第一章 303号室 夕羽 ~帰る場所がない女性の話~4

【悪夢】

**

 気が付くと、夕羽はどことも知れない山の中をゆっくり登っていた。

 足元は、大きめの石が敷き詰められて階段状になっている。周りは竹林になっていて、自然の倒木もあった。周囲の木はほとんど闇の中にあるが、登山道のようになっている道の脇にはいくつかの灯篭が、ほのかな光を投げているおかげで、行き先がわかる。


 しかし、なぜ上っているのか、どこに向かっているのかわからない。

(これは夢かな)

 何となくそんな気がしながら、足を止めて前方をみると少し先が拓けていて、より明るい。

(あそこに向かうのか)

 漠然とそう思い、また山道を登る。

 ぼんやりと視線を下げてみると、どうやら白く丈の短い着物のようなものを着ていた。なぜか時代劇で見たような古臭い着物に思える。山に入っているのに、なぜか裸足で、足の裏に土と岩の冷たさを感じて寒々しい。

 しばらく明かりに向かって上っていると、唐突に拓けた場所に出た。


 そこは山の中腹に突然できたような広場で、見回すと恐ろしいほどの巨岩と岩壁に囲まれていた。巨岩が斜めに折り重なっていて、どうして立っているのか不思議な角度に見える。

 周りは誰もいないが、これから神事が行われるかのように篝火が焚かれ、白木の鳥居と祠のようなものがある。木でできた台の上には白い器と葉のついた枝が置いてある。

 巨岩の下に立つと、谷から湿った匂いを含んだ風が舞い上がってくる。川が近いのかもしれない。その風の流れを目で追うと、鳥居の奥に三角形の巨大な岩があるのが見えた。

 空気が清らかで、教会や神社のような場所だった。斎場というのだろうか?


 するとふいに、背後からたくさんの人が低くうめくような声が聞こえてきた。


 オオオオ……

 オオオオ……


 重なり、岩に反響し、大きく小さく揺れながら絶え間なく響いてくる声に、言い知れぬ恐ろしさを感じて夕羽の首の後ろが粟立った。

 しかし、どこに行けばいいのかわからない。後ずさった背後には、岩壁が退路を妨げる。固く冷たい感触を感じた。

(どこにも逃げられない)

 震えながら壁沿いに進むと、低い声が急に強く大きく変わった。


 アアアアア……

 アアアアア……

 オッオッオゥゥゥ……

 オッオッオゥゥゥ……


 ほとんど叫ぶような声は、大小に節を付けながら山を走り、谷間全体まで響いて全方位から迫ってくるようだった。夕羽は耳を塞いだ。頭が割れそうな声に恐怖を感じる。

(――やめて‼)

 耳を塞いで蹲ると、急に静かになった。

 同時に、目の前で何か重いものが叩きつけられた音がして身を竦め、恐る恐る顔を上げる。


 音のした方を見ると、祠の前の岩場に人が倒れていた。白装束を血だらけにし、ぴくりとも動かない。

 慌ててその人の元へ駆けていくが、足がもつれてうまく動かない。

 それは、頭上の巨岩から身を投げたらしい。白装束を纏った長い髪の少女だということがわかった。白装束は紅く染まり所々破れているようにも、刺されたようにも見える。

 血は緩やかに石の間から土へ染み込み広がっていく。

 少女の顔は少し呆けたような、驚いたような表情で空を見上げていたが、その目は何も映していないことは明らかだった。


 夕羽は恐怖と混乱で小刻みに震えながら立ち尽くしていた。

 静寂が満たす空間は、もはや清浄とは程遠い、生臭い血の匂いで満ちていた。

『――れた……』

 ふいに何か聞こえた気がして、周囲を見回す。

『――け……た……』

『――けが……』

『――けがれた!』

『穢れた‼』

 周囲に反響して何者かの慟哭が谺した。

 さっきまで清浄だった周囲の空気は、重苦しい圧迫感とむせる様な腐臭で満ちていた。


 唐突に目が覚めて、夕羽は自分がどこにいるのか一瞬わからなかった。

 心臓が痛いほど脈打っている。走った後のようにせわしなく息をしていて、手のひらに爪が食い込んでいた。

(――何か、とても怖い夢だった気がする……)

 目が覚めてみると、何がそんなに恐ろしかったのかわからない。ぼんやりと覚えているのは山の上の斎場のような場所と大きな声、大量の血、誰かの慟哭がとても恐ろしかった。

 悪夢によくありがちだが、騒ぐ心臓だけが危機感のような恐怖を伝えてくる。あまりに怖かったせいか、目が冴えてしまい眠れる気がしなかった。

 夕羽は大きく息をついて寝具にくるまり、薄暗い部屋を見ながら、夢の内容を思い出して夜明けまでの短い時間を過ごした。


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