第13話
「―――逆鱗のなかか」
そうユェンは結論を出した。
この空間では踏む土にも建物にも花にも、すべてにルオの
小径を彩る一株が小山のような大きさの夾竹桃の茂みは、ユェンの背丈をゆうに越す。鮮やかに咲く花は色とりどりで白、朱、橙、そして濃淡のさまざまな桃色だ。
夾竹桃の茂みに、ユェンは声をかけた。
「ルオ、そこに居るのか?」
広がり続けるのこの小径には見覚えがあった。人が嫌いだったルオが黒龍の姿でよく隠れていた場所だ。森のように葉を伸ばす夾竹桃のかげは、龍の大きな体も優しく隠してくれる。
夾竹桃には毒がある。美しいその花にはもちろん、根や茎、葉、種子も有毒だ。
だが、葉や樹皮を乾燥させれば薬にもなることをユェンは知っていた。夾竹桃は龍たちによく似ていた。
「ルオ、なぜ隠れているんだ」
ユェンの呼び掛けにこたえる声はない。代わりに、懐かしくも、どこか知らない雄々しい気配の交じる清廉な水の匂いが強くなった。黒龍のものだと思うのだが、自信はない。離れてしまった時間の長さにユェンは眉をよせた。
別れも言わずに龍威軍を去ったユェンは、龍たちに向ける顔がない。
「なぁ、ここはお前の逆鱗のなかなのか?」
やはりこたえはないが、柔らかな青草の上に寝そべれば、トクン、トクンと鼓動が聴こえた。
龍の逆鱗は、触れた者を必ず殺すといわれる龍の逆さに生えた鱗だ。
力の強い龍は逆鱗を門として、その奥に自分だけの空間を持つという。
龍の逆鱗の裏には、彼らが好む
「だが、どう考えてもここにあるもの全てからルオの気配がするんだよな」
小径が開けた先も、ユェンのよく知る風景だった。
竹林に囲まれた風通しのいい岩場。そこは軍営の幕舎と龍の浮き島の境目だ。ルオとともにひなたぼっこをして、ギョクコとともに詩を読んだ思い出の場所。
おそらくここは、ルオの記憶が形となっている場所なのだ。
「……思い出の場所なのに、俺はひとりでここにいないとならないのか?」
(違う)
おもわずぼやいてしまったユェンに、懐かしい静かな声がようやくこたえた。
「ルオ! なんだよ、顔くらい見せろ! いや、ここから出してくれれば勝手に見る。早く出してくれ」
(今出たら竒王に捕らえられる。少しだけここで待って)
「少しってどのくらいだ」
(正確にはいえない。ここにはユェンの好きなものは何でもある。私の逆鱗のなかを好きになって欲しい)
「いや、好きになるも何もー―ー」
(食べ物もある)
ふと、ユェンの足下に小さな双葉が顔を出した。みるみる葉を大きくし、幹を太くしていったそれは大樹となり、最後にはまるまるとした大きな桃を実らせた。
「なんて……めちゃくちゃな世界だ」
思わずユェンは天を仰いだ。
龍の逆鱗に人が入った話など聞いたことがない。気に入りの玉を隠す宝物庫という噂はあったが、ルオの逆鱗のなかには大地と空、それに庵までがある。規格外の空間だった。
(ユェンの好物の仙桃も無限に食べられる。私の中にいて)
ユェンは目の前の瑞々しい香りに負け、仙桃に手をのばした。産毛の柔らかな大きな実をもぐと、むっつりとした顔のままかじりつく。文句なくうまい水蜜桃だ。
あごを伝う香しい果汁をそでで拭いつつ、ユェンは天に向かって口を開いた。
「なぁ、ルオ。竒王が相手なら俺を出せ。恨みを買ったのは俺だし、龍に手出しはさせない」
(私を守る貴方の背中が、これ以上傷つくのは許せない)
ルオの逆鱗の内側にいるためだろうか、黒龍の切なる心情が震えもそのままに熱を持って天から降ってくる。
(ユェンが守ってくれるのと同じだけ、私も貴方を守る。私は物知らずだと、ユェンがいった。その通りだ。貴方を守るには人の世を知らなくてはならない。それまで貴方に会えないのは当然だと思った。何も知らない私は貴方のそばに寄る資格がない)
ルオの言葉に、ユェンは慌てた。
「違うよ。そんなつもりで龍威軍から出て行ったんじゃない。ルオのせいなんてことは一つもないんだ。俺はただ、龍たちみんなに地上を嫌いになって欲しくなくて……。なぁルオ、顔が見たい」
声の方向性が掴めないので、ユェンは空に向かって話しかけるしかない。
「顔を見て話したい。なぜ隠れるんだ。お前をおいて逃げた俺への当て付けか?」
(違う)
「じゃあいったい何なんだ」
(ユェンは……ユェンは仔龍の私が好きだろう。人姿になった私を知らない。貴方が不在のあいだに、私は背が伸びた。嵩もある。嫌われたくないから隠れている)
「はぁ?」
(この話はこれで終わり。ユェンと話せて嬉しい。いつでも話しかけて。必要なものは何でも逆鱗の中に出現するようにできる。なにが欲しいと、口に出してくれればいい。ずっと私のなかにいて)
めちゃくちゃなことをいう龍である。
「……お前な。俺は玉じゃないんだから、勝手に懐にいれるな! おい、聞いているのか! あーもう! じゃあ、酒のなる木を一本生やしてくれ。各地方の銘酒壺がすずなりになってるやつがいい。それがあれば一晩だけいてやる」
(ダメ。庵にお茶がある)
「ルオ! 今すぐに出さないと本気で怒るぞ!」
ユェンは怒ったが、声しか聞こえない相手に対し、どこに向かってそれを示せばいいのか分からないのは不利だった。
(怒っていても貴方がいると胸が温かくて嬉しい。喉が乾いたら庵に行って。あ、冷たい飲み水の湧く水源を夾竹桃の道の外れに作ろうか、待ってて……。出来た)
「ルオ!」
(名前を呼ばれると嬉しい。もっと呼んで)
青空がキラキラと輝き、爽やかな風がユェンを抱き締めた。ルオの喜びが逆鱗のなかに反映させるらしい。
どうしようもなく優しく透明な風にユェンはぐったりと身を任せるしかなかった。
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