第8話

「道中は気を付けて……って、もう聞こえていないな。ほら、ルオも一緒に帰るだろ? 玉珮をかけてやる、首をこっちに───」

「いい」


 ユェンが伸ばした手を避けるように、ルオは身を引いた。


「私はいい。それよりも───」


 黒い鱗に覆われた喉が低く鳴る。


「その背中はどうした」


 ルオには見えていないユェンの背中がびくりと震えた。


「背中? 何のことだ。人は小さくよく見えないというくせに。崑崙山に帰らないなら浮き島に戻れ」

「足元に血が落ちている」


 ルオの言葉に、思わずユェンは自分の踏んでいる雪に視線を落とした。夕暮れの中、ぼんやりと白く照る雪上には赤い点が二つ落ちていた。


「血の匂いも濃い。……ギョクコを帰すために打たれたのか」


 一度は誤魔化すことを考えたユェンはしかし、ルオの強い視線にゆっくりと白い息を吐いた。


「たいしたことはない、ギョクコには言うなよ。もういく」


 沓先で雪をけって落ちた血痕を隠すと、ユェンは踵を返した。

 羽織っている衣は藍色なのに、その背は黒々とした影がさしていた。よく見れば歩き方もぎこちない。雪道であっても日ごろのユェンの足取りは軽いのに。


「なぜ龍に恩を売る」

「だからそういうのじゃない。おやすみ」


 血の匂いのする背に言葉を投げつけてもユェンの歩みは止まらない。ルオは思わずあとを追って駆け出していた。


「待て! 人の助けなど借りぬ」


 声をあげても振り返らないユェンに焦れたルオは無意識に手を伸ばした。龍の爪のある前手だ。

 呼び止めようと急いたルオの爪は、ユェンの背を容易くえぐった。


「……っ!」


 鮮血が散る。ぐっと悲鳴を飲み込んだユェンだったが、足はもつれ、赤く染まった雪道に顔から倒れ込んだ。

 実際には大した量の出血ではない。だが、ルオの視界は一瞬で真っ赤に染まった。鱗におおわれた喉奥から悲鳴がもれる。


「ああっ!」


 暴れるギョクコを抑えることばかりしていた龍の体だ。小さくて脆い人間になど、どうして手を伸ばしたのだろう。

 グラグラと頭が痛む。


「あ……、あぁ……」


 歪む視界から赤色が取れず、ルオは龍の体を竦ませた。

 ただ一人、助けてくれた人間を傷つけてしまった。


「おい、ルオ。泣くなよ」


 混乱するルオの頬に温かいものが触れた。


「すこしひっくり返っただけだ。お前のせいじゃない」


 血の気の失せた顔をしているが、ユェンは笑っていた。ルオの頬に触れているのはユェンの手のひらだ。


「死んだかと……」

「勝手に殺すな。本当に龍は目が悪いんだな。俺がネズミにでも見えているのか? かすり傷と重傷の違いも分からないとは」


 ユェンの軽口は自分を安心させるためだと、ルオはもう分かっていた。一番に傷ついているくせに、その両手でまだ龍を守ろうとする。


 ルオはすぐに大きな体と尾を使ってその場に円をつくった。尾の先を腹のしたにしまうと、ユェンをぐるりを囲むようになる。


「わ、なんだ?」

「動かないで」


 ユェンの足下にルオの青い瞳にたまっていた涙がぼたぼたと落とされる。涙が落ちた途端、足下の雪が解け、透明な水がせり上がって来た。


「う、冷た……っ」


 ふくらはぎまで一気に浸かったユェンが体を震わせる。顔色は蒼白を通り越し、唇の色もいっきに悪くなった。


「……すまない。考えが足りなかった」


 ルオが顔を寄せてくる。並んだ龍牙の間から息が吹き込まれると、ユェンの腰当たりまで来ていた水がじわりと温まった。


「龍の涙は傷を癒す。肩まで浸かって」


 ルオの黒い鼻先に押されて、ユェンは恐る恐る水のなかに膝をついた。お湯は背中の傷に触れたとたん、ぼんやりと発光した。刺すような痛みが次第に薄れ、溜まっていた熱も散って行く感覚がある。龍のとぐろに湧いた湯船は、まるで奇跡の薬湯だった。


「すごいな、ルオ。痛みが取れた。ありがとう」

「血が止まっただけだ。傷は治っていない」


 立ち上がろうとするユェンの肩をルオの顎が押しとどめる。


「肩まで浸けて」


 むっつりという黒龍にしたがって、ユェンは温かな光る湯に戻った。


 すっかり陽の落ちた雪景色のなか、龍の体に寄りかかり湯に浸かっているのはなんとも不思議な心地だった。竹をしならせていた積雪がどこかでドサリと落ちた音がした。


 手持ちぶさたになったユェンは、龍涙からわき出したという貴重な湯を手のひらで掬う。光る湯はとろみもなくサラサラとしている。


「なにをしている」


 手椀に掬ったそれを、丸く縁となっている黒龍の鱗にかけているとルオが小さく首を傾げた。


「ここ、鱗が剥がれている。どこかにぶつけたか?」


 ルオの体の傷を癒そうとしているらしい。そっと薬湯をたらし、温かな手のひらを押し当てられていると、気にしていなかった傷がむず痒くなってくる。


「やめろ。龍涙は龍には効かない。貴方の傷も、私の爪が抉った傷は残ってしまう。……悪かった」

「もとからの裂傷で遅かれ早かれ倒れていた。ルオのせいじゃない。いやぁ、心配をかけないよう振る舞いたかったのに、俺の方こそ悪かったな」


 にこにこと身を乗り出し、ルオの青い瞳をのぞきこんだユェンはその白い鼻先を硬い鱗に押し付けた。


「ありがとな」

「……いいから、肩まで浸かって」


 龍の姿でも恐れることがない。それどころか、仔龍であるということを鵜呑みにして、庇護の態度をとってくる。小さな人間のくせに。


 ユェンがなんの気もなしに鼻先をすりつけてきたことに、ルオはなぜか腹をたてた。


(私を子猫だとでも思っているのだろうか)


 ルオの心を乱しておいて、ユェンの方は暢気に湯に浸かっている。


 はじめはべったりと背中にこびりついていた衣が、湯のなかでふわりと漂いはじめたことにルオは気付いた。衣越しに打たれた傷が塞がってきているのだ。


 ユェンはぽつぽつと、龍の里帰りを訴えたことで、板打ち五十回に処せられた経緯を話した。


「まぁ、今回はたまたま上手くいった。正式な手順を無視して、登聞鼓を叩いて騒いだから罰もあったわけだが」


 手順を踏んで訴えても、どこかで消えてしまうんだよなぁとユェンはごちる。この二年後に嘆願を踏みつけていた竒王と激突し、姿を消すことになるのだが。

 ルオはゆっくりと口を開いた。


「なぜ私たちのために打たれる」

「なぜって……」

「なぜ龍のために同じ人間に打たれる」


 ルオの問いに、ユェンは困ったようにこめかみを掻いた。


「べつに龍だからって訳じゃない。ルオとギョクコがただの人間だってこうする」

「人間じゃない」

「わかってるって! ただの比喩だ。あのな、小さな子どもが家に帰りたいと泣いていたら背におぶって家まで届けてやりたいと思うだろ? 帰る家があるのなら、手をひいてやりたい。そういうことだよ」

「ユェンはギョクコをおぶえない。潰れる」

「だぁから、ものの喩えだって……ん? ルオ、俺の名をおぼえてくれていたのか!」


 嬉しそうに笑うユェンから、ルオは顔を背けた。もちろん覚えていた。が、たしかに口にしたのは初めてだった。


「ルオだって崑崙山に帰っていいんだぞ」

「……ギョクコとそろって不在にしない方がいいだろう。ギョクコは子どもだから、二日の期限を忘れるかもしれない。そうなったら私が迎えにいく。そうすれば……」



 そうすれば貴方はこれ以上傷つかない。



 その言葉を飲み込んだにもかかわらず、ユェンには伝わったようだ。


「はは、ルオは優しいな」


 嬉しそうに笑うユェンがあまりにも無邪気で、ルオはその顔から視線をそらした。湯気のたつ湯に血にまみれた衣がたゆたっている。打たれた時に裂けたのだろうユェンの皮膚から剥がれた衣だ。赤色を溶かしながら、吹き流しのように湯の中を漂っているその隙間から、ユェンの足が見えた。

 太腿の外側は日に焼けていない白い肌だが、内側は違った。角度によって見えるかどうかという、透明な鱗に覆われていたのだ。湯のなかでほんのりと輝くそれは、龍鱗とよく似ていた。


「ユェン、貴方は……半龍なのか?」

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