第9話
「ユェン、貴方は……半龍なのか?」
ルオの問いに、ユェンは「ああ」と頷いた。
漂っていたボロ布を湯船のなかで足に巻き付ける。視線も落とさない粗雑な仕草は、ユェンにとって龍鱗は見られたくないものということなのだろう。だが、透明で体温の感じられるその鱗は、ルオにはとても美しく見えた。
「曾祖母だか誰だかに龍がいるらしい。薄く不完全な鱗だし、皮膚よりもさらに薄い。槍も通さないような龍鱗ならよかったのにな。役立たずの半端者さ」
珍しく投げやりなユェンの言葉に、様々なことがようやっと腑に落ちた気がした。
ユェンは軍営の幕舎に部屋を持っていない。いや、世話役用の部屋はあるのだろうが、そこには帰らずたいてい浮き島と幕舎の間にある竹林で寝起きしているのだ。冬になってからは廃材を利用して小さな小屋を建てたことをルオは知っていた。
いつも龍を庇うような発言をするユェンは兵士たちに疎まれている。
そうでなくとも、丐幇あがりの物乞いが、自尊心の高い上級兵たちに混じるのは無理があった。兵のなかには貴族の子息なども多い。
人の天幕にも住めず、龍の浮き島にも昇れない。彼の立ち位置はユェンのいうように人と龍どちらにも帰属できない半端者であった。
後にユェンは生まれたばかりの頃に龍鱗が原因で捨てられたことをルオにだけ話してくれた。
龍について何も知らなかった両親は、赤子の足に浮き出た鱗に不吉を見た。
道端に捨てられたユェンを拾ったのが、当時の丐幇長老である。彼はユェンに生き方を教えてくれた。それは家を持たない者の生き方だったが、ユェンにとっては命を繋ぐ術であり、血の繋がらない多くの家族が出来た瞬間だった。
ユェンにとっては土が家だ。
「家があるのはいいことだ。子どもが家に帰りたがっていたら帰してやりたい。それが少しの時間でも」
ユェンの先ほどの言葉がよみがえる。
ユェン自身には帰れる家がなく、自分だって子どもと数えられる年齢なのに、それでもこの世話役は龍を守ろうとする。
「ほら、ルオ。お前のおかげですっかり良くなった。むしろ今までよりも体が軽い気もするぞ。龍の涙というのはすごいな」
「私の爪痕は残る」
唸るように低くいうルオに、ユェンはからりと笑った。
「はは、気にするなよ。薄くかすっただけだ」
「貴方が傷を隠したまま去ろうとするから……」
小さな背中が背負う、誰にも知られることのない無数の傷を思いルオは顔をしかめた。
自分の龍爪を見つめる。黒曜石を思わせる鋭い爪は岩を絹のように裂くには役に立つが、人を呼び止めるのには向いていない。
気がつくと、夜の竹林にぼた雪が降りはじめていた。
ひとつひとつが大きい、水分を含んだ雪だった。
これがルオとユェンが言葉を交わしたはじめての日だった。あの雪の日から、ルオの暗渠のような日々は、唐突に終わった。
短い時間でも崑崙に帰ることのできたギョクコはみるみる元気になり、精神が安定していったのだ。
「
なぜかユェンのことを先生と呼ぶようになったギョクコは、書物をするすると吸収していった。頁がめくりやすいといって、いち早く人姿をえて、熱心に書を読んでいる。
ほっそりとした手の甲にはまだ真珠色の鱗が出ているし、龍角も顕在だが「読むには困らない」とまったく気にしていなかった。一度、崑崙に帰ってからギョクコは変わった。
「でもこの字が分からなかった。なんて読む?」
「そんな難しい字、俺なんて更に知らないぞ」
今ではギョクコの方が文字にも詳しい。教えていた期間なんて一瞬で過ぎ去った。優秀なのだ。
「湊代の古詩かぁ。同じ時代の詩集を調べてみるか」
「うん」
「文脈からして冬の枯れ野の描写だが……あ、この字の変形じゃないか?」
などといって二人で書をひっくり返すことが増えた。
ユェンが寄りかかっている黒い塊はルオだ。いまだ
「私が人姿になったら先生は抱きしめてくれなくなった。だからルオは、先生に抱きしめてもらえる仔龍の姿でいる。下心」
ギョクコの告げ口に、ルオは唸った。黒い尾をパシン! と地面に叩き付けて抗議している。
ユェンが軍を離れるまでの日々。それはユェンにとってどんな宝珠よりも価値のある大切な思い出だ。
「そろそろ発つかな」
久しぶりにみた龍たちの夢に、ユェンは深いため息をついた。彼らを思い出すといつだって心が揺れる。爽やかな青草と、龍特有の玉を思わせる薫風が混ざった懐かしい匂いがよみがえる時には、決まって痛みが伴うのだ。
外はまだ日の登らない早朝だ。ユェンは布団にくるまったまま手探りで枕元にあった笛をつかみ、胸に抱き込んだ。
とろりとした質感の乳白色の笛。これはルオがくれた龍角を削り出したものだ。
角の生え変わるとき、ルオは落ちた幼角をユェンにそっと手渡した。多くのものをルオとギョクコはくれたが、今、手元に残っているのはこの笛だけだ。
龍たちと離れてから、同じ土地に長居はしないようにしている。長くて
ユェンは布団のなかで笛を抱きしめると、胎児のように体を丸めた。思い出した龍の匂いが記憶のなかへと薄れてゆく。最後にはなじんだ綿布団の匂いしか感じなくなった。
(これでいい)
予定以上に長居してしまった西南を発とう。
ユェンはそう決めた。放浪には慣れている。自分は家を持たない、生まれつきの根なし草なのだから。こうすることがきっと正しいのだ。
目をかたく閉じたユェンは気づかなかったが、胸のなかで笛はほのかに光りつづけていた。
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