第9話 閉じ込めた想い



 お母さんの機嫌が、前にも増して悪くなってきた。この前の夜の効力が薄れてきたのかもしれない。


 あんなことをしてるにもかかわらず、お父さんは相変わらず家に、この家に帰ってこない。だから、なおさら、落胆も大きいんだろうな……と、そんなことを考えてしまう自分まで汚く思える。


「どこに行くの?」


「友達の家」


 試験まで、あと一週間という土曜日、わたしは沙都の家に呼ばれていた。


「あなた、勉強はちゃんとしてるの?」


「今日は、試験勉強しに行くから」


「それにしては、ずいぶんと服にまで気を遣うのね」


「べつに、そんなこと……」


 見透かされているようで、ドキッとした。小日向くんも来ると思ったら、どうしても気遣わざるをえなかった。


「何考えてるんだか」


「行ってきます」


 いつものお母さんの冷笑を背に、外へ出る。


 お母さんは美人で、男の人に言い寄られることも多かったらしい。外見の印象は今でも昔と変わらないから、見ればわかる。


 顔だけなら、本当はお母さんに似たかった。きっと、誰からも可愛いと思ってもらえる。いくら、このわたしが一生懸命に服を選んだって、どうにもならないとわかってはいるんだけれど……。





「いらっしゃい、波流ちゃん」


 いつもの笑顔で迎えてくれる、沙都のお母さん。


「陽くんも、もう来てるわよ。勝手に入ってね」


「おじゃまします。あの、これ……」


 沙都のお母さんに、駅前の店で買ったフルーツケーキを渡す。


「あら、いいのに」


 沙都のお母さんは、そう言ったあと。


「でも、うれしいわ。ありがとう。波流ちゃんは気が利くのね。気がつきすぎるくらい。わたし、フルーツケーキは大好物なの」


 必ず、そんな言葉をわたしにかけてくれる。


「あとで、お茶でも持っていくわね」


「ありがとうございます」


 なんだか軽い気持ちになって、階段を上る。


 沙都は、わたしを認めてくれる初めての友達で、小日向くんにも彼女の友達として、普通に接してもらえる。これ以上、何も望むことなんてない。


 小日向くんへの想いは、憧れとして、わたしの胸の中で……。そんなことを思いながら、ノックとほぼ同時に沙都の部屋のドアを開けると。


「あ、波流ちゃん……!」


 わたしの視界に飛び込んできたのは、沙都と小日向くんの……。


「ほら、陽くん! だから、波流ちゃん、もう来るよって言ったじゃん」


「ごめんね、皆川さん」


 あわてる沙都と、顔色ひとつ変えないで、いつもと同じ小日向くん。ドアを開けた瞬間の二人の距離と体勢。明らかに、キスか、それ以上のことをしていたよね。


「あ、ううん……大丈夫だよ、全然!」


 本当は全然大丈夫なはずがないけれど、そう答えるしかない。びっくりした。二人のそんな現場を目の当たりにして、わたしの胸のドキドキは、しばらく収まりそうにない。


「こっちに座って? 波流ちゃん」


「あっ、うん」


 あまり大きくない、沙都の部屋のテーブル。隣が沙都で、向かいが小日向くん。


 ……わたしがいると勉強がはかどるから、来てほしいと言われたけれど。どう考えても、いない方がいいんじゃないのかな。


「波流ちゃん?」


「ううん。何でもない」


 のぞき込んできた沙都に返事をしてから、すぐに教科書とノートを出す。


 うん。やっぱり、早めに切り上げて、わたしは先に帰ろう。服なんか真剣に選んじゃって、わたし、何やってるんだろう?


「そうだ。陽くん、波流ちゃんの古文のノート、持ってきた?」


 と、沙都が小日向くんを見た。


「え?皆川さんの?」


「そうだよ。もう、波流ちゃんに返さなくちゃ」


「ああ。俺が持ってたっけ」


 わたしのノートが小日向くんに渡ってたなんて、知らなかった。


 ちゃんと、見やすくまとめられていたかな。字が雑なところもなかった?急にそんなことを考えてしまうけれど、小日向くんは全く気にも留めていないよね。とりあえず、ノートを受け取ったら、帰るタイミングを見計らって……。


「あ」


 そこで、自分のバッグの中を確認して、小日向くんが小さく声を上げた。


「そうだ。今、錬太郎のところだ」


「そうなの?」


 小日向くんの答えに、わたしと沙都も同時に声を上げた。


「持ってこさせるか」


 そう言って、バッグから携帯を取り出して、ボタンを押す小日向くん。


「ダメだよ、勝手に貸しちゃったら」


「いいじゃん。どうせ、隣の家なんだし」


「困るのは、波流ちゃんなんだからね」


 そんなふうに二人が言い合うようすを横目に、錬太郎くんの到着を待つ。嫌だな。また、わたしが好きで押しかけてるみたいに思われちゃう。


「ほら、これ」


 思ったとおり、ノートを手に部屋に入ってきた錬太郎くんは、わたしを見るなり、顔をしかめた。


「はい。ありがとね、皆川さん」


「あ、うん」


 錬太郎くんから小日向くんに手渡されたノートを、わたしが小日向くんから受け取る。スムーズに戻ってきて、よかった。と、そこで。


「何だよ? 感じ悪い」


「えっ?」


 錬太郎くんの言葉に驚いて、顔を上げる。


「せっかく、持ってきてやったのに」


「持ってきてやったって。おまえは借りてた立場だろ?しかも、勝手に」


 おかしそうに笑う小日向くんの言葉に、わたしも心の底から同調した。


「そうだよ。今のは絶対、おかしいよ。わたし、錬太郎くんには貸すとも言ってなかったのに」


 つい、言い方や表情もケンカ腰になってしまう。


「…………」


 そのとき、沙都からも小日向くんからも、視線を感じた。


「あの……どうかした?」


「なんか、そういう波流ちゃん、初めて見たから」


 目の前の沙都に、じっと見られる。


「あ……」


 この前、図書室で錬太郎くんに言われたことを思い出した。たしかに、さっきのわたしが、そのままの自分だった。錬太郎くんに対して、体裁をつくろうような態度が取れなかったから。


 でも、だからといって、沙都には意図的に本心をさらけ出さないようにしていたわけではなくて。


「あのね、沙都。わたしは……」


 どう説明しようか、言葉を探していたら。


「よかった」


「よかった?」


 遮るように沙都の口から出た言葉に、びっくりする。


「波流ちゃん、いつも言いたいことを言えてるのかなあって、心配してたんだよ」


「え……?」


 沙都も、そんなふうに見ていたの?


「いつも、一人で無理してるような感じがしてて。でも、わたしの気のせいだったみたいだね」


 ほっとしたように笑ってくれた、沙都。


「波流ちゃん?」


「あ、ごめ……」


 気がついたら、涙がこぼれれていた。


「ごめんね、波流ちゃん!そんなこと、わたしに言われたくなかった?」


 不安そうに、わたしの顔をのぞき込んできた沙都に。


「違うよ、沙都……違う」


 あわてて、ハンカチで涙を拭いながら、首を振る。


「どうして泣いてるのか、自分でもよくわからないんだけど……でも、うれしかったの」


「本当に? 大丈夫?」


 まだ不安そうな沙都と、なりゆきを見守っているようすの小日向くん。


 そして、どんな嫌味を言われるだろうと、そっと錬太郎くんの方に視線を移したら、意外にも錬太郎くんはどこか満足げで、それだけでなく、決して意地悪ではない笑顔を、一瞬だけ向けられた気がする。


 なんだか、これでいいんだって、わたしに言ってくれているようだった。


 ……それはもちろん、わたしではなく、沙都に対して、よかったという意味に決まっているんだけれど。


「ごめんね、本当に」


 もう一度、突然泣いてしまったことを謝ってから、ハンカチをしまった。


「つくづく、変な女」


「いいの。放っておいて、錬太郎くん」


 再び悪態を突き出す錬太郎くんから、教科書に目を移す。


 でも……でもね。本当に、少し変なの。錬太郎くんなんか嫌いなはずなのに、さっき向けられた笑顔を思い出すと、うれしくて。そして、そんな大事に思われいいてる沙都が、うらやましく思えたの。





 その日、錬太郎くんが教えてくれた予想問題のおかげで、苦手な数学も、いつもよりは解けた気がする。


「ねえ。試験、どうだった?波流ちゃん」


 思いきり、沈んだ表情の沙都。


「まあ、何とか」


「いいなあ、波流ちゃんは。わたし、どの教科も全然書けなかったよ」


「大丈夫だよ。補習さえ出れば、単位はもらえるから」


 今にも泣き出しそうな沙都が、可愛らしくてたまらない。


「他人事だと思って軽く言うけど、赤点ばっかりだと恥ずかしいんだからね」


「ごめん、ごめん」


 わたしの方は、テストが終わった開放感で、いつもよりは心が軽い。


「波流」


「何?」


 不意に呼ばれて、振り向く。学校で、わたしを『波流』と呼ぶ人は、一人しかいない。


「おまえ、どうせ、今日ヒマだろ?」


 当然のように聞いてくる、錬太郎くん。


「とくに、予定はないけど……」


「じゃあ、図書室のカードの整理、手伝えよ」


「どうして、わたしが?」


 理不尽すぎる要件に、思わず顔をしかめる。


「数学、教えてやったところ、当たっただろ? ちゃんと返せ」


 それを言われてしまうと、逆らえない。


「べつに、いいけど」


 素直に納得はできないけれど、そう返事するしかない。


「じゃあ、ホームルームと掃除が終わったら、図書室で……あ、沙都」


 そこで、自分の教室に戻りかけてから、沙都を見る錬太郎くん。


「ん?」


 沙都の大きな瞳が、錬太郎くんを見上げる。


「陽、日直の仕事が長引きそうだから、教室で待ってろって」


「陽くんが? 日直の仕事って、何だろう?」


「担任に雑用頼まれてたよ。蛍光灯の交換とか」


「背、高いもんね、陽くん」


 なんとなく、意識して二人を見ないようにしながら、会話を聞いていた。


「じゃあ」


「またね、錬太郎」


 もし、つき合っているのが沙都と錬太郎くんだとしても、全く違和感のない雰囲気だよね……と、そのとき。


「絶対に来いよ、波流。逃げるなよ」


「痛……!」


 ぼんやりしていたら、錬太郎くんの大きな手に頭をつかまれた。


「おおげさだな。力、そんなに入れなかったのに」


「嘘だよ。だって、すごく痛かったもん」


 そんな子どものいたずらみたいなことをした錬太郎くんに、またムキになりかけたんだけれど。


「…………」


 沙都の視線に、お互い言葉を引っ込めた。


「じゃあ、あとで」


 今度は、素っ気なく自分の教室に戻っていく、錬太郎くん。


「知ってる?波流ちゃん」


「何を?」


 意味もなく、錬太郎くんの後ろ姿をながめていたら、沙都が唐突に問いかけてきたから、わたしは聞き返した。


うわさになってるよ。波流ちゃんと錬太郎。錬太郎、わたし以外の女の子となんて、ほとんど一緒にいなかったでしょ?なのに、波流ちゃんとは最近よく話してるから」


「そ……」


 開いた口がふさがらない。


「ずっと近くにいた幼なじみだから、相手の女の子が嫌な子だったら、どうしようって思ってたけど」


 いったい、何を言っているの?


「わたしもね、波流ちゃんなら、いいかなって」


「ちょっと、沙……」


 そんなこと、真面目に言われても!


「あ。先生、来ちゃったね」


 何もなかったように、くるりと前に向き直る、沙都。噂だなんて、気が気じゃない。沙都の背中を見ながら、ため息をついた。





「本当に来た」


 図書室の扉を開けるなり、そんな錬太郎くんの反応。


「だって、錬太郎くんが、絶対に来いって」


 さっき、自分で言ったくせに。


「そりゃあ、そうだけど」


 今みたいに、ふっと笑った錬太郎くんの顔は……わたし、嫌いじゃない。


「わたしは、何をしたらいいの?」


 錬太郎くんに近づいて、手元をのぞき込む。


「ここにあるカード全部、貸し出し日順に分けられてるのをクラス別に並び替えんの」


「そっか。たしかに、一人じゃ大変そうだね」


 錬太郎くんだけだったら、半日がかりだ。


「じゃあ、やってみる。わからないことがあったら、聞くね」


 カードの山を手に取って、一枚ずつ振り分けていく。いいように使われてるだけなのは重々わかっているけれど、頼られているように感じるのが、ほんの少しだけ、うれしくて。


「ただの、お人よしだろ?おまえ」


「えっ?」


 もしかして、確信犯?


「気づいたの、最近だけど」


「いいの、べつに」


 わたしも開き直る。


「こういう何も考えないで没頭できる作業は、けっこう好きだから」


 嫌なこととか、よけいなことも考えないですむし。


「ああ」


 そこで、納得したように相づちを打ってから。


「……いつも、一人で何読んでんの?」


 自分の作業を続けながら、錬太郎くんが聞いてきた。


「あ、わたし?」


「言いたくないなら、いいけど」


「えっと……」


 どうしよう? 絶対、バカにされそう。でも。


「児童文学が好きなの」


 手を止めずに、普通に答える。


「児童文学?」


「うん。いろいろな国の童話とか」


 自分が別の世界にいるような気になれるから。


「童話……」


 錬太郎くんが、微妙な顔をしている。


「でもね、チェコの童話とか、最近は多方面で評価されてるものもたくさんあるし、大人が読んでも……」


 苦しまぎれに、錬太郎くんにとってはどうでもいいような言い訳を、夢中で考えた。だけど。


「教師とか、向いてるんじゃないの?」


「教師?」


 突拍子もない錬太郎くんの言葉に、わたしは目を見張った。


「この前の試験勉強のときも、沙都にも根気よく噛み砕いて教えてやってたし。なんか、合ってる気がする」


 そんなこと、考えたこともなかったけれど。


「適当すぎるよ、錬太郎くん」


 口では、そう言いながら、でも……と、そこで。


「…………」


 手に取ったカードに見入ってしまった。


「何?」


「ううん!」


 あわてて、指定の場所に差し込んだつもりが。


「そこ、三組。陽は四組だろ?」


「あ、そう……だよね、うん」


 たかが貸し出しカードで、思いきり気が動転している。


「そんなに好き?」


「……うん」


 少し考えて、素直にうなずいた。どうせ、全部わかっているんだろうから。


「でも、わきまえてるから。ちゃんと」


 錬太郎くんに念を押しておきたい。


「好きになってもらいたいなんて、思わない。一緒にいたいとも思ってない」


「…………」


「なんとなく、見てるだけでいいの。ただ、それだけで……」


 わたしの目に映る全てのものが、キラキラ輝き出すから。


「錬太郎くんも、わかるでしょ?好きって思う気持ちは、どうにもできないこと」


 言ってしまってから、よけいな口出しをしたことを後悔したんだけれど。


「……まあね」


 顔を上げて、わたしの目を見た錬太郎くんは、複雑そうに少し笑っていた。



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