第5話 焦燥
それにしても、まさか、小日向くんといる時間がこんなに増えていくなんて。
「次の訳は?皆川さん」
「あ、えっと……」
「陽くん。もう、チャイム鳴っちゃうよ?」
「あと、一行だけ」
頬をふくらませる沙都を軽く無視して、悪びれもせず、小日向くんは英語の教科書をわたしの前におく。
「そのページ、うちのクラスは飛ばすんだよ?」
「今日、俺回ってきそうなんだよ。我慢してて、沙都」
本当に、仲良さそう。こんな二人のやりとりもさすがに慣れてきて、普通に微笑ましく思えるようになっていた。
「もう少し大丈夫だよ、沙都」
やっぱり、人に自分を当てにしてもらえるのはうれしい。きっと、小日向くんじゃなくたって。
「陽くんが波流ちゃんに教えてもらってる間、つまんないんだもん。わたしだって、波流ちゃんと話したいことがたくさんあるのに」
「じゃあ、急いで訳しちゃうね」
むくれてる沙都が可愛くて、思わず笑ってしまう。
「どれ?小日向くん」
「ここ」
小日向くんの長くて綺麗な指の先に目をやった。
「…………」
「どうしたの? 難しいの? 波流ちゃん」
一瞬止まってしまったわたしを、沙都がまじまじとのぞき込んでくる。
「あ、ううん。大丈夫」
気を取り直して、返事した。
「……わたしは」
なるべく二人の顔を見ないようにして、訳し出す。
「わたしは?」
わたしの目の前でペンを走らせる、小日向くん。
「互いに愛し合う父と母をもった」
「……をもった」
復唱する小日向くんの手元を確認して、先を続ける。
「彼らは夫婦としても親としても立派で、彼らに愛されたわたしは幸せだった」
声にしたら、いっそう情けない気持ちになる。
「……なんか、沙都の家みたいだな」
手を止めて、小日向くんがつぶやいた。
「そう?」
恥ずかしそうに、沙都が聞き返す。
「そうだね。わたしも、そう思うよ」
そこは、小日向くんに同意する。
『幸せな子供時代を過ごしたかどうかが、その後の人格に大きな影響を与える』
例文は、そう締めくくられていた。なんだか、わたしのどこかに欠陥があると言われているみたい。それを教科書で実証されてしまったようで、気持ちが
「あ。そういえばさ、波流ちゃん」
「ん?」
沙都の明るい声で、我に返った。
「今度、波流ちゃんの家にも行ってみたいなあ」
「わたしの……家?」
予想外の言葉に、返事につまる。
「だめ? わたし、波流ちゃんの部屋、見てみたいの。めずらしい外国の古い本とか、たくさん……」
「ごめん」
つい、乱暴に遮ってしまった。だけど、沙都をあんなお母さんと会わせられるわけがない。
「…………」
小日向くんまで、わたしをじっと見てる。
「や、あの……ね、散らかってるから。すごく」
よりによって、小日向くんの前で、なんて最悪な理由を考えついちゃったんだろう?
「やだ、波流ちゃん。平気だってば、そんなの」
無邪気に、おかしそうに笑う沙都。
「お願い。料理上手なお母さんにも、会ってみたいなあ」
「だから、だめなんだってば。同じこと、何度も言わせな……」
口にしてから、すぐに後悔した。わたし、何も悪くない沙都に、なんて言い方をした? 沙都は、わたしの家の事情なんか、何も知らないのに。
「ごめん、沙都。今のは……」
「ううん。わたしが悪いんだよ、波流ちゃん」
悲しそうに、沙都がわたしを見る。
「波流ちゃん、ごめん。わたし、人の気持ちがわからないって、よく言われるの。だから……」
そして、言葉をつまらせると、立ち上がった沙都は教室をあとにしてしまった。
「沙都……!」
沙都を傷つけた。すぐに、あとを追いかけようとしたら。
「皆川さん」
小日向くんに手をつかまれた。こんな状況なのに、意識が小日向くんに触れられた部分に集中する。
「いいよ、俺が行くから」
ゆっくりと手を離すと、わたしの机の上の教科書とノートをまとめて、小日向くんも立ち上がる。そして、言った。
「でもさ、皆川さん。沙都には優しくしてあげてよ。ああ見えて、打たれ弱いんだから、頼むね」
「ごめんね。悪気はなかったんだけど、つい……」
小日向くんの口調も軽かったから、もう一度あとで謝れば大丈夫だろうと、わたしもそれほどは心配しないでいたんだけれど。
「ねえ、皆川さん」
教室を出かけた小日向くんが、振り返った。
「何……?」
なんだか、小日向くんの目の中に冷たいものを感じた気がした。
「沙都は、
「あ、うん……」
突拍子もなく聞こえたけれど、とりあえず相づちをうつ。
「だから、人の顔色をうかがうような女には、させたくないんだ」
「…………」
「あ。訳、ありがとう。じゃあ」
「……うん」
かろうじて、返事をした。
今、小日向くんが言った人の顔色をうかがうような女って、もしかしたら、わたしのこと? そういえば、小日向くんはいつか、わたしは沙都と正反対だって……。
「ねえ」
「えっ?」
聞き覚えのある声のする方を見ると、そこには錬太郎くんが立っていた。
「沙都、いる?」
「沙都は……」
心臓が痛くて、うまくしゃべれない。
「いない、今」
やっとの思いで答えたんだけれど、錬太郎くんがわたしをじっと見てくる。
「あ……沙都に伝言があるなら、伝えておくけど」
「何?」
「何って。べつに、何でもないよ」
錬太郎くんがわたしを嫌ってることは、とっくに承知している。わたしだって、嫌い。でも、今だけは放っておいてほしい。
「何でもないってこと、ないだろ? ようすがいつもと……」
錬太郎くんが言いかけた、そのとき。
「波流ちゃん」
戻ってきた沙都に、呼ばれた。
「ごめんね、波流ちゃん。きっと、わたしが無神経だったんだよね?」
「違うの! わたし、お母さんとケンカ中だったから、それで……」
今、とっさに考えた嘘。本当だ。わたしは、いつもこんなかもしれない。
「なんだか知らないけど、くだらない」
「うるさいな、錬太郎は。相変わらず、口が悪いんだから」
横から口を出した錬太郎くんを、沙都がたしなめる。
「わたしの教室まで、何しにきたの?錬太郎」
「俺の辞書、返せよ。朝持ってったやつ」
「そっか! ごめん、忘れてた」
舌を出して、沙都はロッカーの扉を開けにいく。とにかく、沙都が戻ってきてくれてよかった。
また錬太郎くんと目が合ったけれど、話すこともないから、そのまま自分の席に戻って、次の授業の準備を始めた。わたしに何か言いたそうにしていたように見えたのは、気のせいだよね。
「早く仲直りした方がいいよ?波流ちゃん」
帰り際、心配そうな顔の沙都に声をかけられた。
「仲直り?」
「お母さんと」
「そっか。そうだよね」
あの場で適当に答えたこと、すっかり忘れていた。
「わたしね、お母さんとケンカすると、ケーキを買って帰るの」
「ケーキ?」
「うん。一緒に甘い物食べて、それで仲直り」
そのようすが、すぐに想像できる。
「同じ家の中にいるのに、ずっと気まずいなんて、嫌じゃない?」
「うん……」
あいまいに返事するしかない。沙都のお母さんみたいな人なら、そう思えるんだろうな。
「ね? 波流ちゃん。待ってるより、自分から行動を起こした方がラクだよ」
「ケーキ……か」
そういえば、今日はお母さんの誕生日だ。偶然、ケーキという単語で思い出した。
ケーキひとつで、お母さんとわたしの関係が変わるわけない。そんなこと、わかっている。だけど、もしかしたら、ほんの少しは、お母さんの寂しさも紛れたりするのかもしれない。
「じゃあ、買っていってみようかな」
「うん。試してみて、波流ちゃん」
「ありがとう。いろいろ、考えてくれて」
最初に抱いた印象と同じ、沙都の天使みたいな笑顔を見たら、小日向くんが言ってたことが、また思い出された。
「あ。でも、そっかあ」
そこで、一人考えて、残念そうな声を出す沙都。
「どうしたの?」
「今日ね、うちと錬太郎のお父さんとお母さんが、四人で一泊旅行に行ってるんだ」
「そうだったんだね」
本当に、家族ぐるみのつき合いなんだ。
「だから、波流ちゃんに泊まりにきてもらえないかなあと思ってたの。でも、大事な日だもんね。今日は我慢しなくちゃ」
沙都が自分に言い聞かせるように、最後にそう締めくくった。
「うん。機会があったら、また誘ってね。今日は、沙都のアドバイスどおり、頑張ってみる」
誕生日くらい、きっと誰かに側にいてほしいはず。お母さんに対して、こんな気持ちになったことは今までになかった。でも、沙都の話を聞いていたら、寂しいのはわたしだけじゃないのかもって、自然に思えたから。
「わたしより……小日向くんは、呼んだりしないの?」
小日向くんのことを口にすると、どこか心がチクッとするけれど、本来そっちが当然のことのような気がする。
「ご近所さんの目とかあるから、一応ね。陽くんは、錬太郎のところに泊まるかもだけど」
「そっか」
少し恥ずかしそうに答えた沙都に、意味もなく、ほっとする。
「お母さんと仲直りできたか、夜にでもメールで教えてね」
「うん。ありがと」
笑って手を振り教室を先に出る沙都に、わたしも笑顔で応える。
しばらく、ぼんやりと窓の外に目をやってたら、沙都と小日向くんと錬太郎くんの三人が、沙都を真ん中にして、楽しそうに話をしながら歩いていくのが見えた。
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