第18話
ユェンはちょうど、麦畑の真ん中まで来ていた。
いい位置だ、と竒王は笑う。
世話役の血はすぐさま黒龍を呼ぶだろう。そしてあの位置で、心を乱した龍気が爆ぜればここにいる群衆すべてが目撃者となる。それは麦を溶かし大地を焦土にかえる「悪しき龍」の目撃者だ。龍気が飽和し、陽気を抱えきれなくなった大地は数十年は人を寄せ付けない。黒龍を縛る鎖としてこれほど見合うものはない。
竒王は心の中で舌なめずりをした。
愚かな民衆の感情を掻き立てるには、何事にも演出が重要だ。この黄金の麦畑の真ん中に災いが降り、すべてが腐敗するのを見たのなら、その絶望はとても使い勝手のいい道具になる。
早くみたい。待ちきれない。
「しかし……」と珍しく躊躇う従者を竒王は冷たく突き放した。
「早くしろ」
この従者は、幼い頃から竒王府に住み込みで働く忠実な下男だ。飯炊きもするが、弓の腕もたつ。私兵を動かすと朝廷に目をつけられる。だからこの下男は使い勝手がよかった。理由を考えるのも面倒な私刑など、汚れ仕事をやらせるには字も読めない無学の飯炊きがちょうどいい。
ふと、青草と淡水の匂いが鼻をついた。香は大都の最高級品を使うのでカンに触る。これだから地方の農村は嫌いなのだ、と竒王は思った。視線を落とすと自分の沓が泥に汚れているのが見える。
「二度は言わんぞ」
苛立ちを帯びた竒王の有無をいわせぬ号令に、従者は震える手でユェンへと矢尻を向けた。
「射殺せ」
主の号令に、矢が空気を裂いた。麦の穂すれすれに放たれた矢はまっすぐにユェンへとむかい、その背中に矢尻を深く食い込ませる。
思った方向に向かう矢はやはりいいと、竒王は思った。道具とはこうでなくてはならない。
あの耳にのこる哀情歌がこの世から失われたことも竒王を満たした。自分だけのものにできた征服欲。
「はっ! 呆気ない。黒龍めが、お前の世話役を殺してやったぞ。早く来い!」
竒王の声に空が唸りを返した。
「来たな。見ろ! 龍の障気は大地を腐らせるぞ!」
竒王が群衆をあおるように声高に叫んだ。
西南の天空に現れたのは、それは見事な体格の黒い龍だった。
宝珠を思わせる肢体は視線すらも吸い込むような漆黒、大地を震わせる唸りは青い雷を帯びている。
人々は耳を震わせるその轟きを恐れたが、メイレンとテイヨウだけは麦畑だけを見ていた。
目の前でユェンが矢に倒れた。
その光景が受け止めきれず、二人は空を見上げることを忘れていた。
降ってくる黒龍の声に嗜虐の色はなかった。純粋な慟哭だと、二人は感じた。
雲を突き抜けて降ってくる黒龍は涙など流していない。なのに、メイレンには黒龍が泣いていることがわかるのだ。
龍威軍の進行があったばかりの西南の地に、大きな黒龍が降る。
短い期間に力のある龍が二度も降れば、その土は取り返しがつかなくなる。
地表の下を根のように這う龍脈が暴れ、龍穴として噴き出すからだ。作物は枯れ、人には飲めない聖水が湧く。
それは人の手の及ばない祝福であり、災厄であった。
まっすぐに落ちてくる黒龍をメイレンはぼんやりと見上げた。人々の怯えた怒鳴り声が遠くに聞える。はじめて見る龍をこんな気持ちで迎えるとは思わなかった。ユェンが音もなく矢に射たれた時に、涙も声も枯れていた。竒王が煽るような怒りも憎しみも沸き上がってこない。
黒龍の降るさきが、たとえ生まれたときからそこにある自分の愛する無二の土地だとしても、そんなことはメイレンにはどうでもよかった。
あれはきっとユェンの愛した黒龍だ。彼がはやく倒れたユェンを抱き締められるように。メイレンの心はそれしか思わなかった。
「こうなることを恐れていた。龍には理性もなく、人の法も理解しない。気ままに我々の豊穣の大地を爛れさせ、腐らせるのだ」
竒王の喜色に満ちた演説を背景に、黒龍がついに地に降りた。龍のまとっていた風が大地を伝い、人々に吹き当たる。
「やめろっ!」「俺たちの麦が!」「なんでこんなことを」と人々の叫びが風圧のなかに聞こえる。農夫たちの声だ。
「腐れ大地!」
ギラギラとした血走った眼差しで竒王が叫んだが、メイレンの目に映った光景はまるで違った。
一瞬で人姿に転じた黒龍が、その長い両腕でユェンをすくいあげた瞬間、麦畑は黄金色に輝きうねったのだ。
それは光が弾けたような明るさだった。生気の満ち満ちた輝きは麦畑を大海のように波打たせ、メイレンたちのもとまで波及した。
「花だ。大地が腐るどころか花が咲いたぞ」
誰かの驚きの声が上がる。畦道には足の踏み場のないくらいに輝くような青い花が一瞬で咲きほこった。無垢に咲く花に押されるように、人々は自分の
麦と花の溢れる豊穣の大地を残して、二人だけが泡のように消えたのだった。
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