第二章 薫 第5話

 それから数日、薫は小骨が喉に引っかかったような気分で過ごした。残されたのは文字化けした手紙。

 そもそも、夕羽とはそれほど親しい間柄だったとはいえない。そんな自分に相談しようと思うくらいなのだから、よほど困っていたはず、と思う。

 しかし、薫には住んでいたマンションも中野区ということしかわからなかった。


「うーーーん……」

 薫は大学にいる時は、たいがい叔父の雄嵩のゼミ室に入り浸っている。いつもは本棚から適当な本を取り出して読んでいることが多かったが、今日は長机に突っ伏していた。青色に染めた髪は、色が抜けて少しくすんだ色になっている。

 そこへ、後輩の幡多野真子はたのまこが入室してきた。

「こんにちはー。……薫さん、どうしたんですか?」

「んーー」

 珍しく元気のない様子に、真子は眉をひそめた。

「大磯から帰ってきてからずっとそんな感じだ。亡くなった安西さんのことが気になるんだと」

 ゼミの窓際にある教官用のスペースがある辺りから、雄嵩の声が聞こえた。


 雄嵩の周囲やゼミ室の壁は背の高いラックに囲まれていて、民俗学に関する専門書から図録、古地図、謎の木彫りや剥製のようなものもあり、相変わらず混然としていた。教官用スペースがある辺りはまるで紙の本と資料に埋まっているように見える。

 雄嵩の言葉を聞き、「ああ……」と真子も顔を曇らせた。

 真子は薫の同じ女学校出身で、嘘か本当か薫を追って大学まで付いてきた。真子も夕羽とは顔見知り程度に交流があったという。連絡を仲介したのも真子だったので、訃報を聞いて驚いていた。

「何が気になっているんですか」

 真子は向かいの席に腰を下ろす。ゼミ室中央にある白い長机は、この部屋で唯一きれいにスペースが空いている場所だ。ここだけはゼミ生が自主的に机の上の整理をする。放っておけばあっという間に書籍や書類で埋まってしまうからだった。


「夕羽が私に宛てた手紙。何を相談したかったのかなって」

「あの不気味な手紙ですか? でも、文字化けしてて読めませんでしたよね?」

「うん、全部は読めなかった。でもわかったこともある」

 そう言ってカバンからタブレットを取り出すと、画像保存していた手紙を表示した。

「この『●』は、化けて解析できなかった部分だけど、日本語って前後の類推で読めるから、意味はこんな感じだと思う」

 そう言うと、表示されている手紙の一部分を示して、同じ部分を書いたリング綴じのメモ帳を開いた。


『そ●《の》部屋が変なの

 初めは●《少》し部屋が重苦しくて●《頭or腹?》痛が急にひどくなって、引っ越した●かり●から《ばかりだから?》慣れてな●《い》と思って

 でも違っ●《た》

 引っ越してから、変なことが起こるの』


 黒丸になっている部分に、文字を当てたものを見せる。

「――だいたいこんな感じで、読めるところだけ見ると、やっぱり引っ越した部屋に違和感があったみたい」

 真子はメモをのぞきこんだ。確かに文章になっている。脇には矢印やいくつかの候補の文字が細かく書かれていた。

「あれからずっと解読していたんですか?」

 真子は呆れながらも驚いた。ここまでのめり込むのはかなり珍しい。

「だって、この手紙は私に残されたものじゃない? せめて何を伝えたかったのか知りたいと思って」

「まあ、気持ちはわかりますけど。でも……」

「でも、何?」

「それを解いて、どうするんです? この調子だと多分、何となくこの手紙の内容がわかってきたと思うんですけど」


 薫は、のぞきこんできた真子と至近距離で目を合わせた。そのまま天を仰いで椅子の背に凭れる。

「……やっぱりそっち方面だと思う?」

「そっち方面が薫さんのおばあ様方面だとしたら、そうです」

 真子は頷いて、またメモとタブレットの手紙を見比べる。真子の言う、『薫のおばあ様方面』とは、いわゆる『心霊相談』のことだ。

 薫の母方の祖母は、花鎮神社の神主、女性宮司だ。多知花家は代々女性が一族を束ねている。本来は薫の母親が次を継ぐべきなのだが、祖母曰く「適正がない」とのことで、神職をしていた父が入り婿になり神社の補佐へ、母親は旅館の経営をする道に進んだ。

 花鎮神社は神事だけでなく、知り合いの伝手をたどってくる『心霊、開運、よろず相談』も密かに受けている。対応するのは祖母だけだ。祖母は『視える人』で、薫の曾祖父の代から相談事を受けていた。ただし、必ず信用している数人の知り合いからの相談のみで、それ以外は頑として受け付けていなかった。

 そのため、薫も神社のことは基本的に秘密にしている。真子は、その『信用している数人の知り合い』の親族で、たまたま薫の通っていた学校に入学した。それからの縁だ。


 薫が解読をしていくうちにわかったのは、どうやら夕羽は引っ越した先で、何らのトラブル、――恐怖を伴うもの――に巻き込まれていたようだった。

 なぜ薫に相談しようと思っていたのか。多分、実家が神社だから心霊関係に詳しいと思ったのか、対応できると思ったのだろう。実際は、祖母に通すことは難しいため、話を聞くくらいしかできなかったかもしれないけれど。それでも、間に合っていたらと思わずにはいられない。もちろんこんなことは刑事たちには言えなかったが。


 そして、まるでダイイングメッセージのように残された手紙を見ていると、ふと高校の制服を着た夕羽の、背筋を伸ばした後ろ姿が目に浮かんだ。顔は覚えているのに、思い出すのは誰も寄せ付けないような背中だった。

(あの時も、独りで抱え込みやすい、気の張った後ろ姿だと思ったな)

 高校時代の薫と夕羽の思い出はそう多くない。スキー教室で同じ班になったのはその最たるものだった。高校二年生の冬、長野の菅平すがだいらでの四日間をぼんやりと思い浮かべる。数日を経て旅行から帰ってきてからは、期末に選考別のクラス替え、受験とほとんど交流がなかった。

 手紙を前に物思いに耽る薫を見て、真子は少し考え込んだ後で声を掛けた。

「……先輩、そんなに気になるなら一度安西先輩のご実家に行ってみます?」

「――え? 何?」

 意識が高校時代に向いていた薫は、慌てて聞き返す。


「安西先輩の直前の状況とか、ご実家との関係とか、全然わからないままですし。警察からもう少し詳しく話を聞いているかもしれません。まあ、結局わからないかもしれませんけれど。でも早めに御霊前にはご挨拶したいですし」

「……真子、夕羽の実家知ってるの?」

「うちの母、高校のPTAの役員やってたので名簿残ってるんじゃないかな。安西先輩のお母様も、確かやっていたと思います。調べてみますね」

 真子はそう言うと、席を立った。

「今日はバイトもないですし、このまま家に帰って聞いてきます」

 薫は驚く。

「それはありがたいけど……。真子、ゼミに用事があったんじゃなかったの?」

「そりゃ、先輩が元気ないって風の噂に聞いたので、先輩のファンとしては心配で顔を見に来たんですよ」

 にっこり笑いながらゼミ室を出ていった。


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