第一章 303号室 夕羽~帰る場所がない女性の話~2

 カフェのガラス窓にぼんやりとした自分の姿を見ながら、夕羽は内見の時の違和感を思い出していた。本田の人の良さそうな雰囲気に呑まれたのがよくなかったのかもしれない。三角のマンションなんて変な物件を選んでしまったことを、今更後悔している。

 結局、三件見た中で、一番安くおしゃれだった今の部屋に決めたのだった。総合的に見てお得だと思えたからなのだが。

 今思えば、駅から近く比較的新しい単身者マンションが、手頃な家賃なのに入居者が少ないのはおかしいと、もう少し気にして調べてみればよかった。デザイナーズマンションなのに、都心で借り手が見つからないのは不思議な話なのだ。

 そして、担当の本田が一瞬見せた表情も違和感があった。あの、少し遠くを見るような、ぼおっとした顔。

――あれは、何か思い当たることがあったのではないだろうか?


 夕羽は、一向に進まない企画書をながめる。身が入らないのは、あまり眠れてないせいもあるのだろう。

 しかし、そろそろ退店の時間だった。

 今日はレディース限定のカプセルホテルを取れたので安心だ。このカフェから歩いて十数分で着く。

 夕羽は飲みかけで冷めたコーヒーを空にすると、パソコンを入れたカバンを持ってトレーを下げた。

 自分の部屋ではなく、カプセルホテルに「帰る」ために。



――引っ越してすぐに気になったのは、偏頭痛だった。

 それまであまり頭痛に縁がなかった夕羽は、初めは仕事の忙しさのせいかと思ったけれど、明らかに家にいる時に頭痛がひどくなるのを自覚した。そうすると、おしゃれだと思ったグレーの天井が、毎日重くのしかかるようだった。頭痛薬を飲んでもほとんど効果を感じられず、でも常用するのも怖くて飲むのを躊躇してしまう。寝たら少しはマシになるかと思い、意識して睡眠時間を確保するようにしたが、あまり効果は感じられなかった。

 それでも、環境が変わったことによる戸惑いなのかと思っていた。


会社でモニターを見ながら、無意識にこめかみを押さえるようにしていたらしい。

「どうしたの? 頭痛? 眉間にシワ寄ってるよ」

 隣の席の相川玲あいかわれいが、自分の眉間を指さしながら声を掛けてきた。二年先輩の相川は何かと気に掛けてくれる。夕羽にとっては会社で一番親しい友人でもあった。

「あ……最近引っ越してから偏頭痛ぎみで」

 眉間に力が入っていたのに気がつき、夕羽は額をなでた。

「そうなんだ。薬は?」

「飲んでるんですけど、あまり効かないみたいで」

「薬、飲み続けるのも怖いしねえ。あまりひどいようなら病院行った方がいいよ。最近は頭痛外来とかもあるみたいだから」

「へえ……。頭痛外来か。ありがとうございます。今度調べてみます」

「――でも、確かに顔色悪いね。ちょっと休憩しておいで」

 そう言ってもらったので、ありがたく数分休むことにして、まずトイレに向かった。


 夕羽が勤める「ビヨンドデザイン」は、最寄り駅から五分ほどの雑居ビルの四階にある。築年数はそれほど新しくないみたいだが、内装はきれいになっており水回りも安心して使える。トイレには人感センサーが付いていて、無人だったらしく入ると明かりが点いた。

 洗面台前の鏡に向き合うと、夕羽は自分の顔色にぎょっとする。

 目の下には隈ができており、白が基調のトイレ内に立つと顔色が灰色っぽく疲れて見えた。まるで五歳は急に年を取ったかのような有様だった。普段それほど自分の容姿を気にする質ではないが、これはひどい。

 夕羽は小さくため息をついて、手を洗ってからハンドタオルを少し濡らした。化粧が落ちるので目の上に当てることはできないが、首の後ろを冷やそうとする。

 タオルを軽く絞って顔を上げると、トイレの奥に向かって白っぽい服を着た子供が横切るのが見えた。

 驚いて個室トイレの方に振り向いた。

 しかし、各扉は開いたままで、そもそも夕羽以外の人気は感じられない。

(……気のせいかな。こんなところに子供がいるはずもないし)

 怖いというより、釈然としない気分でトイレを後にした。席に戻る前に温かい飲み物でも買って、気分を変えたかった。


 引っ越ししてから管理人に挨拶しようと思ったが、タイミングが悪かったのか不在が続いた。挨拶のために電話で呼び出すのも躊躇してしまい、数日が過ぎる。

 二週間ほど経った頃だったか、休日に洗濯物を干すためベランダに出た夕羽は、眼下の敷地で女性が掃除しているのを見た。

(あれが管理の人かな?)

 挨拶しようと急いで一階に降り、裏手に回って、植木の間の雑草を抜いている女性に声を掛けた。

「あの……管理人さんですか?」

 恐る恐る声を掛けると、サンバイザーに長袖長ズボンの老婆が顔を上げる。暑さで顔が上気していた。

「――はい?」

「あ、私、三〇三号室に引っ越してきた、安西と申します。管理人の方かと思ったのですが……」


 そう言うと、七十代くらいの女性は大きく頷いた。

「ああ、そうですね、私は管理人の治久丸じくまると言います。こんにちは」

「こんにちは。ご挨拶が遅れてすみません。これ、どうぞ」

 夕羽は贈答用の紙袋に入った和菓子を渡す。日持ちのするものを選んでいてよかった、と思った。

「あら、わざわざありがとう。あなたもニュウソンおめでとう」

 そう言って嬉しそうに笑った。

「……ニュウソン?」

 夕羽は咄嗟に何を言われたか分からず、聞き返した。

「村に入るって意味で入村。ここ、ヴィレッジIWAYA《いわや》でしょ? だから村のつもりなのよ。集合住宅なんて一つの村みたいなものでしょう?」

「はあ……」

「まあ、例えですけれどね。ごみ捨てとか騒音とか、何かあればおっしゃってね。私は村長みたいなものですから」

「……そうですね。何かあればご相談します」

 にこにこしながら話す老婆に、夕羽は顔が引きつらないようにするのが精一杯だった。マンションに引っ越しただけで「村に入る」と言われるとは思わなかった。そんな話聞いたこともない。

 とは言え、管理人を邪険にするわけにもいかず、当り障りのない相槌を打つ。話が長引くのも困るので、「じゃあ、部屋の掃除があるので」と退散することにした。

 部屋に向かう夕羽は、背中に老婆の視線を感じながらそそくさと歩いた。


――よくわからない恐怖に声を上げて、声に驚いて目が覚めた。

 久しぶりに料理を作って、風呂に浸かりゆっくり過ごせた夜だった。いい気分でベッドに入った夕羽は、寝つきのよさとは変わって悪夢を見たようだった。

 ぼんやりと時計を見ると、二時四十分になろうとしていた。心臓だけがどきどきと脈打っていたが、意識はまだ寝ているようだ。

 夢の中で、凄く怖いものが迫って来ていた気がするが、目が覚めてみると何が怖かったのかよく思い出せない。ただ、全身気持ち悪いくらいに寝汗をかいていて、ひどく喉が渇いていた。

 夕羽は寝直す前に水でも飲もうと、重い体を起こしてベッドを出てキッチンへ向かう。

 キッチンとの仕切りドアを開けると、棚の最上段に入れていたストック用のキッチンペーパーやラップなどが散乱し、シンク上部の扉はなぜか開いていた。

(――あれ、何で棚が開いたんだろ?)

 眠気の冷めない頭で疑問に思いながら、床に落ちている物を拾ってテーブルに乗せ、扉を閉めた。

 戸が緩んでいたかもしれないけれど、中の物が落ちるなんてあるのだろうか。無理やり突っ込んでおいたわけでもないのだが……。

 ぼんやりと考えるがよくわからない。

 もしかしたら、ふいに大きな音がしたために、変な悪夢を見た気になって驚いて起きてしまったのかもしれない。

 夕羽はそう思い、冷蔵庫に入れてあったペットボトルの水を飲む。まだ寝直すには充分時間がある。落ちた物を棚に戻すのは朝になってからでいいだろう。

 ベッドに戻ると、いくらもたたないうちに眠気の波が夕羽を覆っていった。

――遠のいていく意識のなかで、何か引きずるような音が聞こえた気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る