第14話
ユェンを隠した逆鱗。
人姿をとった黒龍は、その逆鱗に手を当てた。ちょうど左胸の位置にそれはある。
(ルオ! こら! 返事しろ!)
逆鱗のなかで騒ぐユェンがいとおしい。八年ぶりに、体が満ち足りたり龍気が溢れるのをルオは感じた。意識して龍気を抑え込まないと、沓底の接している地面から今にも色とりどりの花が咲き乱れそうだった。
隣には文句をいうギョクコがいたが、逆鱗のなかで目を覚ましたユェンの動きを追うのに忙しくルオは相手を忘れていた。
まったくこちらに反応を返さなくなったルオに、ギョクコは怒りを通り越して呆れ果てた。
日頃は無口ながらも頼り甲斐のある黒龍が、ことユェンに関する事柄では執着がひどくなる。
そもそも龍族というのは自分の
ギョクコは黙ってしまったルオの足元に目をやった。そこには崑崙の高地でしか咲かない瑞祥花が、あわや花開こうとしている。
ギョクコは慌ててそれを踏み潰した。地上で咲いたら鳳凰が舞い、仙泉が湧き、今後数百年は天上から光の差しつづける瑞祥の地となってしまうからだ。
「はぁ……私に涙を溢すなって叱ったのはルオのくせに。どれだけ先生を隠したのが嬉しいの」
思わず憎まれ口を叩いてしまうギョクコである。どこに隠したのかは分からないが、黒龍の喜びようからユェンが元気なことはわかった。
「私だって会いたいのに……」
浮島の前庭が騒がしくなったのは、ギョクコが足元の瑞祥花を念入りに踏み潰し、そばの小石を苛々と蹴り飛ばした時だった。
二十ばかりの兵士を引き連れた龍威軍の長、呉将軍が竹林と雑木林を抜け、浮き島の下までやって来たのだ。
きらびやかな鎧を身につけた呉将軍は、淀んだ目をした人物だった。その泥のような目で浮き島を見上げ、彼は声をあげる。
「龍よ。軍営の敷地内に侵入者ありと報告を受けた。竹林と浮島の見回りをする」
高圧的な物言いに、ギョクコはすぐに彼らの前へと飛び降りた。ルオがどこかに隠したユェンを守らなくては、と思ったのだ。
人としゃべるのは得意ではないが、ギョクコは精一杯の虚勢を張り口を開いた。
「いつもは龍気が体に悪いといって立ち入らないくせに何。人なんて来ていない。入らないで」
「白龍、どけ。軍の決まりだ。侵入者がいないことを確認する。上からの命だ、背けば罰するぞ」
呉将軍の淀んだ目に、ギョクコは舌打ちをしたくなった。
彼は竒王の傀儡だ。呉将軍の行動はすべて竒王の意思に乗っ取っている。
ルオがユェンを連れ帰ったことで、竒王が早速に動いたのだろう。冷酷で躊躇いのない一手はつねに速い。
「だから侵入者なんていないと言っているっ!」
「ギョクコ」
食って掛かろうとしたギョクコを止めたのは、いつのまにか隣に降りてきていたルオだった。
「構わない。侵入者がいれば困るのは龍族も同じだ」
ルオの静かな言葉に、ギョクコは慌てて黒龍を見上げた。
「大丈夫なの……? ルオ、だって……」
先生が……と、声には出さずに聞く。
すると、将軍たちには見えないギョクコの背中に黒龍の手がそっと触れた。
(大丈夫)
すぐには信じきれず戸惑うギョクコを置いて、ルオは前を向いたまま続けた。青の瞳は静かに凪いでいて焦りは見えない。
「どうやって調べる。浮き島を降ろすか?」
「それには及ばん」
呉将軍は首をふり、片手を挙げた。背後から覆面をした黒装束の男が数人現れる。宮中の術師だ。
彼らはすぐに円陣を組んで座り込むと、印を結び術を始めた。円陣の中心から立ち上って来たのは白煙だった。密度の濃い煙は、一気に周囲の視界を奪った。粉っぽい刺激臭が鼻をつく。
「人にのみ効く白煙だ。我らは事前に解毒の術を施してある。龍には効かぬから安心しろ」
呉将軍の虚ろな目が、探るようにルオを見た。黒龍の反応を試すような口ぶりはあからさまだった。
軍営に人が入ったというでっち上げでユェンを探していることを隠す素振りもない。
ルオに劣らず、いやそれよりもひどく暗い色を持ちながら竒王はユェンに執着をみせる。その熱量が八年前から衰えていないことに、ギョクコは思わず身をすくめた。
白い煙のなか、呉将軍は続ける。
「人が嗅げば眩暈を起こし、浮き島から落ちてくる。立ち入らずとも効率よくネズミを探せる。気に入ったか?」
呉将軍の煽りに、しかしルオは動じなかった。それどころか、片手のひとふりで風を呼ぶと低地に漂っていた白煙を竹林と浮き島を包むように巻き上げてみせた。
「黒龍! 何を!」
「いぶり出したいのだろう。手伝おう」
ルオの言葉と共にどさりとものの落ちる音が続けざまに響いた。
しかし、視界は濃密な白煙で遮られているのだ。将軍は世話役を逃してなるものかと声を荒げた。
「世話役が落ちたぞ! 逃がすなっ! 必ず捕らえて……っ、ええぃ! どこだ! なぜ左右から聴こえる! どっちだ?!」
白煙を振り払うように呉将軍は両腕を振り回した。やみくもに暴れても術の生み出す白煙は晴れない。
「術士! これでは何も見えんっ! 世話役に逃げられるっ。早くこの煙を退けろ!」
次第に白煙が晴れてきた。
「捕まえろ! けっして逃すな!」
将軍の怒声に、控えていた兵たちが竹葉の繁みや浮き島の側面から落ちてきた人影に飛びついた。
「よし! そのまま抑えておれ!」
逃げた影はなく、落ちてきた全員が兵士に捕らえられた。上々の成果に将軍は口元を綻ばせる。捕らえた人影は三体。そのどれかが軍を去った世話役だろう。
だが、その読みは外れた。
兵が捕らえた三人ともが、龍威軍の鎧を身につけた兵士だったのだ。
「……っ、紛らわしい! さっさと持ち場に戻れ!」
「待て」
三人を蹴りつける勢いで追いたてようとした呉将軍をルオが制した。
「将軍の探していた侵入者だ」
「何を言っている!龍威軍の兵士だろう」
「なぜ分かる」
ルオの凪いだ瞳にはじめて光が走った。
去ろうとしていた三人の男が躓き、地面にめり込む。見えない手に押さえつけられた彼らの口からは悲鳴が上がった。ルオの龍気が、三人の自由を完全に奪っていた。
「何をする?! 軍の兵だ! ここにいてもおかしくはないっ」
「身分証も持たぬのにか? 確かに兵站部の着る鎧を身に付けているが、見ない顔だ。軍内に籍があるか確認しては?」
「なっ、なっ、なにを……っ!」
呉将軍は顔を真っ赤にして憤慨した。それには理由があった。
さっさと逃がして事なきを得ようとしたこの三人。じつは浮き島を見張らせていた竒王の子飼いだったのだ。
世話役を見つけるために乗り込んだというのに、なぜか間者が姿をあらわすハメになった。この状況に呉将軍は唇を怒りで震わせた。
まるで軍に寄り添うような黒龍の隙のない言葉は、喉元に剣を突きつけられたようで不快感しかない。呉将軍は虚ろな目を忙しなくギョロつかせた。
竒王は失敗を許さない。指示された世話役を捕らえられなかったばかりか、間者を公の場に引きずり出されるなど取り返しがつかない大失態だ。
なんとか間者を逃がさなければ首が飛んでもおかしくない。
「軍内の兵だといっただろう! 口を出すな黒龍! そいつらをすぐに離せ。勝手に兵を傷つけたら軍規に反するぞ。罰則だ! 背中をしこたまに打たれたいか!」
怒鳴り声で、将軍は邪魔な黒龍を黙らせようとした。だが、ルオは静かなまま一歩も引かなかった。
「軍規を破ったつもりはない。将軍の探している侵入者ではないか、と言っただけだ」
「うるさい! 私が兵といったら兵なのだ!それよりも貴様の隠した世話役を───」
「その続きはこちらが引き取ろう」
あわや黒龍に掴みかかる寸前だった呉将軍を止めたのは、よく通る老練な声だった。
第三勢力の突然の介入に将軍は慌てた。相手の顔もろくに確認せずに高慢に声を荒げる。
「我が軍内のことだ! 口を挟むな!」
「そうかな? 兵士たちは持ち場を離れず欠員報告もない。黒龍殿のいうように軍籍のない者が鎧を身につけ軍営に紛れるのは大事だろう。審議にかける必要は大いにある」
その声の響きに呉将軍はようやく相手の顔を確認した。
「言徳司の于玄?!」
言徳司とは皇帝直属の特務機関だ。様々な府の監査を司り、朝廷において強大な捜査権をもつ。そこの長が于玄という白髪の男だった。
「なぜ言徳司がここにいる?!」
「何度も立ち入りを要請しただろう。それにしても近頃の龍威軍は規律の乱れが目立つのではないかな? この三人は我らが預かる。軍内に不審者を放置したとなれば、軍の長たる将軍の責任も逃れられませんぞ」
おおらかに微笑みつつもしっかりと釘を刺す于玄だ。その間にも、彼の配下は手際よく間謀三人を拘束する。
「ようやく会えた呉将軍とは積もる話もある。いつもお忙しそうでしたからな。ぜひご一緒に言徳司へ」
この于玄の一声には強制力があった。日頃から尊大な呉将軍も従わざるを得ない。なにしろ皇帝直属の機関なのだ。言徳司に逆らうことは大都の皇帝に反逆することに当たる。
呉将軍たちが言徳司とともに去ってゆくのをルオとギョクコは無言で見送った。
列の最後でゆったりと踵を返した于玄だけが、ルオとギョクコに礼をとり、軽い目配せを残してゆく。
彼らの背中が見えなくなってから、ギョクコはルオを見上げた。
「……あの人たちはルオが呼んだの?」
「軍内に入るのを手伝っただけ」
「どういうこと? 龍の味方なの?」
「違う」と、ルオは静かに首を振った。
「竒王に対する勢力が朝廷にも少しはある。目に余る竒王の勢いを抑えるという目的が今回は共通しただけ」
ルオの言葉にギョクコは戸惑った。
「ルオ、あなたまるで朝廷の官吏みたいなしゃべり方をしてる」
「……朝堂ではこうしてる。慣れれば疲れない」
ルオは左胸を抑えながら、曖昧にうなずいた。
「私がユェンを隠したら、竒王は一番に龍の巣を探すことは予想ができた。ユェンを渡さぬ自信はあったけれど、どうせなら浮き島に張りついていた間謀を散らしたかった」
「あの落ちてきたのが竒王の見張りなの?」
「そう。彼らがいてはユェンをここに出せないから」
ここに出せない。その言葉にギョクコはルオがユェンを隠した場所にようやく検討がついた。
「ルオ、……まさか先生を逆鱗に隠したと言うの?」
ルオはまっすぐに前を向いたままだった視線を、手を添えた左胸に落とした。ゆっくりと深く息つく。
「そう。ユェンはここにいる。西湖からの帰りに何ヵ所か足跡を残してきた。次はそこの捜索が始まるだろう。少しは時間が稼げるな」
いとおしそうに自身の左胸に触れるルオに、ギョクコは詰め寄った。
「つまり、もう先生を出して問題ないはず」
「……」
「ルオ! 早くしないと、先生に貴方の悪口をいう! 秘密もバラす! 先生聴こえる?! ルオったらこの八年───」
逆鱗に向かって騒ぎだしたギョクコに、ルオは心底嫌そうな子どもっぽい顔をした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます