第15話

 ユェンの足が本物の土を踏んだ。


 ルオの逆鱗のなかでは感じなかった有機物の匂いにまず気がつく。むわりとした夏の日差しに、虫の気配が濃い。逆鱗のなかには存在しなかった不快感にほっとして、ユェンは息を大きく吸った。


「先生!」


 ドン! と胸に飛び込んできた衝撃。足がもつれるが、誰かがユェンの背を支えた。


「わ、ギョクコか!」


 ユェンの胸に埋まる銀髪が、パッと顔を上げる。水の膜を張った翡翠の瞳が光った。人姿のギョクコだ。


「会いたかった。とても、とても……会いたかった」

「ああ……俺も会いたかったよ」


 ぐりぐりと額を押し付けてくるギョクコをユェンはそっと抱き締めた。


「しかし、すごいな。角も鱗もどこにも出てないじゃないか。どこかの公主みたいだ」

「先生がいない間に完璧になった。もう書物の方が先生かも知れない」

「ついに書物に立場を追われたか」


 そう笑うと、ユェンは黙って自分の背中を支えてくれている男を振り返った。


「人姿のルオに会うのは初めてだな」

「緊張する……あまり見ないで」


 嫌そうに顔を背ける男は背が高かった。端正な顔立ちに、絹糸を思わせる黒髪と湖面のように深青の瞳が繊麗な、美しい男だ。


「ルオ……その外見で恥じるなんて……お前、夜道で刺されるぞ……?」

「恥じてはいない。ユェンに好かれないと困ると言っている」


 ユェンの腰に回っていたルオの両腕に力が入った。体格がいいので包み込まれる。顔は宝玉のようなのに、身体は龍の力強さが色濃くでていることが、よく分かる抱擁だった。

 首すじにルオの額が押しつけられる。艶やかな黒髪が流れてきてユェンを覆った。


「ルオ、おい、ちょっと……」


 ユェンの胸に張りついたままのギョクコが訳知り顔でいう。


「ほら、人姿は便利だといったでしょ。そうやって先生を抱きしめるのだって龍のままじゃできない。もちろん、書物を読むには人の目と、人の指先が便利。親指から小指まで。先生、私の書いたものを見て欲しい。字もうまくなったし、内容も自信あり。詩も何編か書いた。読んで欲しい。こっち。はやく」


 ギョクコが引っ張るのに、背後のルオは両腕を解くつもりはないらしい。動けないユェンに気づいてギョクコは声をあげた。


「ルオ、離して。先生は私と書の話がしたい」

「……」

「ルオ! なぜいつも先生を独り占めする。私の番だってあるはず!」

「……」


 威嚇しあい始めた黒と白の龍たちの懐かしさに、ユェンは胸がつまった。遠い過去と思っていた八年前に一瞬のうちに時が戻ったようで混乱する。

 危うく泣きそうになったユェンは、涙を隠すため大げさに頭を振った。


「おい二人とも、一度離して……」

「ユェン~! 一番かわいいイーファが来たわよ~!」


 三人が押しあっているところに、さらに明るい声が飛び込んできた。

 桃色の花弁を舞い散らしながら現れたのは人姿の華龍だ。夏の日差しに透けた薄紅の髪が発光するように輝いている。

 ドーン! と、無邪気にぶつかってきたイーファに、涙のひっこんだユェンは本気の悲鳴をあげた。


「ああ! 潰れる!」










 八年ぶりの龍の浮き島は、ユェンを温かく歓迎した。崑崙から追加したらしく、浮き島は昔よりも大きくなっていた。蔓草を編んだ吊り橋で繋がった小島もいくつかある。


「まだ竒王に対する準備ができていない。本当は逆鱗にしまっておきたいけれど、それがダメならばできるだけ浮き島から出ないで身を隠していて欲しい」


 ルオの言葉に、ユェンは神妙に頷いた。

 西南行きの小舟で出会った盗賊が、竒王の息のかかった者だと聞いた時には冷や汗が出た。寸前で救ってくれたルオには感謝しかない。


 仔龍ではなくなったルオに幾ばくかの寂しさは感じるものの、その成長は嬉しかった。


「ありがとう、ルオ」


 ユェンがそういうと、左腕に張りついていたギョクコが眉をしかめた。


「でも逆鱗に人をいれるなんてとても危険。もちろん竒王をかわせたのはルオのおかげだけど、ルオは先生のことを考えていない」


 八年前は泣いてばかりいた白龍は、つねにユェンを心配する優しい龍となっていた。ユェンのやり方を真似て、朝廷と書で地道に交流していると聞いたときには泣きそうになった。

 ギョクコは逆鱗について神妙に話を続ける。


「少しの間ならまだしも、長い間逆鱗に物をおくと龍気に侵されてしまう。玉なら龍に馴染むことで輝くけれど、先生の柔らかい体ではどうなると思ってるの?」

「具体的にどうなるんだ?」


 ユェンの問いに誠実にこたえようとしたのだろう。ギョクコは首を傾げつつ、言葉を選んで口を開いた。


「ん……くわしくは分からない。知識不足。不覚。人を逆鱗に入れた龍なんていないから、書にも記載がない。そもそも逆鱗は、龍が将来崑崙で孵化させる卵となる候補の玉を入れておく場所。だから、外からそこに触られると龍骨が雷で痺れるみたいに嫌な気持ちになる」


 ギョクコは続けた。


「逆鱗の裏にいればいただけ龍気が馴染んで、玉はその龍から離れられなくなる。宝玉に龍の名が刻まれるのと同じ。龍が数年抱えたぎょくは龍珠になるでしょ。人だって気息が変異するはずなの。いざルオのそばを離れて、息が出来なくなってたら困るでしょう」

「離れなければ困らない」

「ルオ!!」


 ギョクコが代わりに怒ってくれるのでユェンは任せることにした。


「とにかく! 必要以上に先生を逆鱗に入れて隠さないで。柔らかい先生が変異してしまったら困る。もう竒王の間者もいなくなったのだから安心でしょう?」

「いいや」


 呉将軍は言徳司に抑えさせたが、竒王にはまだ手が届かない、とルオはいった。


「右腕である呉将軍を抑えられた竒王はこれまでになく苛立っているだろう。わたしの逆鱗にいてもらうのが一番安心だ。討伐の令が下ったら、わたしたちはここを離れなくてはならない。ユェンを置いては行けない」

「でも逆鱗が先生に影響を与えるかもしれないと言ってるの。隠すのもよくない。独り占めしないで!」


 加熱する二頭の龍の言い合いに、ユェンはしかたなく割って入った。


「まてまて。そもそも俺はモノじゃないんだ。袖内にいれるような気軽さで仕舞ったり出されたりされたら困るぞ」

「わたしの逆鱗は気に入らなかった?」


 ルオのあまりにも悲しそうな声音に、ユェンは慌てた。


「ルオそんなことは───っ、」

「先生! 騙されないで、これはルオの昔からの手。可愛い子ぶって先生を手に入れようとしている。策士であり、邪悪。」


 ギョクコがすかさずルオを牽制した。










 ルオとギョクコに妖獣の討伐の指令が下ったのは、それからしばらくしてのことだった。


「海沿いの極東に向かわないとならない。私とルオなら飛べるけど、人間の軍と進行しなくてはいけないから……」


 ギョクコは心配そうにいった。


「私たちがいない間は、とくに注意して」


 ルオとギョクコが出掛けてから四日目。ユェンは言われた通りにおとなしく浮き島で過ごしている。正直、龍気が強すぎて体は辛い。月見をしながら酒を飲んで誤魔化すが、夜はあまり眠れなくなっていた。


 浮遊するような霊岩は特に、純度の高い龍気が結晶化しているようなものなのだ。ルオたちが居る間は、好きなときに竹林に降りて陽気を散らせていたが、それが出来なくなると陽気がたまるばかりだ。


 放浪の道中で集めた陰の気のこもった白海石はすでにほとんどが空になり、逆に陽気を溜め込み始めている。熱く加熱した白石は、このままだと龍珠にでもなってしまいそうな勢いだった。


「ダラダラと寝そべっている間に大金持ちだ。こんなに質のいい玉が十八、九……。都の一等地に池のついた屋敷が買えそうだな」


 眠れないので無駄なことが口をつく。


 その時だった。ユェンの耳に飛び込んできたのは女の悲鳴だ。

 軍営に女がいることはない。思わず浮き島から身を乗り出して、下方に視線をやる。夜の竹林にチラチラと、いくつもの行灯の光が揺れた。その明かりに追われるように、笹葉の影から女が一人見えた。

 宵闇に白い肌が目立つ。衣ははだけ、まるで下着姿の女が、沓も履かずに駆けていた。


 ユェンは浮き島から飛んだ。龍気に満ちた空気が柔らかく着地を助けてくれる。

 長い髪を振り乱して駆ける女の前に、ユェンは飛び出した。


「何があった」


 言い終わる前に、女は一目散にユェンの腰にすがり付いてきた。


「助けて! 追われてるの」

「龍威軍の兵にか? 一体なにがあった」


 足音が近付いてくる。提灯の明かりが竹藪の奥に見えたので、ユェンは女のむき出しの肩に自分の外衣を着せかけ、背に隠した。


「兵たちは軍営で闇雲に問題を起こしたりしない。きっとなにか勘違いが───」


 言葉が終わる前に、ユェンの後頭部に重い衝撃が走った。頭を揺すられ、視界がぶれる。痛みを感じる前に、ユェンの視界はふつりと光を失った。

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