは全然気がつかなかった。そんなふうに、口で言わなくても気持ちが伝わるのが、つき合っているということなんだ。


「ずっと、一人で考えてたの?」


「だって……口に出したら、なおさら本当になっちゃうと思ったから」


「そうだったんだね」


 涙を拭いながら答えた沙都の言葉は、単純な可愛さと同時に、小日向くんへの想いの大きさと、沙都の芯の強さを感じさせた。と、そのとき。


「陽くん……」


「えっ?」


 沙都の視線をたどると、わたしの後ろに小日向くんが立っていた。


「ごめんね、皆川さん」


「ううん」


 小日向くんに引き渡すように、沙都の体を放した。


「何が、そんなに心配だった?」


「わからない。わからないけど……」


 そのまま、不安そうにしがみつく沙都を、小日向くんが包むように優しく抱きしめる。


「俺が好きなのは、沙都だけだよ。この先、誰が何と言おうと、何があっても」


「うん……」


 今度は泣きながら、幸せそうに笑う沙都。期せずしての当たりにした、その場面に。わたしは、今まで感じたことのない胸の痛みを覚えた。


「じゃあね」


 きっと、沙都にも小日向くんも、わたしの存在は忘れているだろう。小さな声で形だけのあいさつをして、学校を出る。


 沙都は真剣に思い悩んでいたみたいだけれど、わたしから見たら、あまりにも幸せな小日向くんとの日常の一コマにしか過ぎなくて、うらやましいとしか思えなかった。


 ただ、なんとなく振り向いてしまったら、小日向くんと一瞬目があったことだけは、ずっと覚えている。





 次の日、目の前に配られた進路希望の調査票を、わたしはぼんやりと見つめていた。


 自分の中では、文学の勉強をしていきたいと思っていたんだけれど、錬太郎くんに教師に向いてるなんて言われたことが、ずっと忘れられなくて……。


「波流ちゃんは、四大に行くんだよね?」


「あ、うん。そのつもり」


 前の席の沙都の声に、我に返る。


「沙都は?」


「わたしはね、短大に入りたいな。できたら、陽くんの大学の近くの」


 恥ずかしそうに答える、沙都。あのあと、とくに何も聞いてはいないけれど、小日向くんへの不安は消えたみたい。


「そっか。本当に仲良いね、二人」


 と、そのとき。


「おうちの方と、よく相談して」


 そんな、担任の先生のそのフレーズが耳に入った。また、思い出したくない現実に引き戻される。ここのところ、また機嫌が悪くなる一方のお母さんは、このわたしの進路のことを真剣に考えてくれる?


「ねえ、波流ちゃん。卒業しても会えるよね?」


「もちろん。だけど、まだまだ、先の話すぎるよ」


「そっか。そうだよね」


 いつもどおり、子供みたいな沙都に、わたしはくすぐったい気持ちになって、笑った。そんな、のどかな時間が過ぎる。





「お母さん」


「…………」


 無言で、わたしに視線を向ける、お母さん。リビングに足を踏み入れた瞬間から、お母さんの反応はわかっていた。


「学校に、進路希望の用紙を提出しなくちゃいけなくて」


 でも、その態度に気がつかないふりをして、続ける。だって、そのために早く帰ってきたんだから。


「わたし、国文科か英文科に……」


「何でも好きにすればいいわ」


 言い終わらないうちに、はねつけられた。


「そういうわけにはいかな……」


「あの人と同じ。わたしの気持ちなんか、考えもしないで」


 だって、お母さんの気持ちなんて、わかりたくない。傷つくのがわかりきっているのに、それでも考えなくちゃいけない?


「部屋に行ってるね」


 お母さんは、こういう人なの。だから、しょうがないの。そう言い聞かせながら、わたしはお母さんに背を向ける。


 大学くらい、ネットや本で調べられる。ただ、後押しをしてくれる人の存在が、わたしもほしかっただけ。とりあえず、自分の机の上に受験案内を広げて、ページをめくってみる。


「あ」


 ふと、また錬太郎くんの言葉を思い出した。教師って、進むのは、教育学部とかになるのかな……と、そのとき。


「生まなければよかった」


 お母さんの声が、わたしの部屋の入口から耳に入ってきた。一字一句全て、はっきり聞こえたけれど、その意味をなかなか認識できない。


「どうしたの?お母さん」


 そんな間の抜けた質問が、なぜか口から出てくる。


「子供さえ生めば、あの人をつなぎ止められると思ったのに。意味がなかったわ。それどころか、身動きが取れない」


 まるで、世界中の悲しみを全部背負ったかのような、お母さん。


「何なの?その顔は」


 わたしは黙ったまま、首を横に振る。


「よく聞きなさい、波流」


 これ以上、何を言われるんだろうと耳をふさぎたくなる。でも、お母さんの前で、そんなことができるわけがない。


「あなたに、弟か妹ができるのよ」


「え……?」


 続いて出てきた、お母さんの言葉。あまりの意外さに、空気の中を浮遊しているような感覚に襲われた。


「じゃあ、あの……」


 あのときの? そう言いかけて、すぐにのみ込めたことに、心底ほっとする。


「相手は、二十歳も下の子よ?」


 お母さんがあの夜に妊娠したんじゃないかなんて、そんな想像をした自分が滑稽こっけいでたまらない。


 ううん。滑稽なのは、わたしだけじゃない。お父さんも、お母さんも、この家族そのものが最初から……。


「何か言ったら? 波流」


「わたし……」


 わたしがどんな反応をしたら、お母さんは満足するんだろう? お母さんと同じように、泣けばいいの? お父さんをののしれば、少しは気が収まるの?


 だけど、わたしだって、もう限界なの。ずっと、お母さんに振り向いてほしかったのに、今日という今日まで無視され続けてきて、いきなり何かを求められても、わたしには無理。


「……わたし、図書館に行ってくる」


「波流……!」


 お母さんの顔は見ないで、家を飛び出す。お父さんが、二十歳も下の女の人を妊娠させた。その事実は、自分でも驚くほど、べつにショックでもない。


 それよりもただ、わたしはどうして生まれてきたんだろうという振り払えない疑問を、ほんの少しの間でも忘れたいだけなの。





 閉館まではまだ時間があるから、わたしは安心して、書庫への狭い階段を上った。結局、ここしか居場所がない。


 いちばん最初に小日向くんを見たのも、今日みたいに現実逃避したくてたまらなくなった、こんな日だった。一瞬で、手の届かない人だとわかったけれど、それでも惹かれる気持ちを止められなかった。


 ……今頃、小日向くんは沙都と二人でいる。そして、きっと、この前みたいな優しい言葉を沙都に囁いているのに違いない。


 涙をこらえながら、行き慣れた奥の一角に行こうと、いつもの背の高い本棚を越えたところで。


「…………」


 不意に目に入った、信じられない光景。


「小日向くん」


 名前を呼ぶつもりなんか、なかったのに。


「……ああ」


 以前よく目にした体勢と表情で、やっぱり、じっとくうを見ていた小日向くんが、そこにいた。


「あの、ごめんなさい」


 見てはいけないものを見てしまった気分になって、そのまま後戻りしようと思っているのに、なかなか足が動かない。それなのに。


「こっちに来れば?皆川さん」


「いいの……?」


「うん。来て」


 信じられない小日向くんの言葉を聞いて、体が勝手に小日向くんの方に近づいていってしまう。


「そんな悪そうにすることないのに。座る?」


「あ、うん……」


 どうでもいいように笑う小日向くんの横に、少しためらってから、わたしも座った。まさか、ここでまた小日向くんに会う日が来るなんて。


「この前は皆川さんに、あんなところ見られちゃって」


「浮気騒動?」


「そう」


 そこで、また少し笑った小日向くんに、わたしの意識は完全に奪われる。自分勝手な両親に傷つけられたことなんて、もう完全に頭から抜けていた。


 さっきまで痛みを伴っていた、わたしの心臓は今、目の前の小日向くんに、ひたすらドキドキし続けるだけ。


「沙都のカン違いだったんだよね?」


 そんな胸の鼓動を抑えながら、平静でいるふりをする。もちろん、こんなところで二人きりになっていることに沙都への罪悪感はあるけれど、少しの間だけでも夢を見ていたいような気持ちだったから……。


「そう思う?」


「え……?」


 射るような小日向くんの視線に、わたしの体は再び動かなくなる。


「だって」


 吸い込まれそうな小日向くんの瞳に引きつけられたまま、はっきりとわたしは答える。


「小日向くんが、沙都を裏切るようなことをするはずないから」


 わたしには、わかるよ。だって、遠くからだけど、ずっと見ていたから。こんなに曇りのない目の小日向くんが、そんなことをするわけがない。だけど。


「…………」


 何か不本意だったのか、小日向くんは黙ったまま。


「小日向くん?」


「前から、そうだよね?皆川さん」


 ふと、以前も感じた小日向くんの冷たい光を見た気がした。


「何のこと?」


 急に不安に襲われたけれど、何も気がつかないふりをして、聞き返すと。


「いつでも、わかったような目で、ここにいる俺のことを見てた」


「あ……」


 まるで、わたしを軽蔑するかのように、小日向くんが嘲笑ちょうしょうを浮かべる。


「そんな……」


 ガタガタと震えだす体を抑えて、心を静める。


「わたしは、そんなつもりじゃ……」


 予想外の状況に対処しようと、どうにか笑おうとしたんだけれど。


「そういうの、寒気がするんだ」


 決定的な小日向くんのその一言に、わたしの神経は完全に機能しなくなった。


「違うの」


 小日向くんの目は、もう見れない。


「わたしは、ただ……」


 涙と嗚咽が邪魔で、ちゃんと話すこともできなくなってきた。小日向くんの言葉が、あまりにショックすぎて。でも、何か言わなきゃ。


「ここで、小日向くんを見つけたとき」


 途切れ途切れだけれど、何とか言い訳を紡いでいく。


「ただ、この場所を小日向くんと共有できたのが、うれしくて……」


 そう。純粋に、うれしかっただけなの。


「ねえ」


 そこで、小日向くんがいつもみたいに笑う。


「何……?」


 きっと、小日向くんは、わたしにここにいてほしくなかったんだ。だけど、今のわたしには、ここしか居場所が……。


「キスしようか? 皆川さん」


「え……?」


 いつの間にか、わたしの体に小日向くんの体が密着していた。


「や……」


 小日向くんの体温と胸の感触に、目まいがする。


「やめて、小日向くん」


 状況に対応しきれず、固まったままの体で、かろうじて顔だけ後ろに背ける。


「お願いだから、からかわないで」


 懇願するように、小日向くんのシャツの背中の部分をつかんだけれど。


「こっち見てよ」


 わたしが、小日向くんに逆らえるわけがない。


「目閉じて、皆川さん」


 決して、期待しているわけじゃない。言われるがままに、ギュッと目をつぶっただけ。頭の中で、そう必死に繰り返す。だけど。


「これで同罪だよ、皆川さんも」


 この上なく甘美な囁きと、閉塞された空間。嗅ぎ慣れている古い本の匂いと、慣れない人肌の熱。そんなものに、ゆっくりと意識が溶かされていく。


「小日向く……」


 キスがこんなに長いものだなんて、知らなかった。小日向くんの冷たい唇が少し離れるたび、わたしは我慢できずに声を漏らす。


「小日向くん、好き……」


「素直で可愛いな、皆川さん」


 この先のことも、家のことも、沙都のことも、もう何も考えられない。このとき、わたしは幸せだったの。




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