第7話
ユェンには家がない。
ユェンがそのことに気がついたのは、ちいさな白い仔龍が泣いた時だった。
龍威軍にやって来たはじめの龍は二頭。白龍のギョクコと黒龍のルオだ。二人とも、まだ人姿にはなれず、ユェンの身長よりもふたまわりほどの大きさをもつ仔龍姿であった。
「巣に帰りたい」
普段からルオの影に隠れ、一切口を開かなかったギョクコの声をユェンは雪を踏みながら、はじめてきいた。
初雪が七日前に降った、凍てつく冬の日だった。
ギョクコの翡翠の瞳からポロポロと涙が零れるのをみて、龍も泣くのかと思ったことを覚えている。涙を拭ってやろうと手を伸ばしたものの、ルオに睨まれてすごすごと引っ込める。
仔龍に出会って半年。ユェンはまだ龍たちから信頼されていなかった。
ずっと黙って堪えてきたギョクコの胸の内に、ユェンはただ一言しか声をかけられなかった。
「わかった」
苦しげに一言だけを置いて、世話役が去っていくと、ルオはようやく警戒を解いた。龍の尾を苛々と冷えた土に叩きつけ、気持ちを抑える。
崑崙からルオが選ばれた最たる理由は、その自制心の強さにあった。人間界に降りるには、ルオの龍気は強すぎる。成龍に比べても、この小さな黒龍の神通力は群を抜いていた。だが、他の龍に比べて何よりも勝っていたのは、その力を抑える技量だった。
今回もルオの龍尾は冬の冷えた土を震わせただけで、そこに影響を及ぼさなかった。ひとつ白いため息をついて、ルオは気持ちを抑えた。
「ギョクコ、泣くな。不用意に涙を落とすと土が変わる」
黒龍はギョクコのこぼした涙を鼻先で器用に集めた。
こぼれた時は液体だったそれは、土の上では珠となって転がっている。
「龍気をもらせば人に利用される。これは浮き島に埋めろ」
ぐずる白龍を根気強く説得して、ルオはギョクコの涙を口に含むと灰色の空へと舞い上がった。土を汚したと責められるのには辟易していた。
龍威軍の最奥、龍たちの隠れる浮き島は崑崙山から切り出してきた浮遊岩からできている。龍の涙をまいても受け止めてくれるのはここだけだった。
人の地では龍は感情の発露をその力ゆえに禁じられている。
「崑崙の龍の巣に帰りたい」
浮き島に戻ってもギョクコはそう繰り返した。
「許されていない。諦めろ」
言葉は淡々としていたが、ルオの心も重かった。
人間は嫌いだ。小さく脆いくせに、数だけが多い。そしてその中には龍を縛ることが呆れるほどに巧い奴がいる。
龍の苦手な嘘のまじった言葉と文字を弄して、それはあり得ないほど目の細かな網を放ってくるのだ。
人間界に降りてからは呼吸が浅くなっている。霊気の薄い空気は、いくら吸っても視界を霞ませ、頭を鈍くさせた。
「あの人は、わかったって言った。それは、巣に帰ってもいいって意味じゃないの?」
ギョクコが苛立ち、龍の鋭い歯を擦りあわせた。キシキシと嫌な音がする。剥き出しになった歯肉は色が悪い。日増しに健康が損なわれ、仲間が病んでいっていることを突きつけられてルオの心はまた重くなる。
「あの世話役にはなんの権限もない。ただの子どもだ。期待するな」
ルオの言った通り、それからユェンは姿を見せなくなった。
これまでは浮き島に一番近い岩場に世話役はふらふらといた。それがここ数日、まったく気配も感じない。
妖獣を討っては人の恐怖心にあてられ、ギョクコの泣く浮き島に戻る。龍の姿の二人に話しかける人間は一人として居らず、時折、聖詔という黄布を持った人間がうるさくがなりたてて去っていくだけだった。
人間たちは龍に話しかけてこない。唯一、自分たちに命令ではない言葉をかけてくるのがユェンという名の世話役だった。
「巣に帰りたい」というギョクコの癇癪は日増しに激しくなり、ルオも消耗していた。
「こんなところ嫌い。巣に帰りたい」
今日何度目かのギョクコの唸りを、ルオは黙って聞いていた。耳が腫れぼったく痺れている。気が立ったギョクコが岩場に体を打ちつけるので、それを庇うルオの黒い龍鱗は傷つき、ところどころ剥がれ落ちていた。
痛い、という感覚はなかった。
仔龍であっても強靭な龍だ。身体にできる擦り傷よりも、心に重くたまってゆく膿みの方が堪えた。
見知らぬ土地で周りには味方もいない。いつ終わるのかも分からぬ意味を見失った労働は、長い暗渠を進んでいるように思えてルオの心を挫いていった。
「ここは嫌。ここは嫌。ここは嫌なの」
ギョクコが龍の肢体をうねらせはじめた。のっそりと起き上がったルオは、ギョクコを包むように体を添わせる。
頭では何も考えない。
ただいつも通りの手順で、ギョクコの鱗が傷つかないよう自分の体で抑え込むだけだ。
「嫌だ。離して。崑崙に帰る」
ギョクコの言葉に返事をしようとしたが、ルオの口からは深い溜め息が白く出ただけだった。
疲れていた。
その溜め息が、ギョクコの心をさらに追い詰めていることに気づく余裕がルオにはもうない。
ルオとギョクコは同じ日に崑崙の
あとから知ったことだが、この仔龍への負担を龍威軍の指揮権をもつ竒王は正確に把握していた。むしろそうなるよう取り計らったのが竒王、本人だった。
知識のある成龍から引き離し、扱いやすい仔龍だけをあえて軍に編成する。じわじわと真綿で首をしめるように、龍を家畜に落とそうとしたのだ。
仔龍たちが人と言葉を交わさないのも、竒王にとっては都合がよかった。龍への恐怖心を煽るような噂で軍営を満たすことは、竒王にとっては容易いことだった。自分の庭の松の枝を払うように、竒王は仔龍を管理した。龍たちに直接会わずとも、遠くから口を塞いで飼い殺しにすることがこの男にはできるのだ。
気づくのが遅れたのは、自分のせいだ。
暴れるギョクコを腹に抱えながらルオは思った。いちばんに力の強い自分が幼いギョクコを守らなくてはいけなかったのに。
強靭な龍の体が地上に降りてからはつねに疲れている。外傷でこうなることはない。明らかに気力を削りとられていた。自制心にも限界がある。
龍鱗が冷えた岩肌に擦れ剥がれるが、それよりも朦朧とする頭と喉のひりつきが気になった。
溜め込んだ怒りで視界が白み、龍気が膨れ上がる。その片鱗を、ルオは必死で自分のなかにとどめている。
ひとたび龍気をはぜさせてしまえば、それは竒王の思うつぼだ。ルオは一度だけ朝堂で見たあの冷酷な容貌を思い出した。
あいつは龍がはぜるのを待っている。龍が地に臥したところを鎖で繋ごうとしている。
ルオはそのことを知っていた。しかし、竒王のやり口に気づいた時には、龍威軍は完全なる鳥籠として機能し、動けなくなっていたのだ。
気が高ぶったギョクコが脇腹に噛みついてきた。ルオはギョクコのたてがみを撫でながらそれを受け入れた。土を荒したと人に責められるより、自分の龍鱗が剥がれた方が気が楽だ。脇腹からは血が流れたが、痛みはない。ただただ重い疲労感から、ルオはまぶたを閉じようとした。
その時だった。
「おーい、ギョクコ。ルオ。居ないのか?」
暢気な声が浮き島の外からかかった。
「もう、寝てしまったか?」
その言葉に、ここのところギョクコの癇癪を宥めるのに疲労してほとんど眠れていないルオは腹をたてた。
怒りのあまり浮き島の巣から飛び出して、世話役の眼前に雪を舞い上げ着地する。
怯えさせてやろうと剥き出した龍の歯牙で胸を押した。
「おお。今日はどうした、近いな」
世話役は驚いたようにそういうと、シワのよったルオの鼻先をぎゅっと両腕で抱き締めてきた。
触られるとは思っていなかった。
逆に驚いてしまったルオが顔をもたげる。と、ユェンの足が地面から浮いた。じんわりと鼻先に他者のぬくもりが移り、そのときはじめて自分が冷えていることにルオは気がついた。
「あはは、元気そうでよかった」
元気なんかじゃない。頓珍漢なことばかりいうユェンに、ルオはすっかり毒気を抜かれてしまった。
「ギョクコはどこだ? ああ、そこか。こっちに降りておいで。時間がかかって悪かったが、二人にこれを」
ユェンが差し出したのは瑪瑙の
「これがあれば崑崙山に帰れるぞ。軍を空けられるのは二日が限度だが、龍の天を駆ける速さなら少しはゆっくりできるだろう」
世話役のいう言葉を、ルオとギョクコはすぐには理解できなかった。だが、先に口を開いたのはギョクコだった。
「本当に?」
藁にもすがるようなか細い声に、世話役は頷いた。
これまでの経験から人の言葉をまずは疑るルオと違い、ギョクコはおぼえたての言葉をそのままに受け取る。だからこそ人間とのやりとりで毎度混乱し、傷ついていくのだ。ルオはギョクコがこれ以上傷つかぬよう、世話役から引きはがそうとした。だが、ユェンは柔らかく笑っている。
「もちろんだ。人間の兵だって休みを取れるんだ。龍だって取れるに決まっている。ギョクコたちは龍威軍の正式な一員で大将の位もあるんだぞ。それなのに身分を証明する玉珮を持ってないことの方がおかしかったんだ」
ほら、とユェンは玉珮を差し出すが、ルオとギョクコは龍姿なのである。ギョクコが困ったように白い鱗に覆われた口をハクハクとさせるのを見て、ユェンは「わかった。ちょっと待っててくれ」といった。
「わかった、ってまた言ったわ。ねぇ、ルオ。あの人また「わかった」って」
ギョクコが興奮に白い体を揺すっていると、長い枯蔓を手にユェンが戻ってきた。
「この強度なら切れないとは思うが……どこかに擦りつけたりしないようにな」
ギョクコの首に枯蔓を回しかけると、胸元に玉珮をしっかりと固定する。
「うん、できた。これを守衛に見せれば正門から出られる」
「崑崙に帰っていいの?」
「いいよ。陽が二回落ちたら戻ってくれ」
「"わかった"」
世話係を真似たこたえを残し、ギョクコの白い体はもう走り出していた。
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