第4話 コロコロ

 先生のありがたい言葉とシゴキにヘトヘトになってコートの横で四つん這いになり、汗だくになってゼーゼー言っていると、ラケットを持った彼女が近づいてきて目の前にしゃがむ。



「頭スッキリしたか? でもよかったな、ホワイトデーにはちゃんとお返しをしてやるんだぞ」



 バフンと頭からタオルを掛けられ、そのまま仰向けになってなかなか整わない呼吸と、目の前にチカチカ飛んでいる光が収まるまでしばらく動けなかった。まだフラフラする頭で何とか上体を起こして座るも、寝転がっていた床が汗でベタベタ。


(こんな状態で放置していたら滑って怪我の原因になってしまう)


 モップを取りに行って水分を綺麗に拭き取る。再び倉庫にモップをしまいに行きながら女子の練習を見てみると、神谷さんが高見澤さんからフォアとバックの握りかたを教わっていた。


 練習時間も残り三十分ほどになったので、いつもよりも念入りに柔軟体操をして体をほぐし、先輩たちと協力してネットを外して畳み、ポールを引っこ抜いて床に蓋をした後にきれいにモップを掛けて体育館を現状復帰させるよう迅速に動く。コートを作る時はこれと全く逆の順序で行うのだが、こういう準備や後片付けをまったくやらない人が居るのは事実、でも僕にとっては誰がやるとかやらないとかそんなものはどうでもいい。教室の掃除にしても体育館の後片付けにしても『誰かにやれと言われたからやる』のではなく『自分が正しいと思う』からダラダラせずに一生懸命やる、その方が自分自身気持ちがいいのだ。



「お疲れ様でした、お先に失礼します!」



 先輩たちに挨拶をして通学バッグとラケットやシャトル、そして今日は大切なチョコが入ったスポーツバッグを持って帰ろうと靴を履いていたところ



「上杉君、途中まで一緒に帰っても……いい? 」



 神谷さんに話しかけられた。あの時『電車の座席下から彼女のリコーダーを見つけた』ということは、彼女の家がどこなのかは知らないけれども方角は同じということか。



「もちろんだよ! クラブ活動でいろいろ覚えなきゃいけなくて疲れたでしょ? これに懲りずにこれからも一緒に頑張ってくれると嬉しいな。あ、チョコありがとう。なんか取り乱しちゃってごめんね」



「ううん、先輩たちもすごく親切で楽しいよ。バドミントンってシャトルをポーンポーンして楽しそうだなって思ってたけれど、今日の上杉君を見て考え方が変わったの。こんなに激しいスポーツだって知らなかったし、顧問の動きについていってる迫力がすごかった。クラスでの穏やかな表情とはまるで別人で、鬼気迫るというか……とにかく凄かったの」



 前のめりに興奮気味に話してくれる神谷さんを見て、正直ホッとした。同級生や先輩でも



『なんかやれって言われたから、楽しそうだし来てみた』なんて感覚で参加した人は、キツイ練習が嫌になってみんな早々に辞めていった。全国経験者の先生がタラタラした遊びを許すはずも無く、最初から走り込みをさせたりするものだから、同じ学年の男子は今のところ自分一人しかいない。



「そうだ、ドリンクボトルとタオル! ちゃんと洗って明日持ってくるから預かってもいい? 」



 学校から近くの駅まで一緒に歩きながらそう話し掛ける。



「大丈夫だって! 嫌いな人だったら自分から差し出さないし、私が好きでやったことだから全然イヤじゃないの。チョコと同じだよ、好きな人じゃなきゃ渡さないもん」



 ハッとなり、耳を真っ赤にしてうつむいてしまった。互いにうつむいたまま白い息に包まれて歩きながら、この照れ恥ずかしい時間を打開する話題とタイミングを懸命に探す。



「そ、そういえば! ラケットの握りかたを先輩から教えてもらってたね。なかなか難しいでしょ?」



 技術に対しての話に切り替えると、彼女は少し表情を曇らせた。



「すごく丁寧に教えてくれたんだけれど『グリップを手の平で遊ばせるような』っていう感覚がよくわからなくって。ギュって握りすぎたらダメだって教わったけど、握ってないとラケット落っことしちゃいそうだし、でもフォアとバックで咄嗟に握りかたを変えるなんて考えてやってたら間に合わないだろうし……」



 自身も始めた頃に同じところで悩んだ経験がある。これは実際にシャトルを打っている中で気付くことでもあるのだけれど、基礎の部分をちゃんと理解していないと変な癖がついてしまって、手首や肘を痛めてしまったりしかねないのだ。学校の授業で使うラケットで使い物にならなくなって捨てられるばかりの状態の物を先生にお願いして譲ってもらい、グリップの部分だけを残して先の方は切断し、長さ十五センチくらいのものを常に持ち歩いて手の平の中でコロコロしている。電車に乗るとかなり空いていたので座席に座ってそれをカバンから取り出し、実際にコロコロしてみせながら彼女に説明する。



「これくらいの大きさなら電車の中でも邪魔にならないから説明するね。バドミントンはあれだけ動き回らなきゃいけないしスピードも早いから、もう感覚レベルで持ち方を変えないと間に合わないんだ。まず大きく分けると縦握りと横握りがあって、横握りだと安定はするんだけれどスピードに追い付けないのね。きっと神谷さんが普通にラケットを持つ時は、こういう持ち方をしているんじゃないかな」



 彼女の手のひらに、グリップの平たい部分が多く触れるように持たせる。



「うん、そう。当たり前にこうやって持ってるから、ここから握りかたを変えるって言われてもわからないの」



「そうだよね。この握りかたは手の平全体でペターンって持っちゃうから安定するし握りやすいんだけど、神谷さんが言うように握り替えが出来ないし、不安定な恰好で打たなきゃいけない時にラケットの面がシャトルに対して真っ直ぐになりにくいから、ネットじゃないフチの部分に当たって『カチン! 』ってなりやすいの。それを防止するための握り替えなんだけど、フォアにくるのかバックにくるのか直前までわからないバドミントンはグリップを主に小指と薬指でしか持っていなくて、あとは添えているだけなんだ。ちょっと貸してくれる? 」


 彼女からグリップを受け取り、実際に小指と薬指だけで軽く握ってみる。そのまま上に向けたり下に向けたり、グリップはグラグラした状態だ。



「もう既にこの時点で神谷さんと僕とでは二点違いがあるんだよ。一点目は縦握り、こうやって手の平の接地面を少なくしてなるべく余計な力が入らず、しなやかに柔らかく動かせるような握り方ね。もう一つはこのように小指と薬指でしかグリップを持っていない。そして残りの三本でラケットの面方向を柔軟に変えられるように、手の平の中で遊ばせているんだよ。テレビでテニスの選手がさ、サーブを打つ前とかボールが来るのを待っている時に、ラケットをクルクル回しているのって見たことない?」



「あー、確かにクルクルしてるの見たことがある! 」



「あれはね、手の中でグリップを遊ばせてボールに対してラケットの面が真っ直ぐ当たるコントロールができるよう、リラックスさせているんだよ。バドミントンも同じでどんな握りかたをしてもちゃんとシャトルを真っ直ぐ面に当てられればいいんだけれど、横握りで力いっぱい握っちゃうと反応が遅れてしまうのね。これは持ち手から先が長い道具を使う、野球やゴルフでも理屈は同じだって言われているよ。もちろん当たる瞬間はギュッって握るんだけど、それ以外の時は肩や肘の力を抜いてリラックスしているんだって」



 今度は縦握りで彼女の手のひらにグリップを置き、優しく柔らかく小指と薬指を握らせ、残りの三本で遊ばせてみる。



「上杉君、間違っていたらごめんなさい。これって、鉛筆の芯の先が丸くなってきた時に無意識に尖っている方が紙に触るように持ち替えているのと同じ理屈なのかしら? 」



 ごめんなさいなんてとんでもない、理屈は全く同じ。まだバドミントンに触れて日が浅いのに、物分かりがもの凄く早い。



「そうそう一緒だよ、鉛筆もクルクルするからギュッて握らないよね? それがグリップになっただけの話。すごいね、神谷さん呑み込みが早い! 」



「上杉君の教え方が上手なんだよー、もの凄くわかりやすいもん! 」



 ニッコリと笑顔でそう言われて嬉しかったのも束の間、なんだかんだでクラスのマドンナ神谷さんの手をずっと握ってしまっていることに気付いてしまった。



「ご、ごめんね! 馴れ馴れしく手を握っちゃった。もう降りなきゃだから、それ使ってコロコロやってみて。明日ラケット使ってそれが出来たら褒めてもらえると思うから。チョコありがとう、また明日ね」



 電車の中から手を振る彼女にホームから手を振り返し、細くきれいで温かかった手の感触を思い出しながら、カバンに納まっている二個のチョコレートを楽しみに小走りで家まで帰った。玄関を開けるや否や、いつもはちゃんとそろえる靴を脱ぎ散らかして一目散に母さんのもとに走っていき、関を切ったように話しかける。



「あのねあのね、今日学校でチョコレート二個も貰っちゃった! 一緒に食べよ」



「そう、よかったわね。みんなに優しく、自分が正しいと思った道を竜星がちゃんと歩いてきたのが認められたのね。おめでとう、じゃあ嬉しいおすそ分けを頂こうかしら。ホワイトデーにはちゃんとお返しをしなきゃね」



 生まれて初めて嬉しく誇らしかったこの日、夕食前に母さんと一緒にニコニコしながら束の間の甘い時間を楽しんだ。

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