第8話 縮まる距離と広がる距離
「……来てたのか」
「あ」
あわてて、読んでいた本を閉じた。
「すみません」
図書室の鍵を閉めにきた錬太郎くんに、敬語で対応する。
「もう、時間だから」
「今すぐ出ます」
急いで荷物をまとめて、なるべく錬太郎くんの顔を見ないようにしながら、ドアの方へ向かうと。
「待てよ」
錬太郎くんに呼び止められた。
「何?」
うつむいたまま、質問を返す。
「いや……」
めずらしく、はっきりしない錬太郎くん。
「べつに、好きで来てるわけじゃないから。今日は、いつも寄る図書館が休みだったから」
「ああ、陽が前によく行ってた?」
「べつに、小日向くんがいるから、通ってるわけじゃないよ」
わたしのことをくだらない女って言ったくせに、自分だって、そんなふうに全部結びつけてるじゃない。くやしいから、黙って下唇を
「ごめん」
「えっ?」
唐突に錬太郎くんが謝ってきたから、思わず顔を上げた。
「この前は言いすぎた。ちょっと、イライラしてたから」
「あ、うん……」
拍子抜けしながら、返事する。
だけど、やっぱり、沙都のことだよね。自分の好きな女の子が隣に住んでいるのに、自分の友達がそこに泊まってるなんて、誰かに当たりたくなる気持ちもわかる。
「わたしの方こそ、ごめんなさい。泊めてもらっておいて、お礼もまともに言わないで帰っちゃって」
「本当にね」
今も、そんなふうに悪態をつく錬太郎くんを、憎たらしいとは思う。
「でも、ありがとう。あのときは、錬太郎くんがいてくれたおかげで、すごく助かった」
こんなこと、絶対に本人には言えないけれど、報われない想いを沙都に抱き続けている錬太郎くんに、連帯意識も感じないわけではない。
「いつも、そうやってしゃべれよ。普通に」
「普通にって」
だって、それは。
「錬太郎くんが、先に嫌なことばっかり言うからでしょ?」
だから、いつだって、錬太郎くんとは素直に話せないだけで。
「そうじゃなくて」
図書室のドアに鍵を差し込みながら、錬太郎くんが息をつく。
「なんか、いつもヘラヘラしてるじゃん」
「え……?」
ドキッとした。
「何考えてるんだか、全然わかんない感じ」
淡々と続ける、錬太郎くん。
「見てると、沙都のこととかもバカにしてるんじゃないかと思う」
「そんなわけないよ」
絶対、そんなつもりじゃない。だけど。
「……きっと、クセなの」
「クセ?」
錬太郎くんが顔をしかめる。
「人に嫌われたくなくて、いつもあいまいに笑っちゃうの」
小さい頃から、お母さんの機嫌ばかりうかがってたから、知らず知らずのうちに、それが当たり前になっちゃっていたんだ。
「沙都のこと、バカになんかしてないよ」
また、涙が落ちてきそうになったとき。
「人に嫌われたくないって。思いっきり、俺に大嫌いとか言ってるのに?」
「それは……!」
あきれたように言ってくる錬太郎くんに、わたしはムキになった。
「それは、何だよ?」
「だから……錬太郎くんのせい、でしょ?」
「変な女」
「変なんかじゃないよ、わたしは……」
「変な女、名前、ハルっていうんだっけ?」
「……そうだよ」
一人で熱くなってもしようがないから、わたしも気を静めて、普通に答える。
「春夏秋冬の、ハル?」
「ううん」
小日向くんと初めて言葉を交わした日も、同じ会話をしたっけ。
「波と、流れる」
「ふうん。海好きな両親とか?」
「わからない。多分、関係ないと思う」
どこをどう考えたって、そんな突拍子もないことを言う錬太郎くんの方が、絶対に変わってると思う。
「まあ、どうでもいいや。ストーカー女と長く話すこともなかった」
「違うよ。ストーカーじゃないもん」
またストーカー扱いされて、抗議しようとしたら。
「ああ、波流ね」
「そう……だよ」
錬太郎くんが、あまりに自然に、わたしの名前を口にしたの。思えば、「波流」なんて、両親以外に呼び捨てされたことなかった。だから、錬太郎くんの「波流」という響きは、皮肉にも、わたしの記憶の中でいちばん優しかったんだ。
「ねえ、波流ちゃん」
いつものように、教室で沙都とお弁当を食べていたら、沙都が思い立ったような表情で口を開いた。
「錬太郎と仲良くなったんだね」
「ええっ?」
仲良くなるも何も、あれから、とくに話もしていないのに。
「どうして、そうなるの?」
全く訳がわからないよ……!
「錬太郎が、波流ちゃんのことを『波流』って言うようになったって、陽くんに聞いたから」
「あ……なんかね、わたしの名前、最近やっと知ったみたいで」
あのときの図書室での会話を思い出して、説明する。
「そうなの?」
「うん。ただ、それだけの話だと思うよ。名字とか覚える気もないんだよ、きっと」
小日向くんから聞いたということは、小日向くんもそんなふうに思っていたりするのかな……と、そこで。
「そっかあ」
なんとなく、沙都は安心したように笑った気がする。
「……そういえば」
少し、ためらってから。
「沙都、小日向くんのお母さんに会ったことある?」
何でもないことのように、沙都に質問を投げかけてみる。タイミングを見計らって、聞いてみたかったこと。
「ないよ。陽くん、家に誰もいないときしか、わたしのこと呼ばないもん。なんで?」
「ううん。なんとなく、どんな人なのかなと思って」
ずっと気になったままでいたけれど、本人に聞けるような関係でも雰囲気でもないから。
「んー……けっこう、いろいろと干渉してくる感じかもしれないな」
「干渉?」
「うん。よくわからないけど、早く家を出たがってるんだよね、陽くん」
「そう……」
それだけでは、小日向くんの言っていた、親に恵まれなかったという言葉の意味はわからない。だけど。
「でも、そうすれば、いつでも二人で会えるしね。昨日も、ちょうど話してたんだよ」
「……そっか」
うれしそうに報告してくれる沙都を見て、また思う。小日向くんはもう、とっくに抜け出ているんだ。どんなふうに育ってこようと、沙都と未来の方を見てるんだ。だから、書庫で会うこともなくなったんだね。
残る共通点は、ハルという名前だけ。
……わたしも、いつか脱け出せる日がくるのかな。家のことなんかか関係ないって、笑って返せるくらい。
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