第6話 長い夜
「おかえり、波流」
「あ……ただいま」
なんだか、お母さんの機嫌がいい。
「お母さん、あのね」
よかった。これなら、渡しやすい。
「誕生日おめでとう。おいしそうなケーキ、買ってきたよ」
どうせなら、少し奮発してみようと思って、上に繊細な飴細工があしらわれた綺麗なチョコレート・ケーキ。お母さんと、わたしの分。
「あら、ありがとう」
野菜を刻みながら、めずらしくお礼を言われた。
「今、冷蔵庫がいっぱいなの。空けたら入れるから、そこに置いてくれる?」
「わかった」
お母さんの声がいつもと違って、弾んでいる。これなら、あとで二人で食べられそう。
「夕食の準備ができたら、呼ぶわよ」
「うん。手伝うことがあったら、言ってね」
返事をしてから、階段を上った。
ねえ、沙都。わたし、素直に沙都の言うこと聞いてみて、よかったよ。どんなお母さんだって、自分のお母さんだということには変わりないし。こんな小さなことなのに、うれしいと思えるんだ。
そんなふうに、わたしは思っていた。まだまだ、現実というものを知らなくて。
「波流。できたわよ」
お母さんに呼ばれて、ダイニングの方へ向かったら、わたしの買ってきたケーキの箱は、わたしが置いたときの状態でカウンターの上に載ってまま。
「どうかしたの?」
「……ううん」
気がつかないふりをして、テーブルに向き直った。食べる物には人一倍こだわる人なのに、ケーキの存在は忘れちゃっているんだ。
こんな温かい部屋に置きっぱなしにされていたら、あの飴細工とチョコでコーティングされた表面の部分が溶けてしまって、もう感動も何もないかもしれない。
「ごちそうさまでした」
食べ終わったわたしは、箸を置いた。
「あら。もう、いいの?」
「うん」
でも、それでも、今日くらいは、お母さんとケーキを食べたい。
「わたし、紅茶入れるね」
なぜか、そわそわしているように見えるお母さんを気にしつつ、料理のお皿を下げて、お湯を沸かす。
その間にケーキの準備をして……と、ケーキの箱を手に取ったとき、不意に来客のチャイムの音がした。はっとした表情でお母さんが立ち上がり、わたしを突き飛ばすようにして、玄関へ駆けていく。
「あ……」
わたしの手から、滑り落ちた箱。それに気づきもしないで、玄関ではしゃいだ声を上げている、お母さん。
不自然に思うくらい、お母さんの機嫌がよかった理由が、やっとわかった。今日は、お父さんが帰ってくることになっていたんだ。
そっと箱の中をのぞいてみたら、想像どおり、全く原型を留めていないケーキ。
最初は何個だったのかさえ、もうわからない。
「ひさしぶりだな、波流」
悪びれることなく、脳天気に後ろから声をかけてきたのは、一ヶ月以上も家に寄りつかなかった、わたしのお父さん。
「どうしたんだ? 親の顔、忘れたわけじゃないだろ?」
「…………」
べつに、恨んでるとか、そういうんじゃない。ただ、単に言葉が出てこないだけ。
「愛想がないの、この子。いつも、こんなよ」
お母さんの浮かれた声が、どこか遠いところから聞こえてくる気がする。
「思春期ってやつか」
「そうなんじゃない? それより、お腹空いてるでしょ?」
「ああ。うまそうだな」
当たり前のようにテーブルに着く、お父さん。そんな意味のわからない光景に違和感をもっているのは、わたしだけ。
「部屋で勉強してらっしゃい、波流」
「……うん」
最初から、お父さんが来るとわかっていたら、沙都の家に泊まらせてもらったのに。何も罪がないのに、行き場を失ってしまったケーキ。箱を開けて、自分の部屋で食べてみたら。
「おいしい……」
その甘さに、さっきの出来事も、小日向くんに学校で言われたことも、少しの間だけ忘れることができた。
「…………」
机の上に突っ伏した状態で、目が覚めた。時計を見たら、十一時半。ケーキでお腹いっぱいになって、ベッドにも移動せず、そのまま寝ちゃったんだ。
あんな幸せそうなお母さんを見るのは、ひさしぶりだった。お父さんは、いつまでいるんだろう? お父さんにとって、お母さんとわたしという存在は、いったい何なんだろう?
……考えても、どうせわからないんだけど。そんなことを思いながら、着替えを手に浴室に向かって、廊下を歩いていくと。
「え……?」
お父さんとお母さんの寝室の前で、思わず足を止めた。何?この声。
今までに聞いたことがない、一定間隔にベッドの軋む音と、耳を覆いたくなるような、わざとらしい嬌声。それは、苦しそうでありながら、嫌というほど、媚びた響きに満ちていて……。
気持ち悪い。吐きそう。どうしたらいいかわからないけど、ここにはいたくないし、いられない。急いで部屋に戻ると、お財布だけ手に取って、わたしは外へ飛び出した。
いつのまにか来てしまっていたのは、小日向くんと来たことがある、沙都の家。携帯も持たずに出てきてしまったから、沙都にも連絡を入れられていない。
こんな時間に押しかけて、驚かせちゃうよね。でも、沙都なら……と、意を決して、玄関のチャイムに手をかけたとき。
「何してんの?」
「あ……」
錬太郎くん。隣の家から、わたしの姿が見えたんだ。こんな時間に来たところ、見られたくなかったのに。
「今日、沙都に誘ってもらったのを思い出して……」
冷たい視線に耐えきれなくなって、言い訳じみた理由を口にする。
「陽、いるよ」
「えっ?」
「そっち」
錬太郎くんが、沙都の家の方を指差した。
「小日向くんは、錬太郎くんのところに泊まるんじゃなかったの?」
「そんなわけないだろ?」
反射的に出てきた質問に、軽蔑したような表情で錬太郎くんが返してくる。
「そっか……」
考えてみたら、小日向くんは一人でいる沙都の方に行くに決まっている。どうして、そんなことに頭が回らなかったんだろう。どうしよう? 全然、考えていなかった。
「どうすんの?」
ため息をついた錬太郎くんに、あきれた口調で聞かれた。
「もう、終電ないよ?」
「…………」
そうだった。来るときだって、ぎりぎりの時間で……。
「おまえ、本当にイライラする」
「え……?」
いきなり、錬太郎くんが沙都の家のチャイムを押そうとする。
「やめて」
思わず、錬太郎くんの腕をつかんだ。
「何だよ? 陽を俺の家に泊めて、おまえが沙都のところに……」
「大丈夫だから」
嫌だ。だって、ただでさえ、小日向くんにあんなふうに思われてるのに。
「何が大丈夫だよ?」
「始発まで、駅前のファミレスにいるから」
「あ?」
錬太郎くんのイライラが最高潮に達しているのは、わかったけれど。
「いちいち、面倒なこと言ってんなよ」
「やだってば」
今度は、錬太郎くんの腕を引っ張る。
「いいかげんにしろよ。これ以上、迷惑かけるなよ」
「かけたくないから、言ってるんじゃん」
「話にならない」
吐き捨てるように、錬太郎くんに言われる。
「勝手にしろ」
「勝手にするよ」
意味もなく強がったんだけれど、錬太郎くんは、そんなわたしを見透かすような目で見て、無言で自分の家の方へ戻っていった。
どうしよう? やっぱり、心細い。だいたい、わたしは、なんでここにいるの? どうして、わたしにだけ、居場所がないの?
こんなところにずっといるわけにもいかないのに、足も動かないし、頭も働かない。それに、ファミレスに行こうにも、駅前にはガラの悪い人たちがたくさんいた気がするし、大丈夫かな……と、ためらっていたら。
「…………!」
沙都の家の中から、慌ただしく、誰かが階段を駆け降りるような音。きっと、沙都だ。
錬太郎くんが電話で知らせたんだ。とっさに、わたしは駅に向かって、まっすぐに走り出していた。
駅前のロータリーを目にして、立ち止まる。やっぱり、なんだか恐い。一人でこんな時間に出歩いたことなかったし、それに……と、そのとき。
「や……!」
いきなり、後ろからつかまれた腕に、息が止まりそうになった。
「来いよ」
驚いて、見上げると。
「錬太郎く……」
「早く」
何も考える余裕もなく、強引に錬太郎くんに引っ張られていた。
「今、ねらわれてたよ」
手を離すなり、錬太郎くんが淡々と言う。
「ねらわれるって?」
「おまえの横に、ずっとつけてた車。おまえを中に引きずり入れようとしてた」
「本当……?」
そんなの、全然気がつかなかった。
「何考えてるんだよ?」
「何って……」
今頃になって、体が震えてくる。
「ほら。行くぞ」
「どこに?」
錬太郎くんのあとを追うように、歩く。
「沙都の家に決まってるだろ?」
「…………」
震えと同時に、足も止まった。
「おまえ、これ以上……」
わたしが立ち止まったことに気づいた錬太郎くんが、こっちを向く。錬太郎くんの気持ちは、よくわかってる。わたしのせいで、こんな時間に振り回されて、いい迷惑だって。だけど、それでも。
「嫌だよ」
わたしは首を横に振る。
「小日向くんに、嫌われたくない……」
抑えられなくなって、涙がこぼれてきた。黙ってしまった錬太郎くんの顔は、恐くて見れない。でも、今度こそ、どうしたらいいのかがわたしにもわからない。
「……わかったよ」
錬太郎くんのあきらめたような声が聞こえた。
「え……?」
涙をこらえながら、顔を上げる。
「うちに泊まれ」
「そ、そんなこと……!」
予想もしていなかった錬太郎くんの言葉に、急に我に返る。
「これ以上何か言ったら、さっきのやつらのところに置いてくよ?」
「でも、わたしは沙都みたいに可愛くないし、錬太郎くんの気のせいかもしれないよ。だから、べつに……」
今までに、わたしが錬太郎くんに言われてきたことを思い出して、とっさに口から反論が出てきた。
「顔なんて、関係ないよ」
「あるでしょ?」
わたしは、男の子に声をかけられたことなんて、一度もないし。
「ないよ。頭から紙袋被せれば、顔なんか見えないだろ? 知らない? そうやって
「…………」
声が出ない。
「おまえがどうなろうと俺はどうでもいけど、後味の悪い思いをするのは、陽と沙都だろ?」
わたしを見ないで、錬太郎くんは歩調を速める。
「それは……」
錬太郎くんのことなんて、大嫌いなのに。錬太郎くんだって、わたしのことが嫌いで。それなのに、わたしは今、錬太郎くんを頼って、あとについていってる。
錬太郎くんは大人だ。わたしより、ずっと……。
「この部屋、使えよ」
「あ……うん」
通されたのは、片づいた客間っぽい和室。
「礼くらい、言えないの?」
「あ、えっと……」
自分でも展開についていけてなくて、頭が空っぽになってしまっていた。
「まあ、べつにいいけど。ストーカー女と話す必要もないし」
「えっ?スト……」
そんなふうに思われているの?
「今日だって、本当は陽が目当てだったんだろ?どうせ」
「違う! わたしは……」
言いかけたとき、ふと、横の窓から沙都の家の照明が消えたのが見えた。無意識に、沙都と小日向くんの状況が思い浮かんで、少し前に自分の家の廊下で聞いた、声と振動の音がよみがえる。
「ごめんなさい。ありがとう」
体裁だけ整えるように、お礼を言った。部屋を貸してもらっておいて、図々しいけれど、一人になりたい。そして、わたしなんて、そのまま消えちゃえばいいのに。
「…………」
無言で
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