第21話 ふふふ

 気を落ち着かせてゆっくりと起き上がり、お父上が階段を降りて行かれたのを確認して互いに向き合ったまま、少しの間沈黙が流れた。


 申し合わせたように同じタイミングでオレンジジュースをゴクゴクと飲み



「上杉くん、ごめんね。私……」



 二人とも真っ赤になりながら、恥ずかしそうに少し乱れたスカートの裾を直した彼女は



「あ、あの。重くなかったかな……」



 と再びぬいぐるみを抱きかかえてモジモジしている。



「道場で抱っこした時にも思ったけど、全然重くなんてないよ。そんなに軽いのに押さえ込まれるとピクリともできないものなんだね。やっぱりチャンピオンはすごい! 」



 これを聞いた彼女は人差し指でそっと自分の唇に触れ、ぬいぐるみをギューっと抱っこした。



「じゃあ、この表彰状見せてもらってもいい? 」



 いつの間にかポケットから抜き取られていたお手紙が、ぬいぐるみの向こう側から顔を出した。どうせまた押さえ込まれたら逃げられないから断っても無理だとさすがに諦めた。



「字が間違ってたりしたらごめんね、いいよ」



 彼女の表情はパアーっと明るくなり



「わーい! やったぁー! 」



 クリスマスプレゼントを開ける子どもみたいに嬉しそうに手紙を取り出すと、キラキラとした瞳は左右に文字を追っていった。


 しかし段々とその速度は遅くなっていき、最終的には手紙を握りしめたまま膝の上に置いていたクマのぬいぐるみを抱きかかえて肩を震わせ始めた。前屈みになっていることで、普段後ろにある長くきれいな髪がほぼほぼ前に来てしまっているために表情がわからない。



「あの、柚子葉ちゃん? 無神経に傷つけるようなこと書いちゃったかな? ごめんね、どうしたの? 大丈夫? 」



 そう声を掛け肩に触れた瞬間にぬいぐるみを抱えたまま、バタンと横に倒れてしまった。髪で隠れているので表情はわからないけど呼吸は浅く短く、ものすごく苦しそうだ。何が起こっているのかわからなかった僕は急いで階段を降り、食器を拭いているお母上の後ろから訴えた。



「おばさま、柚子葉ちゃんが大変です! 息が荒くてぬいぐるみを抱えたままバタンって倒れちゃって、どうしていいのかわからなくて……」



 自分とテーブルの間をするりと抜けてものすごいスピードで階段を上がっていくと横になっている娘を抱きかかえ、ポケットに入っていたハンカチで柚子葉ちゃんの口を押える。



「竜星君、詳しい話はあとで聞かせて。下に降りて、お母様からお買い物の時に使った透明のビニール袋を貰って来てくれるかしら」



 駆け降りたのか滑り降りたのかわからないほどの勢いでお母さんの所に行き、透明のビニール袋を貰って再びものすごい勢いで階段を昇った。そしてビニール袋を手渡すと



「ありがとうね」



 そう言って一気にふくらまし、ハンカチの代わりに柚子葉ちゃんの鼻と口を覆った。浅く早かった呼吸がだんだん静かになっていくのを腕の中で確かめながら視線をチラリとベッドの方に向けたので、畳んであったひざ掛けを少しはだけた彼女の足が見えない様に掛けるとニッコリ笑って



「よく気付いてくれたわね、ありがとう。ところで柚子葉がこんな状態になったきっかけをお話してくれるかしら? 」



 優勝のお祝いに渡そうと帰りに買ってきたレターセットに手紙を書いて渡したところ、最初は喜んで読んでくれていたが途中からぐったりとなって倒れた旨を正直に話した。



「竜星君。あとで柚子葉に怒られておくから、そのお手紙……私が見てもいいかしら? 」



「もちろんです! 柚子葉ちゃんを傷つけてしまったのなら謝りたいです」



 呼吸が落ち着いたのを確認してビニール袋を外し、握りしめている手を優しくほどいて手紙を外す。左手に柚子葉ちゃんを抱えたまま一枚目、二枚目と目を通したお母上は



「ふふふ、これは柚子葉にはちょっと刺激が強すぎるわね」



 笑顔のまま視線を手紙から僕に移し



「この子をベッドに寝かせたいから、竜星君手伝ってくれるかしら? 」



 穏やかな口調で言われたので、立ち上がって彼女を抱きかかえてすぐ後ろのベッドまで運んだ。お母上は手紙をキレイにたたんで封筒に入れて娘の手に持たせ、そっと布団をかけて涙で濡れている娘の頬を優しく触っている。



「大丈夫よ、これくらいの年頃の女の子によくあることだから。今日はこのまま寝かせてあげてくれるかしら」



 これを聞いてペコリと頭を下げ、今度は静かに足音を立てないように階段を降りる。お母上は後ろから部屋の電気を消して、そっと扉を閉めた。



「竜星、あなた柚子葉ちゃんを傷つけるようなこと言ったの? 」



 わからなかったので黙って下を向いていると



「違うんですよ」



 おばさまがお母さんの耳元で、何かコショコショ小声で話をした。



「そうですか、極度のプレッシャーから解放されて疲れちゃったのね。ふふふ」



 母親同士笑いあったかと思うと、そろそろお暇しましょうかという流れになり、おばさまにお礼を言って柚子葉ちゃんを起こさないようにお母さんと二人で静かに玄関の扉を閉めた。



 歩きながらずっとモヤモヤしており



「お母さん、柚子葉ちゃんは大丈夫なの? 何がいけなかったんだろう」



 問い掛けると、



「竜星は何も悪いことをしていないわよ。次に柚子葉ちゃんに会った時に顔を見てごらんなさい、嫌な顔はしていないと思うわよ」



 そう言って、それ以上は教えてくれなかった。


 翌日。普段より少し照れくさそうな顔した柚子葉ちゃんにおはようの挨拶をしていつも通りの授業が始まる。普段ならこれくらいからお腹の虫が鳴き始める三時間目、その兆候はいまのところ全くない。今日は朝から体が少しだるくて目覚まし時計を止めて二度寝してしまい、母さんに起こしてもらわなかったら危うく寝坊してしまうところだった。


 昨晩も帰宅して割と早く寝たし体調がすぐれなかったということもないのに、お腹が鳴らないどころかまるで冷蔵庫の中にでも入れられたように手が冷たい。


 椅子と太ももの間に手を差し込んで何とか温めようとしても寒くなる一方で授業も全く耳に入ってこないし、自分の意識とは無関係に顎が震えて歯がカチカチ鳴っている。背中を丸めて机にオデコをつけ、朦朧とした意識の中で聞こえてくる自分に向かって発せられる声。



「……すぎ、うえすぎ! いくら成績優秀だからって、授業中にそうも堂々と寝られたんじゃ注意せんわけにはいかんだろう…… おい、どうした? お前震えてるじゃないか! 保健委員、上杉を保健室に連れて行ってやってくれ」



「ハイ! 」



 という返事と共に勢いよく立ち上がったのは保健委員の神谷さん。ゆっくりと体を起こして何とか立ち上がらせようと頑張ってくれているその期待に応えたいのだけれど、自分の体なのに全くいうことを聞いてくれない。それでも何とか立ち上がって一歩踏み出そうとした時、踏ん張りの利かない膝が崩れて神谷さんにもたれ掛る様に力が抜けた。



(このままじゃ彼女は床と僕に挟まれる形で打ち付けられてしまう! 冗談じゃない、踏ん張れ、踏ん張れ! )



 数秒の出来事が踏ん張りの利かないジレンマと共にゆっくりと、まるでコマ送りの様に再生される。倒れるのならば自分もろともと、包み込むように支えてくれている彼女の必死さが伝わってきたその時。反対側からガッシリと腕を抱え、同時にズボンのベルトも固定される形で神谷さん方向に倒れ掛かっていた体は別の大きな力によって支えられた。



「この状態では普通の女の子の力では無理だと思うから。私が保健室に連れて行くので、神谷さんは上杉くんの分までノートを書いてあげてください」



 力強く体を支えてくれた女の子、それは柔道家の柚子葉ちゃんだった。



「上杉くん、自分で歩こうとしちゃうと運びにくくなるから、申し訳ないとか思わずに体重全部私に預けるようにしてくれる? 」



 本当に申し訳ない気持ちでいっぱいながら、現実問題自分の足で立って歩くことができない状態であったので素直に体重を預けると、まるで毛布を肩にかけるかのように軽々と担いで彼女は教室の扉を閉めた。



「こんな運び方しかできなくてごめんね。もうすぐお布団だから頑張って」



 力なくユサユサ担がれながら遠くに彼女の声を聞き、ボーっとした状態で優しくベッドに寝かされた。



「あー、もう。保険の先生居ないじゃない! えっと体温計は……」



 制服のボタンを胸まで外し、どこからか探してきた体温計を脇に挟ませて待つこと数秒。最近の体温計はデジタルだし、ピピッと鳴るのがムチャクチャ早い。



「三十九度! 冷やすもの探してくるから待っててね! 」



 外したボタンをはめて布団を掛け、シャっとカーテンを閉めて足音は遠ざかっていった。



「冷凍庫にアイスマクラあったから、交換するね。あと、タオル濡らしてきたからおでこにのせるからね」



 説明してくれながらテキパキと動き、ベッド横の丸椅子に座って心配そうに左手を握ってくれている。



「ごめ……んね」



「いつも稽古で竜星くんよりもっと大きな男性を担いでいるから大丈夫、そんなことで謝らないで」



「違うの。昨日のお手紙で柚子葉ちゃん倒れちゃったから、すごく傷つけてしまったのを謝りたくて」



「傷ついてなんかないよ。すごくすごーく嬉しくて、竜星くんからもらった表彰状は私の大切な宝物だよ。竜星くん……」



 目が開いているのか閉じているのか自分でもわからないほど朦朧とした意識の中で、近づいてくるいい香りと頬に触れる髪をボーっと感じた。



「あれ、誰かいるのか?」



 聞き間違うはずもない顧問の声。



「はい! 山田先生に保健室に連れて行くように言われたのですが、彼がすごい高熱で歩けそうになかったので担いできました! 」



「おー、チャンピオンじゃん! いくらリューセーが細マッチョだからって普通の女子じゃ連れてくるの大変だろうけど、オマエなら朝飯前だな。あとはこっちで面倒見るから教室もどっていいぞー、ごくろうさん」



 顧問らしいクラブ活動の時となんら変わらない口調。とはいえ、保健室にお世話になったことが無かった僕が『保健の先生が顧問であった』と初めて知った瞬間だった。



「それでは教室に戻ります、失礼します! 」



「あー、そうだ。チャンピオン、リューセーのナジミだったよな?わりいんだけどコイツの荷物、あとで持ってきてくれねーかな」



「わかりました。あの……その『チャンピオン』っていうの、やめてください」



「わりいわりい、私もチャンピオンって呼ばれてきたものでな。リューセーんとこには連絡しとくから。頼むな、姫嶋! 」



 頭はガンガンに痛いし天井はグルグル回っているのに、柚子葉ちゃんから顧問に代わった瞬間に不思議と変な気合が入る。



「よう、リューセー。だいぶ熱が高いみたいだな! それはそうと、神谷、姫嶋、高見澤、おまえモテモテだな。ふふふ、もうちょっとゆっくり来てやった方がよかったか? 」


 得意な気合の空回り。


 顧問の顔を見てから目覚めるまで、何も覚えてない。

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