第一章 303号室 夕羽~帰る場所がない女性の話~3

 引っ越してから一カ月は経とうとしていたが、頭痛は相変わらず続いていて、部屋にいる時間は気が塞いで不安感が増してくる。

 家に帰っても疲れが取れないからか、会社で急な眠気に襲われるのも悩ましい。先輩の相川には、顔色の悪さをとても心配されている。疲れのせいか頭痛に加えて夢見が悪くて、などと言い訳したが、このままでは仕事にも影響が出そうだった。


 しばらく予定が合わなかったが、消防設備点検の実施のため、不動産屋が手配してくれた民間会社が部屋を訪ねてきた時のことだ。

「東栄ビルメンテナンスの木下きのしたです。消防設備の点検に伺いました」

 ドアを開けると、灰色の作業ジャンパーを着た、三十代くらいの生真面目そうな男性が立っていた。

「こんにちは、安西です。よろしくお願いします」

 知らない男性を部屋に上げることに、少しだけ緊張しながら夕羽も挨拶して、入るように促す。

 木下と名乗った男は、社員証を提示してから玄関で靴を脱いだ。夕羽があらかじめ用意していた来客用スリッパに履き替え、キッチンを見渡す。

「警報機を確認します。キッチンと部屋、ベランダも見させていただきます」

 そう言ってキッチンの天井をみると、換気扇脇にある備え付けの開き戸に目を止め、少し首を傾げた。

「この開き戸、ちょっと変な位置に付いてませんか? 戸が開くと探知機に当たりそうですね」

「そういわれれば……。でもギリギリ当たらないですよ」

「そうですか。多分考慮されているとは思うのですが、念のため開いてみてもいいですか?」

 棚と探知機を確認しながら訊いた。

 夕羽がうなずくと、木下は玄関から、持参した小型の脚立を持ってきた。マットを敷いた上に脚立を乗せ、その上に立つ。


 棚の戸を開閉し、探知機までの距離を確認していると、ふと棚の奥に目を止めた。

「――この棚、奥に出っ張りがありませんか?」

 夕羽は、数日前に棚から物が落ちてから、何度か物の落下が続くので、最上段に物を入れるのをやめて、下の段に乱雑に放り込んでおいたことを思い出す。棚の中まで見られると思っていなかった。

「あ、そうなんです。奥のでっぱりのせいかもしれませんが、何か一番上だけ棚が不安定みたいで、物がよく落ちてくるんです。たぶん配管か何か通っていると思います」

 夕羽は慌ててしどろもどろに答えた。

 木下は、腕を伸ばして棚の奥を触っているようだった。夕羽の身長では脚立に立っても奥まで手が届きにくいので、棚の奥まで見たことはない。たかの不動産の本田も、棚については特に言及していなかった。


「この棚の奥、確認したことはありますか?」

「いえ、手が届かないので……。物もあまり置かないようにしてて、よく見てないですね」

「この奥、ちょっと変わった造りになっているみたいですけど、何か聞いてますか?」

 棚の奥を見ながら木下が訊いてきた。

「え?」

 慌てて聞き返す。

「ちょっと奥の造りが変で……」

そう続けたあと、はっとしたように手を引いた。

 そのままの姿勢で、木下は棚の奥を凝視している。まるで手に何か触ったかのようだった。

 夕羽は少し不安になり声をかける。

「……何か虫でもいました?」

 木下は振り向き慌てたように動いた。

「いえ! ……虫はいません。ちょっと手にトゲが刺さったように思っただけです」

 そういうと、戸を閉めて脚立から降りた。視線をそらしながら急にせかせかと動き出すので、夕羽はあっけにとられてしまう。

「……すみません、勝手に戸棚の奥まで見てしまって」

 取り繕うようにそう言うと、作業を続けた。急ぐように部屋を移動し、煙探知機の位置と動作をチェックしていった。夕羽は訊かれるままに答えて書類にサインをする。ものの十数分で確認作業は終わり、玄関まで戻った。


 夕羽は釈然としないままだったが、質問するタイミングを逃してしまい、木下を見送ろうとしていた。

 玄関に降りて靴を履いた木下は、ためらうようなそぶりを見せて、唐突に話し始めた。

「――先ほどはすみませんでした。あの、自分は実家が建築関係で、ちょっと気になってしまったのですが……」

 眉をひそめて、キッチンの棚の上部をちらっと見て、すぐに視線をそらした。心なしか声も小さくなった。

「あの、戸棚の一番上の奥……、あのでっぱりは、隠し扉になっています。どうしてかよくわからないですが、タンスの奥などに作られるものとよく似てると思います」

「え、隠し扉が付いているんですか? 初めて知りました」

 先ほどの変わった造りというのはそのことか。夕羽は首をひねった。

 少なくとも管理会社であるたかの不動産では聞いたことはない。本田も特に言っていた記憶はなかった。


 木下は言いにくそうに続けた。

「たぶん、開くと思います。ただ、自分としては開けないほうがいい気がして……。あと、もしかしたら扉の向こうの壁に穴が開いているのかもしれません。どうしてそういう構造になっているかよくわからないのですが。設計の段階で何か意図がなければこんな造りにはしないと思います」

「あ、穴が開いてるって……。そんなことあるんですか……?」 

「その、隠し扉の奥に風が通っていたみたいで……。それだけじゃなくて、天井の高さとか床とか、もしかしたら、内装時に何か不手際があったのがそのままかもしれませんが、できたらちゃんとしたところで確認してもらったほうがいいかもしれません」

 そう早口で言うと、一礼して出て行こうとする。

「あの、ちょっと待ってください!」

 夕羽は慌てて引き留めた。それを振り切って行こうとする木下を追い、階段までついていく。追いかけてきた夕羽に気がついて、木下も足を止めた。

「……すみません、急にこんなこと言うの、おかしいと思うんですが」

 振り向いて、夕羽に告げた。

「自分は今回初めてこの建物を担当しましたが、ここはちょっと変だと思います。

 ――できるだけ早く、引っ越したほうがいい」

 そう言うと、呆然とした夕羽に一礼し、逃げるように階段を下りていった。

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