第5話 大きな声
「明日土曜日じゃない? お花の稽古が姫嶋さんのお家であるから、竜星も一緒に来る? 柚子葉ちゃんもいると思うけど、柔道の練習しているのかもね」
最後のチョコを口に放り込んだところで言われ、あまり深く考えないままモグモグしながら首を縦に振った翌日、つい先日まで幼馴染だと知らなかった彼女の家へ母と一緒に向かう。お花の束を抱えた僕の耳に飛び込んできたのは併設された道場から聞こえる気合の入った声と竹刀の音、そしてドタンバタンと柔道特有とでもいうべきか畳の音だ。我々は玄関から通されて客室にあるソファに座ったのだが、すでに何人か大人の女性がいらっしゃっていて子どもは自分一人、なんかソワソワして落ち着かない。そこに
「ようこそいらっしゃいました」
シルバーのトレーに乗せられたいくつかのお洒落なコーヒーカップを上品に、そして静かに柚子葉ちゃんが運んできた。学校で見る彼女とは雰囲気が違い、高い位置でのポニーテールに真っ白なシャツ、ロングスカートをはいてメガネは掛けていない。ちょっとお姉さんな雰囲気の彼女に見とれていると
「皆様、今しばらくおくつろぎになってお待ちくださいませ」
礼儀正しく深々と頭を下げた。
「上杉くん、いらっしゃい! 今日は来てくれるって聞いていたから練習はお休みさせてもらったの。これから皆さんはお花のお稽古に入られるから、私たちは別の場所で待機よ。ついて来て」
案内されたのは彼女のお部屋。たくさんのメダルが飾ってあり、トロフィーや表彰状もきちんと整頓されて並べられている。学習机の上には極力ものが無い状態でコザッパリしており、ベッドの枕元にはかわいらしいクマのぬいぐるみが鎮座している。女の子の部屋に入れてもらうのは初めての経験だったので興味津々。
「なーんか、女の子っぽいお部屋じゃないでしょ? 」
スカートをフワリとさせて振り向いた彼女は、なぜかキラキラして見えた。
「ジュース持ってくるから座っててね」
差し出された円形のクッションに座ると、ベットの下にあるダンベルが目に入った。
(大人を投げるとなると、相当鍛練しているんだろうな)
そんなことを考えながら自分の部屋にはない何ともいい香りにホンワカしていると、ジュースとお菓子を持って彼女が返ってきた。
「おまたせー、どうしたの? ぼんやりして」
「女の子のお部屋にお邪魔するの初めてだから、何だか緊張しちゃって。それに柚子葉ちゃんのお部屋っていい香りするんだね」
「汗臭くない様に窓は開けていたんだけど、いい香りだなんて。なんだろう……」
小さなテーブルの上にグラスに入ったジュースとお菓子を置くと、恥ずかしそうに下を向いて女の子座りでペタンと座ってしまった。
「ご、ごめん! 素直にそう思ったから。なんていうのかな……そうそう、柚子葉ちゃんが横に居てくれる時と同じ香りがするよ」
これを聞いて少しホッとした様子で顔を上げ
「なるほどー、それはトリートメントの香りだよ! 髪が長いからきっとその香りがしたんだね、変な匂いじゃなくてホッとした。上杉くんって学校での会話聞いてて思ったんだけど、女の子勘違いさせちゃうようなことを普通に言っちゃうから気をつけた方がいいかもよ? 」
そんな意図もホツレも全くない。むしろ彼女が何を言いたいのか、さっぱり見当がつかないので素直に訊いてみる。
「柚子葉ちゃん、それは僕が知らない間に女の子が不愉快な気分になることを言っちゃってるのかな。もしそうだとしたらすごく悲しいから教えてくれないかな」
楽しい気分から一転、奈落の底に落とされたような感覚でガックリとうな垂れた姿を見て、今度は彼女がオロオロしながら口を開く。
「ちっ、違うの! 上杉くんが下心も悪気も無く普通に口にしている言葉が普通の男子だと恥ずかしくて言えないし、女の子が聞いたら勘違いしちゃうってこと! えーっと、たとえばね『目がキラキラしててきれいだね』とか『今日の髪型かわいいね』とか、何の抵抗も無く言えるじゃない? 」
「う、うん」
「そういうのって、普通の男子はサラッと言えないのよ」
「なんで? 」
「なんでって……私はよくわからないけれど、女の子からするとそんな風に言われると嬉しいの。だって、誉め言葉じゃない? 誰だって自分をサラッと褒めてもらえると嬉しいし、人を褒めるって照れるから特に男子は言わないっていうか、そこまで気付かないのよ。だから気付いてさり気なく褒めてもらえると、その人のことが好きになっちゃったりするの。そういう意味の勘違い」
よくわからないが、人を嫌な気持ちにさせるものではないらしい。これに関してはあまり理解できていないけれど、少しホッとした。
(そうだ、昨日もらったチョコのお礼をちゃんと言わなきゃ)
座り直して柚子葉ちゃんの目をじっと見る。
「柚子葉ちゃん、母さん以外の女性にチョコを貰ったのは生まれて初めてで感動しました。ありがとう! それと、今日はメガネを掛けていないんだね。今まで気付かなかったけど、柚子葉ちゃんの瞳って茶色くてすごくきれいだね」
耳まで一気に赤くなった彼女はゴクゴクとジュースを飲み干して
「だ、だからぁ。そういうとこよ。女の子に『きれいだね』とか普通の男子は言えないからー! あと、上杉君って目に力があるよね。吸い込まれちゃいそう……そうそう、近視の人は瞳がキラキラして見えるみたいよ? 」
お互い無言の何とも形容しがたい時間が少しだけ流れたあと
「そうだ! もしよかったら柚子葉ちゃんが練習している道場を見せてくれない? ぼく柔道場って見たことなくって、だめかな?」
ここで彼女の表情がパッと晴れる。
「そうだよね、なかなか見る機会なんてないものね。練習中の父上はちょっと怖いけど、大きな声でちゃんとしていれば大丈夫だから。いこ! 」
サッと立ち上がり階段を降りて道場までの通路を歩いて行く彼女の後ろ姿は、さっきまでのおしとやかな女の子とは違って少し大きく見えた。道場は家の隣に併設されており、二メートルほどの渡り廊下で繋がれている。扉の向こうからはピシャンという竹刀の音と、ドタンバタンと人が投げられているであろう音が聞こえる。
「娘といえども道場に入る時には道着を着るっていう決まりなの。すぐに着替えてくるから、ゴメン。ここでちょっとだけ待っててくれる? 」
頷くと彼女は大急ぎで来た道を戻っていった。彼女が走り去ってからものの三十秒も立たないうちにガラリと道場の扉が開き、そこには竹刀を持った大柄な男性。柚子葉ちゃんが来る前にお父様とばったり出くわしてしまった僕は、彼女が口にした『大きな声で』というキーワードを思い出して
「こんにちは! 本日、母と一緒に参りました上杉竜星です! 」
道場内に響き渡るほどおもいっきり大きな声で挨拶をした。険しい表情だったお父様は一転、これを聞いてニッコリ笑い
「おお、元気があって大変よろしい! 竜星くんと会うのはひさしぶりだな、今日はお花のお稽古で一緒に来たんだね。あれ、柚子葉はどこ行ったのかな? 」
「はい! 柚子葉ちゃんは『娘といえど道場に入るには道着が必要』と走って着替えに行きました! 」
柔道の細かい作法は全く分からないが彼女が『大きな声で』と言ったので、自分に出来る精一杯『これでもか』ってくらい大きな声で返事をする。
「声の張りが素晴らしい! 柚子葉が転校してまで君のそばに行きたがったのがわかるよ。君は真っ直ぐな目をした心の強い子だ、自信を持っていい」
「はい、ありがとうございます! 」
何が『ありがとうございます』なのかよくわからないが、褒めて頂いたと解釈し、お礼を言って彼の前に正座で座った。
「ん? どうしたんだい? 」
いきなり目の前で正座をされて、さすがのお父様も驚いた様子。武道でも華道でも敷居をまたいでお邪魔する時はちゃんと一礼しなければならないと母さんから聞いていたので、教わった通りに自分が出来得る礼儀をちゃんとしたかったのだ。
「僕は柚子葉ちゃんにいつも練習している道場を見せてくださいとお願いし、彼女は道着に着替えに行きました。でも自分には道着がありませんので、母から教わった道の精神に則り『敷居をまたがせていただきます』のご挨拶です! 」
正座をして顔を見上げ、その目を真っ直ぐに見ながら大きな声で口上を述べた後に両手をついて頭を下げた。これを見て彼もまた竹刀を脇に置き、正対するように正座をした。
「道場を預かる姫嶋剛毅です。君の挨拶はとても素人とは思えない見事なものだ。華道でも柔道でも剣道でも『道』を鍛錬する場所に入る前には大きな声で元気よく挨拶をするのは大事なことだが、竜星君は大人でもなかなかできないような素晴らしい挨拶をしてくれた。歓迎するよ、道場に入りたまえ」
「はい! お稽古中、失礼いたします! 」
そう言って立ち上がると、道場内にいらっしゃった大人の練習生さん達からパチパチと拍手で迎えられた。これにはちょっと驚いたが
「いやあ、中学生だよね? すばらしい! 」
こんな声に少し照れながらも靴下を脱いでポケットに押し込み、裸足になって道場に入らせてもらう。
「せっかく来たんだから受け身を教えてあげよう、これはどんなときにも役立つし怪我をしにくくなるものだ。同じようにやってみてごらん? 」
立った姿勢からしゃがみ、そのまま後ろにコロンとして手でバンと畳を叩く。真似をして同じように何回かやってみると
「うまいうまい! 」
褒められるものの、これが何の役に立つのか全くわからない。わからないものをそのままにしておくのは嫌なので
「失礼します! 僕にはこれが何の役に立つのかわかりません」
素直に言ったその時。ドドドと廊下を走ってきて敷居の前で正座をし
「よろしくお願いします! 」
一礼して黒帯を締めた柚子葉ちゃんが道場に入ってきた。
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