第17話

 そこからの船旅は淡々と過ぎて行った。


 ユェンが哀情歌を吹けば、竒王は何も言ってこない。一日に何度か曲を繰り返せば、あとは広い部屋に放置された。戸口には一度も鍵さえかからなかった。

 西南に着くと、一度だけ「私の将軍になるか?」と聞かれたが、首をふればそれ以上の説得もされなかった。


 船から下りると大きな馬車が待っていた。

 船着き場で待ち構えていた赴任中の官吏が、竒王に媚びへつらっている。

 彼は竒王を博識で、慈悲深く、民のことを第一に考える聖人だと何度も褒めそやした。実体のない空虚な言葉だ。だが言葉というものは何度も何度も繰り返されるたびに、なにかの形をとり実在してゆくものだとユェンは感じた。藁と泥をまぜて土壁を塗り固めてゆくように、冗長に繰り返される空っぽの賛辞は竒王の装飾となる。

 異様に機嫌のいい竒王が、唯一眉をしかめたのは官吏が麦の豊作を知らせた時だった。


「ほぉ……龍威軍が下りたのに田畑が荒れなかったのか」

「いえ! 直後はさすがに荒れまして、今年の収穫を嘆いたのですが持ち直したのです。これもひとえに竒王殿下の采配のおかげと存じます」


 竒王の機嫌をそこねたとは気付かない官吏は調子良くしゃべる。


「妖獣も払ってくださり、収穫も残してくださった。西南は殿下の庇護の地であります。いや、まさに! 徳を持たれた貴人は神仙のごとし!」

「……まぁいい。西南の村民を全員集めろ。場所はそうだな……収穫間近の麦がよく見えるところがいい」

「は! 仰せのままに」


 官吏が下がると、竒王は隣に座らせていたユェンに顔を寄せた。


「やつらが必死に育てた麦だ。目の前で枯らしてやろう」


 必死に押し殺していても、苦痛の滲んでしまうユェンの反応に、竒王は満足したようだった。


「呉将軍を言徳司に抑えられたのは意外だったが。あの于玄が動くにはまだ時があると思っていたのだ。奴には勇み足を好まぬ老獪さがあるからな」


 ユェンに語りかけるようでいて竒王は返事を必要としていなかった。いつも通りに一人でしゃべり続ける。


「だが、まぁ良い。言徳司から東極に向かう黒龍に伝令が飛んだ。世話役が私の手に落ちたとな。今度はこちらが言徳司を使ってやろう。黒龍はすぐさま単独で龍威軍から離れたぞ。無断での軍からの離脱だ。百回はあれを叩いてやれるな。黒鱗を何枚剥がせるか見物だ」


 どうだ? 黒龍を従わせる気になったか? と竒王はユェンを見た。


「今ならお前の好きな龍を守れるぞ」

「断る。俺はけして龍に嘘はつかないし、彼らを繋ぐ鎖になんてならない」

「そうか。では死んで黒龍を大いに嘆かせろ。泥にまみれた龍はきっと蚯蚓に似ているだろうよ」


 西南の通りを、竒王の馬車が物々しく進む。

 たどり着いた麦畑は黄金の海のような輝きをはなっていた。メイレンが慈しみ育てた黄金だ。そう思うとユェンの視界は怒りで焼き切れそうになる。


 こんな形で戻ってくるなんて。逃れようとしても、竒王のあとを追うだけの足は別の動きをしようとした途端に力が入らなくなる。


 馬車からおりると、竒王は麦畑の前に立った。


「田畑がまったく荒れていないとは予想外だったが……。妖獣退治で龍が手を抜いたか? まあ、いい。むしろ豊作を目の前にして、それが腐り落ちた時の恨みを見物できるのだからな。荒れた田畑を失うよりも、より強い憎しみがわくだろう。楽しみだ」


 竒王の言葉が耳に反響する。聞こえてはいるのに、理解ができない。竒王と対峙しはじめた数年前から、言葉が届かないという徒労感はユェンを苦しめ続けている。

 それでも必死にユェンは口を開いた。


「民も龍も、おまえが守るべきものだろう」

「違うな。民も龍も、私に尽くすべきものだ」


 ユェンの目前には黄金に輝く麦が広がり、竒王の後ろには多くの配下が並んでいる。逃げ道のないユェンが立ちつくしていると、大通りの方角から村人たちがやってくるのが見えた。官吏にせっつかれながら、大勢の人々が仕事を切り上げさせられ集められたらしい。みな、困惑した表情で辺りを見回している。


「ユェン?」


 集められた群衆のなかから、声が聞こえた。

 髪を結った布飾りの赤色がユェンの目に飛び込んでくる。

 大きく目を見開いたメイレンと目が合う。今にも駆けてきそうな少女の後ろに向かって、ユェンは声を上げた。


「テイヨウ! メイレンを絶対に離すな!」


 ユェンの切実な声を受け、メイレンのそばに控えていたテイヨウが彼女を羽交い締めにした。事情はまったく分からないが江湖の勘で体が反応した、そんな動きだった。


「ユェンがいるの! ねぇユェン! なにをしているの? ちょっと! テイさん! あそこにユェンが……っ!」 

「知人か?」


 竒王の問いかけにユェンは視線を足下に向けた。


「……ああ。丐幇のときに世話になった」

「物乞い相手か」


 そういうと竒王は興味をなくしたらしい。もとから民への関心は薄いのだ。彼の視線を避け、ユェンはメイレンたちを牽制するために小さく首を振った。


「ほら、見たかお嬢。ユェンのやつが近寄るなと言っているんだ」


 ユェンのその様子を遠くから見ていたテイヨウは、暴れるメイリンをさらに強く抱え直した。極力、役人の関心を引かないよう声を抑えるのも忘れない。

 ユェンが西南に滞在した期間は短くとも、その人となりは分かっているつもりだ。どう見ても隣の男との関係は友好的なものではない。近づいてはならないとテイヨウの本能が告げていた。

 ふだんはふんぞり返っている高官が、こめつきバッタのように頭を下げているところを見ると男は貴人……いや大都の皇族かもしれない。ユェンに向けられた竒王の酷薄な笑みにテイヨウはぞくりと身を震わせた。


「お嬢、今は近づいてはダメだ。きっとユェンがあとで事情を教えてくれる」

「……でも」


 とつぜん招集され、訳も分からないままに麦畑を前にした西南の群衆。

 明日はついに麦の収穫だった。輝く麦に浮ついていた心に動揺が広がっている。

 竒王にうながされ、うつむいたままのユェンが弱々しく麦畑に入ってゆくのが見えた。


「ねぇ……ユェンは何をしているの?」


 異様な雰囲気を感じ取ったらしいメイレンは、いつのまにかテイヨウにしがみついた手を震わせていた。人々のざわめきに不安が掻き立てられる。何か悪いことが起ころうとしているとメイレンは思った。


「テイさん、あの人たちはなに? 大都の人よね? なんで麦畑にユェンを押し込むのよ」

「俺にだって分からねぇよ」


 何が起こっているのか分からない故にテイヨウは動くことができない。ただ、ユェンに言われたとおり、けして離さぬようにメイレンの肩を掴み直した。人混みに押し潰されないよう、テイヨウは自分の体を盾にして幼い少女を守る。


 麦畑に集められた群衆のざわめきが大きくなった。これから何が起こるのか分からない不安からくる動揺だ。


 その膨らみつつある気配を感じながら、竒王は従者に命を下した。


「世話役を射て。麦の穂のすれすれ、あやつの胸を狙え。群衆には弓を射ったことを気付かせるな。矢を穂に隠すんだ」


 殺せ。この麦畑に世話役の血を吸わせろ。と、竒王はいった。

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