第一章 303号室 夕羽 ~帰る場所がない女性の話~5

 夕羽自身はそれほど怖い話が好きだとか、オカルトに精通しているということはない。特に霊感があるなどと感じたこともない。そのため、よくわからないことをむやみに怖がることも昔からあまりない方だった。学生時代に友達とちょっと盛り上がる、くらいは経験があっても、幽霊を信じてはいないのだと思う。見えないモノよりも、人間の方がよほど厄介で恐ろしいとこれまでは考えていた。

 しかしこの部屋に引っ越してきて、少しずつ何か不自然なことが起こっているのはわかる。それは気味悪いのだが、そもそもどう対処したらいいのかがよくわからない。


 でも、あの木下の言葉が気にかかっていた。

 ――できるだけ早く、引っ越したほうがいい。

 一度部屋に来ただけで忠告めいたことを言われるなんて、普通は変な人だと思うだろう。でも、冗談を言っているようには見えなかった。


 集中しきれない仕事をなんとかやり過ごして、その日、いつもより早めに退社した夕羽は、鬱々と悩みながら仕方なく部屋に帰った。

 食欲は湧かなかったが、何か温かいものを飲みたくなって薬缶を火にかける。湯が沸く少しの間を椅子に座ってぼんやりと考え込んだ。


 誰かに相談したいと思い、ふと実家にいる母親のことが頭に浮かんで、すぐに諦める。

 夕羽の母親は気が弱く、また病気がちな人だった。父親は口数が少ない人で、出張が多かったため、夕羽と弟の麻日あさひはよく母親を手伝って家事をしていた。

 朝は元気に見えても、夕羽と麻日が学校から帰宅すると頭痛や微熱で動けなくなっていることがよくあった。だから、夕羽は小学生の頃から一通りの家事がこなせた。 幸い、夕羽も麻日も虚弱な体質は受け継ぐことはなく、むしろ元気で丈夫な方だったから、母親を助けながら、あまり心配をかけないようにする術が身に付いた。


 姉弟で母親を助けてきたつもりだが、母は弟の方を可愛がっていた。母にとって優秀な男の子は、大層自慢なのだろう。

 父は家にいたことがそもそも少なく、何かを相談した記憶がない。母もほとんど話題にしたことがない、休日にも家にいない父。

 外に女性がいるのではないかと気がついたのは高校生の時だった。その頃から父のことは夕羽の視界から消えた。


 母親に、夕羽が感じている不安について相談したら、どんな反応をするのだろう。

 煩わしさを感じさせると思うと、連絡することは憚られた。麻日もまだ高校生で、来年早々に大学受験を控えている。こんなオカルトじみたことを相談できる状況ではなかった。

 一方、高校や大学の親しかった友人とは、社会人になってから疎遠になってしまった。たまに連絡が来て飲みにいくこともあったがそれだけだった。むしろ会社のメンバーとの方が関わりは深い。

 専門学校時代に付き合っていた恋人は、社会人になって半年ですれ違い、自然と別れてしまった。もともと夕羽は淡泊な質で、あまり恋愛が得意ではないと自覚している。

 以来、異性と親しくするよりも仕事の方が楽しく、そのままだった。

(相談できる人がいない。家族にも友人にも話しづらい)

 夕羽はため息をついた。


 考え事をしていると、不意に沸騰した薬缶の音で我に返った。

 慌てて立ち上がって火を止めた。マグカップにインスタントコーヒーを入れて、薬缶から熱湯を注ぐ。

 マグカップから温かそうな湯気が立つのを眺めながら両手で持つと、フーッと何度か息を吹きかけ、シンクに寄り掛かったまま淹れたてをすすった。

 コーヒーの熱さに、少し気持ちがほぐれるようだった。


 両手でマグカップを持ったまま、コーヒーを吹きかける息で冷ましていると、視線は下がり、マグカップを覗き込むような形になった。

 吹きかける息で表面が揺れ、ゆっくり元に戻る。


 自分の顔が半分写っているのが見えた、その頭上に。


 せり出した棚の上部から、もう一つ黒々とした頭の影がコーヒーに映る。


 伸ばした首の線と、垂れ下がる髪の毛。


 夕羽を上から見下ろしている。


 ふいに頭上からねっとりとした存在感が増した。


 見下ろす視線を感じ、首の後ろから熱いような寒いようなものが駆け巡る。


 全身に鳥肌が立ち体が小刻みに震えてきた。


 コーヒーの表面が乱れて、黒い影が見えなくなる。


 頭の上からは刺すような視線を感じる。


 見られている。観察されている。私が仰ぎ見るのを待っている。


 ――目を合わせてはだめだ。


 視線を下に向けたまま一度ぎゅっと目を閉じて震える息を吐き、目を開ける。

 何事もなかった風を装い、辛うじてコーヒーをシンクに流してマグカップを水ですすぐ。跳ねた水が服を濡らしたが構わない。

 そのままベッドルームに向かうと、濡れた手でコートとバッグを掴む。できるだけ下を向きながらキッチンを通り過ぎる時、視界の端にシンクの上の棚が独りでに開いているのがよぎった。

 靴を突っ掛けて玄関を出る。ドアを震える手で施錠すると階段を駆け下り、駅前の明るい場所に向かって後ろを見ずに走った。

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