第10話

 ルオはゆっくりとそこを歩いていた。



 自分の他には誰もいない、静かな場所だ。ここではすべてがルオの自由になる。


 軍営にいるたいていの時間を龍姿で過ごすルオだが、今は違う。

 ルオの黒曜石のような龍鱗は流れる黒髪となり、その下には透き通るように白い肌が現れている。強靭な肉体はしなやかさも持ち合わせており朝廷ではよく美しいと言われた。しかしルオは人姿を称賛されることは好きではなかった。とくに朝廷で会う大臣たちはよく嘘を吐き、何かを探るために言葉を使う。だからたいていの時をルオは堅い鱗をもつ龍姿で過ごす。


 しかし、ここでは人姿でいても誰に見られることもない。繊細な作業ができる人の手の方が、ここでは都合がよかった。


 何もなかったこの空間に、小さないおりを建てようと思ったのは、ユェンがルオのもとを去ってからだった。優しい世話役が龍を守ったこと、そのためにたくさんの傷を負ったことをルオは知っていた。


 放浪には慣れていると言っていたユェンだが、その実、彼は家を求めている。


 土を愛しているユェンは、ひとつの場所にしっかりと根を張り、その場所に愛着を積んでゆくような気質なのだ。それなのに、行動はまったく逆で流浪へ流浪へと突き進んで行く。


 遠くにいってしまった彼のために建てた庵にルオは入った。

 時折、こうして家に傷みがないか見て回る。

 木造の床と柱はルオによって丁寧に磨かれ、今日も品のいい飴色の艶がある。房飾りのついた簾を見て、ルオはそこに風を吹かせた。ユェンが気持ち良さそうに目を細めているときは、いつも柔らかな髪が揺れていたことを思い出したからだ。


「風……、陽光と土。草花の匂い……」


 ユェンのことを思うと、この無機質な場所に必要なものが次々と浮かんでくる。


「温かな日差し、少し冷えた朝、綿のうすい布団、夏の夕暮れ、夜の星明かり、寝転がれる屋根瓦……」


 ルオの指示に従い、空間は一気に色づいてゆく。隣り合った窓に春の日差しと夏の日陰が生まれてしまっていたが、黙々と作業に没頭するルオは気が付かない。


 せっせと室内を整えていたルオは、自分の手のひらに現れた酒壺に、ふと動きをとめた。

 確かにユェンの好きなものだ。彼の喉を潤すのは自分の役割だと思っているルオである。……が。


「飲み過ぎはよくない。お茶にする」


 ひとり静かに呟くと、ルオの手から酒壺が消え、代わりに茶器が現れた。とろりとした質感の蓋椀を青の目で静かに検分する。


 小さな茶器の縁がユェンの唇にしっとりとなじむ様子を想像し、ルオはようやくそれを盆の上へと置いた。

 茶壺ちゃふうと茶匙を几帳面に茶盤上に並べ直すと、ルオは満足そうに立ち上がる。

 人気のない庵から真白い空間に出ても、作業は続く。


「あの人は草木のなかを駆け回るのが好きだから」


 庭を作ろう、とルオは思った。


「ユェン、貴方の好きな花を私は知らない」


 薬草を好んでむしっていたのは知っている。でもそれはルオやギョクコの擦り傷を心配してのことだった。いつだって気にするのは他人の傷ばかりで、自分の傷には無頓着なのだ。

 ユェンの不在に落ち込むのはこういう時だ。


「貴方の好きな花を知りたい」


 ユェンが隣にいれば、すぐにでも得られるだろう答えが、ここでは宙に浮いたまま返ってこない。

 仕方ない。ユェンがいた夏に咲き乱れていた夾竹桃を道沿いに植え込むことにする。今は、思い出のなかにしか彼を探せないのだ。


 ルオの白い手が土に汚れた。土はユェンの好きなもののひとつだ。迷い子を抱きしめるばかりで、いつも傷だらけのあの人。

 ルオは土に汚れた自分の爪が、きちんと短く整えられていることを確認した。龍の爪で触ろうとしてユェンを傷つけてから、こうして自分の爪を確認するようになったのだ。人姿を見せる前にユェンは行ってしまったので、この手で触れたことはない。それでもルオは几帳面に爪を整え続けている。


「あと少しで貴方に会える」


 季節のないこの空間に、枯れることのない夾竹桃が鮮やかな花を咲かせた。


 誰も立ち入らないこの場所は、ただひたすら一人の帰りを待っている。

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