第11話

 まとめる荷もない。ユェンは世話になった挨拶のため、さっそく村長の部屋を訪ねることにした。


「それは残念だ。麦の収穫まで見守って欲しかったが」


 村長の部屋ではいつも碁を打つ。今日も招き入れられたと同時に碁盤の前に座らされた。


「麦はきっと豊作になります。俺の知っていることはすべてメイレンが覚えてくれました。彼女はとても賢い。それに善良で公平です。知らないものを安易に排除せず、知ろうとしてくれる」


 心からの言葉だった。


「メイレンがあんなに懐いたのははじめてでしてな。でも引き留めはしません。きっと事情がおありだ」


 おおらかな村長は、今はもう田畑には出ていない。足を悪くしてからは、もっぱら幼いメイレンが代行を担っている。メイレンの両親は流行り病でなくなったらしい。

 ユェンもできれば収穫までは留まりたかったが、自分に課した決まりを破る気もなかった。


「明日起ちます」


 村長はゆっくりと頷き、ユェンの出立は決まった。







 しかし、それは叶わなかった。


「収穫までいないと許さないわよ!」と泣きわめくメイリンに負けたわけではない。

雨のせいである。


 西南の閭門を出て、西湖を渡ろうとするも、叩き付けるような豪雨にあったのだ。


 湖面が飛沫をあげるような激しい雨に、舟の一隻も湖に出られない有様だ。


 この雨の降り方がなんともおかしかった。あまりにも局所的なのである。

 あまり湿気が得意ではない麦に雨が当たったら大変だとユェンは大急ぎでメイレンのところに戻った。すると、麦畑では青空が見えているのだ。

 土砂降りの雨雲は、西湖の真上にぴったりと張り付いて動かない。


「ふふん。私の日頃の行いがいいから、神様が味方してくれたのね」


 ユェンがずぶ濡れで戻って来たことで、上機嫌になったメイレンは鼻歌を歌っている。 

 たしかにこの降り方は西湖を塞いで、西南から人が出ないようにする意図を感じさせる降り方だった。麦畑は守るようにして。ずぶ濡れのユェンがそういうと、メイレンは髪を逆立てて怒った。


「はああ? 私のせいにする気? ちょっと喜んだだけじゃない! 都合良く雨なんか降らせたりできないわよ!」

「もちろんメイレンのせいだなんて言ってないよ。だが、あの雨雲が形も変えずにずっと西湖の上にかかっているのは変だろう?」


 ユェンは雨を吸った羽織を脱ぎ、絞りながらいった。足元が瞬く間に水溜まりとなる。


「そりゃあ変だけど……雲に命令できる人なんていないでしょう?」

「龍はできる」


 その時、ユェンの耳に聞えたのは仔龍の泣き声だった。

雨音の奥、かすかな声だが、たしかにそれは聴こえた。


「龍が泣いてる……迷子だ」

「え? あっ、ユェンってば! どこに行くの! 外は危ないってば!」


 いてもたってもいられなくなったユェンは西湖への道をもう一度駆けた。びしょぬれの笠からは薄紗をつたって、ぼたぼたと水滴が落ちる。

 雨雲のはじまりが目の前に見えた。そのくっきりとした境から、ふたたび土砂降りに突っ込んだユェンは、目も開けられないような豪雨のなかを泳ぐように走った。ザンザンとひだ状に降る雨は切れ目がなく、耳を鈍らせる。


 西湖にたどり着くと、雨はさらに激しさを増した。つねならば緑色に澄んだ鏡のような湖面は、今では叩きつける雨で飛沫がたえず、白く霞んで見える。


(ここはどこ? しらないところ……おうちにかえりたい)


 雨音にまじっているが、さきほどよりもよく聞えるようになった仔龍の泣き声がワンワンと湖の真上に響いている。ユェンは灰色にたれ込める曇天に向かって声を張り上げた。


「どこにいる? おいで! 家につづく道を教えてやるから」


 ユェンの声に、分厚い雲がすぐさま反応した。


(……だれなの? ぼくのおうちをしっているの?)

「崑崙だろう? 巣への道を知っている」

(ほんとうに?)

「本当だ。泣くな。崑崙に送ってやるから」


 ユェンはどしゃ降りの雨のなか天に向かって話しかける。泣いている仔龍が、記憶のなかの白龍と重なった。ユェンは必死に雨雲に両手を伸ばした。


「泣かないでいい。地上は辛いのだろう。崑崙に帰してやる」

(あなたはだれ?)

「ユェンだ」


 次の瞬間、雲が一気に散った。陽光が幾筋も湖面に降り注ぎ、静寂が雨音に取って代わる。すっきりと晴れ渡った青空には、仔龍の姿どこにもない。その代わりにーーー、


「ユェン、見つけた」


 背後で唐突に膨らんだ圧倒的な龍気に包まれ、ユェンの意識はそこで途絶えた。












「ギョクコちゃ~ん。イーファの玉佩返してよぅ」


 コツン! と肩口に頭突きされてもギョクコはそのまま本の頁をめくる手を止めない。


「三日前に返したでしょ。おしゃべりはあとで」

「ないんだもの。イーファが修練をサボったからギョクコちゃんがまた持って行っちゃったんじゃないの?」


 ギョクコは顔をあげた。その翡翠の瞳が珍しく驚いている。


「……玉佩がない? ねぇ、ハージャンはどこ」

「え? あの赤ちゃん龍? 知らないけど」


 ハージャンは新しくこの軍営にやってきた仔龍だ。人姿になることができず、未だに人間界に慣れない。崑崙に帰りたいと日夜泣くのを、何とか古株の龍たちが慰めていた。

 ギョクコはすぐに夾竹桃の茂みに飛び込みルオを探した。


「ルオ?!……いないわ」

「なぁに? ルオもいないの?」

「……イーファの玉佩をハージャンが盗んだんだわ」

「え? でも浮き島から出る龍はルオが分かってるでしょう?」


 軍のなかでいちばん力の強いのは黒龍なのだ。力の弱い者は強い者を感知できないが、ルオの力があればどの龍がどこにいるかは手に取るように分かるだろう。


「だから、ルオが行かせたのよ」

「追いかけたんじゃない? ハージャンを連れ戻すために……」

「ルオに追われたらハージャンなんて三歩目には捕まってる。迷子の仔龍を先生は無視できない。先生の弱点は泣いている迷子なの。ルオはわざとハージャンを行かせて、先生を連れ戻す気だわ」

「え! それって赤ちゃんハージャンでユェンを釣っちゃうってことぉ? えーそれってそれって……人でなしってやつだけど、頭いい~!!!」


 暢気なイーファの歓声に、ギョクコはおもわず声を荒げた。銀色の龍気が怒気となって膨らむ。


「よくない! 先生が戻ったら竒王きおうが喜ぶだけ! あいつは先生を憎んでいる。私たちにも見つけられないところにいるから、だから先生は無事なのよ」

「でもでも、竒王は龍威軍の指揮から外れたんだからもう関係ないでしょう?」

「関係ないわけないでしょ! いま、ルオと私がなにと戦ってると思ってーーー!」

「落ち着いて落ち着いて~! ルオはハージャンを危ない目にあわせたりしないわよ。やっぱりギョクコちゃんの勘違いだってば」

「いいえ、違うわ」


 ギョクコはぶわりと銀髪を逆立てた。


「ぜったいにルオは先生をさらいに行った」

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