第6話 心が痛い

「上杉君、大丈夫?痛いことされてない? 」



 畳に手をつき、ものすごく心配そうな顔をして気遣ってくれている。



「ありがとう、大丈夫だよ。今ね、受け身というものを教えて戴いたんだけれど、僕にはこれが何の役に立つのかわからなかったのでお父様に訊いていたところだよ」



 にこやかに答えると、彼女は厳しい表情で師範を見て口を開く。



「父上、道着も来ていない初心者に……どういうことですか? 」



 お父様は柔和な表情のまま優しく答える。



「久しぶりに会った竜星君はとても礼儀正しく、筋肉もついて男の体格になりつつある。いきなり投げや寝技をさせたわけじゃない、幼稚園の子に最初に教えるコロンバタンの受け身だよ。受け身は覚えておくと怪我の予防になるだろう? でも彼は実際にやってみて、これの意味が分からないと言った。であれば、教えてあげるのも武道家の務めだろうよ。竜星君見ておきなさい、これが今君がやった受け身の意味だよ」



 そう言うが早いか、彼女を抱きかかえて胸の高さ位まで持ち上げ、畳の上にポイと投げ捨てた。バンッ! とものすごい音とともに背中から畳に落ちた彼女は、何事も無かったかのように立ち上がり



「父上! いきなり何をするんですか! 」



 と喰ってかかる。



「わかったかい? これから体育の鉄棒などで手が外れてしまって、もし今みたいに背中から落ちることがあったとして、普通なら息ができなくなってしまって大怪我に繋がる。でも受け身が出来るようになると、見た通りへっちゃらになるんだよ。まあ彼女は鍛えているっていうのもあるけれど、それでも知っておくのと知らないのとでは雲泥の差だ。柚子葉、試しに優しく彼を投げてあげなさい。こういうのは体感した方がわかりやすいから」



 なるほど。確かに小さい頃に鉄棒で逆上がりに失敗して背中から落ち、息が出来なくなって苦しかった記憶はある。それが回避できる方法を教えてくれていたのは理解した、でも実際どの程度の衝撃になるのかはわからない。



「お願いします! ここは畳の上だし、この先大怪我しないように知っておきたいから」



 もの凄く申し訳なさそうな顔で目の前にしゃがみ込む。



「ただ道場を見せてあげるだけのつもりだったんだけど、こんな流れになっちゃって……ごめんね」



「ううん、お願いしているのはこちらの方だから。怪我しない為にも教えてくれる? 」



「じゃあ、いくよ? 痛くしないからね」



 腰の上に乗せたかと思うと、体がふわりと持ち上がった。自分の体が空中で回転しているのを感じる……と同時にあの時クラスで見た彼女に投げられた男子生徒の姿がはっきりと映像で頭をよぎった。バドミントンで柔らかくバネのような筋肉がつき始め、更にもともと体の柔らかかった僕は畳の上に叩きつけられる自分の映像が鮮明に浮かび、さっき教えてもらった受け身をとるべきところを体を捻じって半回転し、足から着地した。意図しない落下に対してネコが絶対に背中から落ちない、あんな状態を想像してもらえればわかりやすいと思う。



「ほう! 」



 これを見たお父様は、キラキラとした瞳で興味津々に近づいてきた。



「面白いし素晴らしい柔軟性だ。竜星君、柔道やらないか? 」



「父上、いい加減にしてください! いくら幼馴染だからって、何もかもいきなり酷すぎます! 上杉君はお母様の華道に付き合って来ただけで『私がいつも練習している道場が見たい』というから見せに来ただけなのです。それを勝手に受け身を教えるわ、私そっちのけで柔道に勧誘するわ、言われて断りにくい気持ちも考えてあげてください! 」



 涙をいっぱいに溜めて柚子葉ちゃんはお父上に猛抗議。確かに言ってくれている内容はもの凄くありがたいのだが



(親子喧嘩の火種を作ってしまったのは自分なのだからちゃんとお礼も言わなきゃだし、謝らないと)



 うつむいてそんなことを考えていると、お父様が知ったことかとばかりに彼女をグイと横へ押しやり、こちらに一歩近づいた瞬間! 目にもとまらぬ速さで懐に入り込んだ柚子葉ちゃんは、不意打ちとはいえ電光石火のごとくお父様を持ち上げるようにしてぶん投げた。詳しい技の名前などはわからないが、僕には『彼女が軽々と男性を持ち上げてぶん投げた』ように見えた。バンッという大きな音とともに何事も無かったかのように起き上がった彼は



「柚子葉、ジョウダンだよジョウダン。そんなに怒らなくっても」



 本気で怒った娘を見てオロオロしている、どうやら父親というのは娘に本気で怒られると困ってしまうらしい。



「ありがとうございました! いこ」



 半ば強引に手を引かれて道場から引っ張り出されるも、練習のお邪魔をしたのは事実なので入った時と同じように礼をして彼女の部屋に戻った。柚子葉ちゃんはものすごくプンスカ怒っている。



「本当にもう! 私が居ない間に柔道に触れたこともない上杉くんを捕まえてあれこれやらせた挙句に『柔道やらないか』なんて、ホント無神経なんだから! ごめんね、大変な思いさせちゃって。そんなつもりは全くなかったの」



 僕は黙って下を向いている。



「本当にごめんなさい、どこか痛い所とか無い? 」



 心配そうに気遣って近づいてきた彼女に、精一杯勇気を振り絞っての一言。



「だ、大丈夫だよ。それよりほら、柚子葉ちゃんお着替え中だから、見ないように下向いてるから……」



 お父様の行動におもいっきり頭にきてものすごく心配してくれている彼女は、恐らくこの部屋に戻ってきて着替えるのがいつものルーティンなのだろう。まるで異性が居ることなど考えもしなかった様子で道着を脱ぎ始め、下着の一部が見えた瞬間に恥ずかしさと申し訳なさで視界に入らないように下を向いたのだ。これを聞いてピョンと一歩後ろに下がり



「ごごご、ごめんなさい! どうしよ……」



 急いで上着を拾い上げ、体を隠しているのは音と雰囲気でわかる。



「大丈夫! 今から後ろを向いているから、何も見てないから」



 急いでくるりと後ろを向き、ギュッと目をつぶって拳を固く握る。



(本音は見たい! でもそんなの彼女は望んでいないし、毎日この部屋に入るたびに自分の恥ずかしい失態を思い出して欲しくないから)



 純粋に後者の思いが勝っただけのこと、それでも正常な男子としては耳がダンボになっているがこれは許して欲しい。



(多分スカートのチャックを閉めたんじゃないかな)



 そんな音がして数秒後、後ろを向いている僕の頬を彼女は優しく触る。



「お、お待たせしました! すごく恥ずかしかったー。上杉くんが紳士な人で良かった。父上にはホンット頭にきてたから、いつも通り普通に脱いじゃった……ゴメンナサイ」



 両手でホッペをサンドイッチしてくれている彼女の手に自分の手を重ね、後ろを向いたまま答える。



「謝らないで。ドキドキしたし、本当は……見たかった。でも柚子葉ちゃんに嫌われたくなかった、それだけだよ。僕は自分が嫌われない方を選んだだけの話で、心の中では見たかった。だからこんなこと考えて、ごめんね」



 ここまでバカ正直に言ったのは計算でも何でもなく、ただ素直に全部口に出してしまうことで自分がすっきりしたかったし、あのリコーダー事件の時みたいに彼女に勘違いされるのが怖かった、それだけなのだ。そして言ったことで投げ飛ばされるかもしれないし、後ろから引っぱたかれるかもしれない。それはわからないけれど、伝えられないまま勘違いされて孤独になるのが辛かったから言った。



(見たかったなんて言ったんだもの、ひっぱたかれても仕方ない。心が痛いよりはいい)



 そう思って首にギュッと力を入れると、ホッペを挟んでくれていた手がスッと抜けていい香りがもの凄く近くなり、まるでカーディガンを羽織るかのように彼女が背中にくっついた。背中に柔らかく温かい感覚を感じてドキドキしていると



「そういう素直な上杉君が……」



 左頬に柚子葉ちゃんの唇と鼻の頭が触れたのを感じた。こんなのに慣れていないし、どうしていいのかわからない。頭からはきっとフシューと湯気が出て、顔どころか耳まで真っ赤になっていることだろう。



(生まれて初めて女の子からホッペに! どうしよどうしよ、恥ずかしくて振り向けないし、こういう時男子はどうすればいいんだろう)



 一生懸命考えている長いようで一瞬の出来事、その幸せな時間を切り裂くように階段の下から母さんの声。



「竜星、そろそろお暇するからお部屋片づけて降りていらっしゃい」



 これと同時に嬉しい背中の温もりは離れ



「おばさま、すぐに参ります! 」



 と答える。出来ることなら彼女が触れた手も顔もなんなら背中も、今日は洗わず帰ってからもホンワカしたい……そんな不埒な事を考えている僕の手を彼女は握って立ち上がらせ



「今日は来てくれてありがとう。それから、さっきのことは二人だけのナイショね」



 薄っすら赤く染まった可愛らしい顔で言ってくれた。



「うん、ありがとう! 今度は遊びに来てね」



 そう言って階段を降りる。



「柚子葉ちゃん、竜星にバレンタインチョコありがとうね」



 母さんが彼女の耳元で小声でささやく。



「いえいえそんな! 大したものじゃないですし! 」



 動揺からか、大きな声とオーバーリアクションで答える彼女。そんなこんなで玄関の外にまで出てきてくれて大きく手を振られながら、体のあちこちに幸せな感覚を噛みしめつつ、帰宅した。



「今日はおつかれさま、しばらくお部屋でのんびりしてらっしゃい」



 そう言われ、とりあえず自室の床に座ってなぜかバドミントンラケットが入っているバッグを引き寄せ、膝の上に乗せる。そして思い出す頬の感触、いい香り、優しい手、ホンワカした背中。何ともいえない気持ちになってスポーツバッグをギューっと抱きしめていた。

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