第22話 お嫁さん

 コンコンと軽い咳が聞こえて様子を見に行ってみると、熱で真っ赤になっていた顔色は少し落ち着いて表情も穏やかになっていた。体温を測ろうと体温計を取り出して横からお布団の中に手を入れると、ビッショリと汗をかいた制服のシャツが手に触れた。



(このままにしておいたら上杉くんも気持ち悪いだろうし、汗が冷えてまた熱が上がっちゃう! )



 ふと視線を上げると、彼の枕元に母上が準備してくれたであろうバスタオルやスポーツTシャツ、ジャージのセットが畳んでおいてある。起こしちゃうのは何だか気が引けるけれど、このまま悪化するかもしれない状態を放置しておくのはもっと気が引ける。そっと掛け布団をめくって、制服シャツのボタンを上から順番に外していく。照れるし恥ずかしいし、何だかわからない微妙な罪悪感を感じながらも『着替えさせるが最優先』と自分に言い聞かせながらボタンを四つ目まで外したところで



「ありがとう」



 声にびっくりして手が止まる。目が覚めてお礼を言われただけなのだからそんなに驚く必要も無いのだけれど、眠っている彼の服を脱がそうとしている罪悪感がビックリ君を私の中に連れてきたのだ。ピョンと少し離れて座り直し、何から発すべきか言葉を探していると



「柚子葉ちゃん、ありがとう。喉は痛いけれどだいぶ楽になったよ、着替えさせようとしてくれていたんだね。バドの時くらい汗かいてるし、少しお腹が空いた感じも出てきた」



 ゆっくりと上体を起こし座った彼の背中は汗でうっすらと透けて見えるほど発汗しており、敷布団と彼との間に敷かれていたタオルケットも湿気を帯びているようだった。



「上杉くん、枕元にタオルとかジャージがあるからお着替えしてくれる? その間にお粥作ったから温めて持ってくるね」



 そう言って逃げるように部屋をあとにし、ごちゃまぜになったドキドキ感を感じながらガスコンロに火をつける。


 先生が電話してくれたのはいいものの、上杉くんのお母様はお仕事に出ていらっしゃり留守だったので『緊急連絡先その二』である我が家に連絡が入り、父上が車で彼を迎えに行って安静にしているという流れだ。



『お父さんと一緒に竜星君のお母様を迎えに行ってきます』



 母上のメモを見ながら温めて、お茶碗と小さめの木製スプーン、こちらもあらかじめ用意しておいた白湯と一緒にお盆にのせて和室に向かう。



「お着替え終わった? 入ってもいい? 」



 返事を聞いて襖を開ける。自分の家なのに招き入れられるという不思議な感覚で部屋に入ると、着替え終わってサッパリした様子の彼と、きれいに畳まれた着衣や敷いてあったタオルケット類が目に入った。



「一時間もあれば乾燥まで出来るから、制服をお洗濯してくるね。お粥、熱いから気をつけて食べてね」



 手に持ったお盆をそっと置いて立ち上がり、畳まれた着衣に手を伸ばすと



「あの、一緒に居てくれたら……嬉しいな」



 袖を握られた。こうなったら私の頭に浮かぶのは



(ふーふーして、はい、あーん)



 だ。照れるけど……してあげたい。



 コクリと頷き彼の横に座って茶碗にお粥をよそい、木製スプーンに小さな一口分を掬ってふーふーし、少し自分の唇に触れさせて熱くないことを確認して彼の口に運ぶ。子どものような無邪気な顔で嬉しそうにモグモグしているその顔は、かわいい以外のなにものでもない。私はといえば、何と表現していいのかわからないけれど、これが母性本能をくすぐられるというものなのだろうか、心がポカポカで満たされていく。


 喉の痛みから飲み込むときに一瞬表情を歪めながらも、ニコニコして次のあーんを待っている彼にお粥を運ぶこの時間、まごうことなく私は幸せだ。喜んで食べてくれる嬉しさと、減っていくお粥に一抹の寂しさを覚えながら会話の無い幸せな時間は過ぎていく。そして最後の一掬いを口に運び、飲み込んだのを確認して白湯の入った湯呑みを手渡そうと彼を見ると、幸せそうに穏やかな瞳で私をじっと見つめている。手に持った湯呑みをお盆に置き、膝が敷布団に少し乗るくらい近づいておでこ同士をくっつけてみると、幾分熱は引いている気がした。



「喉、痛いよね。ゆっくりでいいから、脱水症状にならないように白湯も飲んでね」



 少量口に含んではコクリ、またコクリと空になったのを確認して湯呑みを受け取り



「よく頑張りました、いい子ですね」



 初めて彼の頭をなでなでした……上杉くんの頭、モフモフでかわいい。



「ただいまー、竜星君のお母様いらっしゃったぞー。柚子葉、今日は道場に顔出さなくていいからなー」



 この声が聞こえた瞬間彼を寝かせて布団をバサッと被せ、私はわざとらしくお盆を台所に運ぶも、足が少し痺れているので必然的に動きはゆっくりになる。



「あらー、柚子葉ちゃん! 竜星の看病してくれていたのね、ありがとう。お嫁さんに来てくれるようにお母様にお願いしてみようかしら」



 危うく手に持っていたお盆を落としそうになった。父上は鼻歌を歌いながら道着に着替えて柔道場へ、お母上方は何やら楽しそうに私たちの話をしているようだけれど、私の頭の中は上杉くんのことでいっぱい。柔道家たるもの、足の痺れは心の乱れ何するものぞと何とか平静を装ってお盆を置き、和室に彼の制服を取りに行って洗濯乾燥機のスイッチを入れ、おばさまに保健室に連れて行った経緯を説明する。



「そうね。あの子高熱を出す機会が増えてきたみたいだし、大人になる前に扁桃腺の手術をしちゃった方がいいかもって以前も病院で聞いているから、高校入ったタイミングでなるべく早めに考えるわね、ありがとう。柚子葉ちゃんはコロッケが大好きって聞いたから、今からお母様と一緒に作るのよ。楽しみに待っててね」



 そうだった。お弁当を食べたりお粥を作ったりする時間はあったのに、彼を着替えさせたはいいものの、自分は制服のままだった。おばさまの言葉を聞いて急いで二階に上がり、お気に入りのスカートをはいて再び和室に戻るとアイスマクラの上で目を閉じて静かに呼吸をしている上杉くんの姿があった。


 少し残念な気持ちを抱きながらぬるくなってしまったアイスマクラを交換すべく頭を持ち上げようとすると、首の力を使って少し自力で頭を浮かせ



「お着替えしたんだね、かわいいよ」



 と、ウィンクするみたいに片目だけ開けて彼が言う。



「なんだ、起きてたんだ。眠っちゃったのかと思ったよ、アイスマクラ冷たいのに交換するね」



「ありがとう、大好き」



「ほらーまた……そういうこと言う。少し眠って。また後でね」



 小声で耳打ちして交換し、側に居たい気持ちをぐっと堪えて襖を閉め、稽古免除の私は夕食作りのお手伝いに合流する。女三人でキャッキャと茹でたジャガイモを潰したり衣をつけたりと、帰宅後すぐ道場の日常からは考えられないある種の幸せ。



(上杉くんのお嫁さんになったら、毎日こんな日が続くのかしら)



 なんて現実逃避の夢物語にフワフワしながら手を拭いていると、洗濯乾燥機から乾燥終了の聞きなれた音。



「おばさま、上杉くんの制服を畳んでまいります」



「まあ、本当に素敵なお嬢様だこと。竜星にはもったいないわ! 」



「何を仰いますやらー。竜星君のような優しくて真っ直ぐな男の子は柚子葉がすぐお尻に敷いてしまいそうで逆に申し訳ないですわ。成績も優秀で女の子にも紳士的で、この子を貰ってくれるのでしたら主人も大喜びですわ」



 母親二人が『オホホ』とご機嫌で話しているのを聞きながら、顔から火が出そうになる気持ちをグッと抑えて乾燥機の中からホカホカになった制服を取り出す。母上方の声を遠くに聞きながら上杉くんのそれに袖を通してみると、鏡に映った私はまるで背中から抱きしめられているみたい。



(ヤダ、ハシタナイ……)



 そそくさと畳んで一回だけギューっとして、再び夕食作りに合流。


 いまの私には、まだこれが精一杯。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る