第20話 がおー
「ただいまー、お腹すいたー! 」
玄関から聞こえたその声にいそいそと階段を降りていくと、玄関で沢山の人がそれぞれの『おめでとう』を伝えようと彼女を囲んでいた。階段の一番下まであと二段を残したところでみんなに祝福されている彼女を見ていたところに、後ろから静かに階段を降りてきたお父上から全員に向けて声が発せられる。
「みんな、今日は柚子葉の応援に来てくれてありがとう! 本来ならいつものように道場で柔道談義をするところだが、今日は上杉さんが来て下さっているし、なにより娘は腹ペコだ。柔道談義は明日やろう! みんなの気持ちは申し訳ないが明日もう一回伝えてやってくれ。それに年頃の娘を幼馴染とはいえ、男の子の前で汗くさいままにしておくのは父親として気が引けてな。今日はこの親バカに免じて解散としてもらえないだろうか」
これを聞いた道場生のみなさんはウンウンと頷き、元気よく挨拶をされて帰路につかれた。柚子葉ちゃんは
「みなさんもお腹空いているのにごめんなさい! ダッシュでシャワー浴びてきます」
笑顔で手を振りながら家の奥へと走っていった。テーブルの上には沢山のご馳走が並べられ、母親二人がクルクルと動き回っている。僕とお父上はどう考えてもそこに居たら邪魔になるので、リビングに座ると自然と会話が始まる。
「竜星君は柔道の大会を見るのは初めてかな? あのレベルになると経験者でも何がどうなったのかわからない動きがあるし、何より畳までの距離が遠いからね。何か雰囲気なりとも感じた部分はあったかい? 」
「はい。先日道場で見せて頂いた柔道とはちょっと違う雰囲気を感じました。鬼気迫る感じが選手全員から感じられるというか、それが柚子葉ちゃんに向かって全部向けられているといいますか、あれだけのプレッシャーを一人で背負って戦っていたのかと思うとスゴイ以外に言葉が見つかりません」
「確かに柚子葉は前年度チャンピオンだからね、出場者全員そこに立ちたくて毎日血の滲むような努力をそれぞれがやってきているんだ。だからこそチャンピオンが背負うものも大きいし、無様な試合も出来ないし、我が娘ながら大変だと思うよ」
「あの、決勝戦の技あり取られた後に柚子葉ちゃんが一瞬崩れ落ちそうになったみたいに見えたのですが、今は元気そうですし大丈夫なのでしょうか? 」
「おお、よく見ていたね。あれは脱力式加速ってウチの道場では呼んでいるんだけれど、素早く一歩踏み出そうとすると、必要ないところにまで力が入ってしまって逆に動きが遅く硬くなってしまうものなんだよ。それを一瞬完全に脱力することによって速度を最大限高めるんだ。ヨーイドンで踏み出す一歩より、転びそうになって思わず前に出る一歩の方が早いって言えば何となく想像できるかな? 」
「はい。自分はバドミントンにしか例えられませんが、中学二年生の時に同じクラブの女の子にボロボロに負けました。その彼女から教わったのが『力入りすぎ、踏ん張りすぎ』というものでした。ココで止まればいいものを余計な力が入ってしまうばかりに、ココ以上に体は行こうとしてしまって、逆に止まろうとする余計な力まで必要になってしまう。それに比べてあの一瞬ガックリとした柚子葉ちゃんの動きは、まるで流れる水のようでした。相手の選手が流れる川の水に足を取られて転んでしまったように見えました」
「そうなんだよ、竜星君よく見ていたね! あれ実は……」
「お待たせしました! 父上は柔道の話を始めると止まらなくなっちゃうんだからー。お腹ペコペコだし、母上方がご馳走を準備してくれているからいただきましょ!」
サラサラの髪でニッコリ微笑みながらお父様の首に金メダルを掛け、柚子葉ちゃんは僕の手を引いて席に座らせてくれた。全員が席について『いただきます』の後、この日ばかりはよっぽどお腹が空いていたのだろう、無言でモグモグ食べている。
一方お話がはずんでいるのはお母上たちの方で、煮物の味付けとかタルタルソースの調味料の話とか、お父様は金メダルを首に掛けてもらってニコニコしていらっしゃる。こうして全員が笑顔で楽しく夕食を頂いた。
「今日は金メダル獲ったんだから竜星君のお母様と私でお片づけするから、柚子葉はお部屋でゆっくりしていらっしゃい」
お母上からオレンジジュースを二杯コップに入れてくれたお盆を受け取り、柚子葉ちゃんはお父様から金メダルを首にかけてもらって、足取り軽く階段を昇った。
ベッドに鎮座していたクマのぬいぐるみを抱きあげて
「優勝したよー、がおー!」
と嬉しそうにクマの右腕を持ち上げてニコニコ笑っている。
「優勝おめでとう! 見ていることしかできなかったけど、全国の強い人達相手にずーっとプレッシャーと戦ってきて、金メダルを勝ち取ったんだよね! 僕なんか市民大会で負けてるのに、柚子葉ちゃんはすごいよ」
これを聞いた彼女はぬいぐるみを抱きかかえたままペタンと座り
「私だって最初から勝てたわけじゃないよ。沢山負けて沢山泣いて、今日だって気持ちでは相手選手に負けてたかもしれない。でも『諦めちゃだめだー』って上杉くん言ってくれたじゃない? あの声が届いてなかったら、これはここに無かったよ。だからありがとう」
そう言って金メダルを首にそっと掛けてくれた。物理的な重みもそうだけど、このメダルが日本一の証だと思うと、もの凄く重く感じた。マジマジと見ていると
「お母上方が夕食の支度をしてくださってる間、父上に『最後の抑え込みはこうやってだな』なーんて長々と捕まらなかった? 」
「うん。お父様は録画したカメラを持ってお部屋に入ったまま、柚子葉ちゃんが帰って来るまで出てこられなかったよ」
「そっか、この間みたいに受け身の練習とかさせられてないかと、ちょっと気になってたんだ。帰りが遅くなってごめんね、一人ぼっちで退屈だったでしょう? 」
「ううん。柚子葉ちゃんの勉強机借りて、書きものしてたから大丈夫だったよ」
「書きもの? 宿題とか予習とか? 」
「いや、そういうのじゃなくて。まあ、今度あらためて渡すからさ」
しまった! と思った時にはすでに遅し。ぬいぐるみの横からヒョコっと顔を出して、ちょっと悪そうな笑顔でこちらを見ている。
「ん~? 今度あらためて渡すってなーにかなー、気になるなあ―」
こうなるともうシドロモドロで
「いや、だから、ほら。字が間違ってたりしてもいけないから見直しは必要じゃない? それに今日はチャンピオンになったんだからさ」
「そんなこと言われると余計に気になるなあー、実はさっきから気になってたんだよねー。後ろのポッケに入ってるそれは上杉くんが書いてくれた表彰状じゃないのかな? 頑張ったご褒美に見せて欲しいなー、日本一の抑え込みで奪っちゃおうかにゃ? 」
ぬいぐるみを横に置いて襲い掛かってきた彼女にコチョコチョされながらも、何とかポケットから封筒を取られまいと頑張っていると
「うりゃ、これが日本一の抑え込みだぞぉー」
抑え込まれた。何とか体を捻じったりひねったりして逃れようとしても、ピクリとも動かない。その隙に後ろのポケットから封筒を抜き取られそうになったので足をバタバタさせていると、お父上が入っていらっしゃって
「お? 今日の横四方固めじゃないか、教えてあげているのか。いいことだ」
助けてくれるのかと思いきや、ニコニコと書斎に入ってしまった。ここでさっき柚子葉ちゃんが言っていた
「気持ちで負けていたかもしれない」
という言葉が頭をよぎった。柔道家同士ともなれば、こんなに優しい抑え込みではないはず。しかも勝負なのだから、これだけ動けないと諦めてしまっても仕方がないのかもしれない。そんなことを考えて体の力を抜いた瞬間、柚子葉ちゃんの抑え込んでいる力も抜け、体を乗っけている状態になった。温かくて柔らかくていい香りがして、ものすごくドキドキしていると
「上杉くん、すごくドキドキしてる。ずっとこうしていたいな……」
横四方に固めたまま、彼女が言う。
「僕も」
彼女はゆっくりと上半身を持ち上げ、真上から潤んだ瞳で見つめている。今までこんな真下から彼女を見たことは無いけれど、やっぱりかわいい。
自然と目を閉じた。彼女の髪が頬に触れ、いい香りが近づいてくるのを感じる。
「そういえば、今日の横四方固めだけどなあ」
扉が開く音と同時に聞こえたお父上の声にびっくりしてお互い目を開き、柚子葉ちゃんはピョンと飛びのいて彼の方を向いて正座した。対してこちらといえば、頭が沸騰している状態で動けない。何やらお父上と柚子葉ちゃんが話しをした後に
「昼間に言った通り、日本チャンピオンの寝技からは逃げられなかっただろう? 」
寝転んでいる自分を見降ろす形でニコニコと笑い、部屋に戻っていった。
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