第16話

 マズい。起きた瞬間にユェンはそう思った。


 気をつけろといわれていたのに、この様だ。見たこともない部屋は、繊細な細工の施された高級調度品で整えられている。

 ルオの逆鱗のなかで目覚めた時、ユェンの心は安らいでいた。見知らぬ場所ではあっても、逆鱗のなかは危険ではないとすぐに分かったからだ。


 だが、ここは違う。

 周囲の気配を伺ってから、音をたてないように身を起こす。両手首は背中できつく縛られていた。

 大きな寝台に寝かされていたらしい。部屋に人気のないことを確認して、ユェンはそろそろと開いた窓に近寄った。


「くそっ! 船か!」


 窓の外は幅の広い河川の深い緑色が広がっていた。流れが早く、岸までもかなり遠い。

 船内と分かった瞬間、部屋の揺れにも気がついた。

 閉じ込めたくせに、格子もない開け放れた窓があるなんて不思議に思ったが、それは船上だからだ。


「不味いな、ルオの足手まといになる。何とか逃げ出さないと───」


 ユェンは寝台から一段低くなった板間におり、書き物机の上を物色した。


「刃物はないか? とにかくこの頑丈な縄を切りたい」


 焦りをひとりごとで何とか抑え込む。背中で縛られた手でどうにか筆入れをひっくり返すが、縄を切れるようなものは出てこない。

 ユェンは部屋を照らす燭台に目を留めた。


「火で縄を焼く、これだ」


 ちょうどいい高さにある蝋燭に目星をつけ、ユェンは後ろを向いた。炎の先端にきつく縛られた結び目を当てる。肩越しに見ていると、揺れた炎が手首を焼いた。


「熱っ」


 しまいには袖口に炎が燃え移る。


「嘘だろっ、燃やしたいのは袖じゃない。うわぁ不味い! 丸焦げになる!」


 火を消そうと転げ回っていたユェンの頭上に、冷たい声がかかった。


「相も変わらず騒がしいな」


 視線をあげると、部屋の戸口に長身の男がいた。

 長衣は艶のある深い緑。きめの細かな上等の布地は、大都でしか手に入らない。一分の乱れもないその立ち姿は、一目で貴人だと分かる威圧感があった。顔立ちは整っているが、酷薄な印象がそれ以上に強い。

 竒王はゆっくりとユェンの眼前までやって来た。


「やはり物乞いは寝台ではなく床で寝るのか」

「竒王……殿下」


 ユェンは身を起こし、のろのろと頭を下げた。

 敬意があるわけではない。礼の姿勢をとらないと、目の前のくつが容赦なく顔を蹴りあげることを知っていたからだ。


「私に歯向かい、生きているのはお前ぐらいだ。達者なようで嬉しいぞ」


 何と応えればいいのか分からない。だが竒王との会話はたいていがこうであったことを思い出す。ユェンは地べたに這いつくばい、竒王が一人でしゃべるのだ。一方的に服従を要求するひりついた空気には馴染みがある。


(まったく思い出したくなかったが……)


 ユェンは意を決して口を開いた。


「龍威軍に戻ったことを咎めるのですか? しかし、俺は籍を戻したわけじゃない。龍と会ったことは弁解のしようもないが───」

「咎めていない。もっと早く戻ればいいと思っていたぐらいだ」


 竒王は至極穏やかにユェンの問いに応じた。不味い兆候だ。竒王と渡り合ってきたユェンだから分かる。龍たちにとって良くない事態が目の前の男の主導ですでに進み始めていることを示している。


「なぁ、ユェン。笛を吹いてくれないか?」


 私のために───。

 彼はいつもユェンに笛を吹けと言う。軍営で偶然に聴いたらしい哀情歌を気に入ったというが、そんな生易しいものではない。


 竒王はユェンの笛を聴いた最後の一人になりたいのだ。


 哀情歌を一度でも捧げれば、おそらくこの男はユェンを殺す。


「笛は吹かない。吹いたら殺されると分かっているのに吹く奴があるか」


 ユェンは竒王を睨みあげ、きっぱりと拒絶した。



 その時だった。

 部屋の戸口の外が騒がしくなった。ばたばたと床板を走る音が近づいて来る。


「旦那さま!」


 部屋に飛び込んできたのは、軍営で追われていたあの女だ。


「どうして私のもとに来てくださらないのです? 言われた通りに上手くやりました。そんな素人の笛なんてどうでもいいはず。私の笛は都の首席楽士からも賞賛されたのですよ」


 女が喚きながら奇王にすがり付くのを見て、ユェンは勢いよく立ち上がった。


「やめろっ! 離れろっ!」


 ユェンの怒鳴り声に、苛立った女は目を釣り上げる。


「何ですって? お前こそ旦那様から───」

「煩い」


 興奮する女の声に、竒王の感情の乗らない声が重なった。次の瞬間、竒王の足がまとわりつく女に向かって蹴り上げられる。

 が、重い打撃が当たったのは、すんでの所で間に飛び込んだユェンの腹だった。


「……ぐっ」

「きゃああ!」


 女を背に庇いながら、倒れこんだユェンが血を吐く。両手を縛られていたため、力を逃せるうまい所に当てることが出来なかった。

 せりあがってきた血を吐ききって、ユェンは奇王を睨み返した。


「なぜ人を傷つける!」

「なぜ? 私の許可もなくわめき散らしたからだ。ああ、血を吐いたのか。笛を吹くのに支障が出るか?」


 顔色も変えずに首を小さく傾げた竒王は、淡々と家職を呼んだ。影のような小太りの男がすぐに現れる。


「女の舌を抜け。邪魔だ」


 竒王の命令に、ユェンの背中から悲鳴が上がる。女の腕を取ろうとする家職にユェンは叫んだ。


「やめろ! 部屋から出せば済む話だろう」


 家職はユェンの言葉など聞かなかった。見えてもいないのだろう。彼が従うのは主の命令だけなのだ。

 そのことを早々に悟ったユェンはこちらを見もしない家職の男ではなく、竒王を見た。その反応は奇王をひどく喜ばせることになる。


「龍を縛るのは手がかかるが、お前を縛るのは容易いのだな」


 縛られた両手のことかと思ったユェンに、竒王は首を振った。


「そうではない。おい、世話係の縄を解いてやれ」

「……なんのつもりだ」

「手を縛るよりもよほどいい枷を思いついた。手を縛っていては笛が吹けぬしな」


 目を細めて笑みをこぼした竒王は、穏やかな声音のまま「女の方は舌を抜き、河に放れ」と家職に命じる。


「なぜそんなことをする!」

「お前が自分から笛を吹きたくなるようにしてやったんだ。自分をはめた妓女を助けたいのだろう? ほら、早く跪け。今なら願いをきいてやる」


 ユェンが迷えば、竒王は簡単に女を殺すだろう。人を追い詰めにはどうしたらいいのかこの男は熟知しているのだ。


 ユェンはうずくまる女から離れると、竒王の前で自ら膝をついた。


「ほらな。手を縄で縛るよりも、よほど上手く縛れた。弱みが分かりやすいやつは扱いやすくていい」


 竒王はゆっくりと椅子に腰掛けた。


「女は船底にでも閉じ込めておけ。これを縛るのに使えるからな。ここには人を寄せるな、行け」


 家職と女が去り、二人きりとなった船室で、ユェンは恐れよりも怒りを感じていた。彼女のために膝をついたままではあったが、今にも噛みつきそうな視線で竒王を見る。


「なぜ人を人とも思わない。人を踏みつけるのが貴人だとでも思っているのか。人を導くからこその身分だろう!」


 ユェンが怒鳴っても竒王は意に介さない。感情を揺らすまでもないと態度が示す。そのふるまいは、人を萎縮させ口をつぐませるのに有効だった。


「私以外の者はすべて道具だ。もちろん龍も」


 ユェンが荒らした書机をゆっくりと見下ろしながら竒王はいった。


「なぜそこまで龍を憎悪するんだ」

「お前は袖箭(そでまえ)を知っているか? 小型の矢をバネで飛ばず護身具だ。かさばる弓がなくとも片手で矢を飛ばし急所を狙える。便利な道具だ。だが、この矢が打ち手の方に飛ぶ可能性があったらどうだ? 相手に向けて射ったつもりが、自分に矢が飛んでくることもあるような欠陥のある仕掛け。それは、道具としては評価に値しない。そうだろう? 破棄されるには十分な理由だ」

「……力が強大すぎるから龍を縛ると?」

「私に忠誠を誓うなら使ってやるんだがな。さて、この帆船はどこに向かっているか当ててみろ」


 窓の外の河。その奥に見える緑の稜線には見覚えがあった。


 「西南だ」と竒王はいった。


二月ふたつきまえに妖獣討伐を行った今もっとも龍気が濃い場所だ。そこでお前を殺す。きっと黒龍は来るだろう。黒龍がこの短期間に二度も降りたら土地は確実に死ぬ。西南の農民の憎悪を極限まで煽ってやろう。土を爛れさせた龍として、お前の黒龍を死ぬまで縛って使役する」


 これがひとつ目の案だ。と竒王はいった。まるで天気の話をするように。


「ユェン。お前が龍を従えるなら、私はお前を殺さない。お前のいうことなら、龍は盲信するだろう」

「俺に龍を縛れというのか」

「ああ。上手に役目をこなせたら龍威軍の将の位につけてやる。呉を退けてな。お前の大好きな龍は死なない」


 どうしたらそんなことを思いつくのかユェンには分からなかった。二つの選択肢はどちらもだれかを虐げ、踏みにじる。

 他者を黙らせ、もの言わぬ道具とする竒王。「舌を抜く」という行為そのものがこの男の本質だった。


 口のなかにまた血がたまり始める。ユェンは必死にその血を飲み込み、口を開いた。


「殺すならさっさと殺せ。俺は龍を縛ったりしない」

「バカだな。お前を殺すのは大勢の民の目の前で、だ。お前の死であの使い勝手の悪い黒龍は堕ちるんだ。いくら力が強くとも、バカな群衆をまとわりつかせれば地を這うしかなくなる」

「竒王!」

「まぁいい。もう少し考えろ。舟が西南に着くにはまだかかる。笛でも吹け。聴いてやる」


 竒王はそういうと目を閉じた。

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