第6話

 西南の麦は、順調に成長した。

ユェンのいった通り、実りは昨年の倍の大きさで、実は重い。


 珍しくメイレンよりも早起きをしたユェンは、静かに部屋の戸を開けた。まだ誰も起きていない早朝の空気はひんやりと澄んでいる。


 今日、ユェンは西南の三方を囲むようにある山のひとつに登ろうと考えていた。麦畑の作業がないことは確認済みだ。昨日のうちに用意しておいた包子パオズを懐にいれ、あとは竹の水筒に水をくんでいけばいいだろう。

 そう思い、厨房の井戸へとやってきたユェンの背中に、なにかが飛びついて来た。


「裏切り者っ! やっぱり逃げる気ね!?」

「ああ、メイレン。おはよう。休みなのに早いな」

「誤摩化さないで! テイさんにボコボコにしてもらうんだから!」


 寝間着のまま背中に張りつくメイレンを、なんとか引き剥がす。寝台から飛び起きて来たらしく裸足だ。ユェンは彼女の足が汚れないよう、井戸のふちに腰掛けさせた。


「逃げたりしない。今日は農作業が休みだというから、山に登ろうと思ったんだ。夕餉には帰るよ」


 メイレンは疑り深そうにユェンを見た。井戸水を竹筒にとぷとぷ注ぎ、ふたをしている。本当に山へ行くらしい。


「なんで山になんて行くのよ」

「妖気がどこまで散らされているのか見たいんだ。まぁ、俺の趣味だな」


 ふぅん、とメイレンは小さな唇をとがらせた。これまでのユェンのふるまいから、龍気や妖気への関心の高さには納得している。


「わたしも行く」

「何も面白いことはないぞ? 今日の休みは甘味屋に行くと楽しみにしていただろう」

「それはユェンが食べたいと思っ……もういい! とにかく一緒に行くから! 逃げないように見張れっていったのはあなたでしょう」


 ぷりぷり怒り出したメイレンである。


「あまり暴れると井戸に落ちるぞ」

「落ちないわよ!」


 ユェンが背中を向けるとメイレンはまた黄金虫のように張りついて来た。

 おぶった彼女を縁側まで運んでやる。「ちゃんと待っててよね」と言って、メイレンは裸足の足で廊下を駆けて行った。







 西南の麦畑を囲むように鎮座する、頂のふたつある山は双坪溝といった。

 柏に松、柳、そして雲南杉が太い幹を持ち枝を伸ばしている。初夏の双坪溝は緑に溢れていた。


「久しぶりに登ったわ。この前まで妖獣が出てたのに、こんなに明るくなったのね」


 一般的に、妖獣の出る土地は薄く影が落ち土もぬかるむ。空気が淀み、陰の気がたまるのでじっとりと湿り気を帯びるのだ。


「畑に面した山の斜面も丁寧に妖気がはらってあるから、湿気が飛んでいるんだろう」


 二人は斜面から、拓けた高地に出た。芥子や桜草といった高山植物が風に揺れている。


「うん。ここだな」


 ユェンが立ち止まった場所を見ても、メイレンにはその境とやらがまったく分からなかった。


「ここを境に新しい龍気が薄れ、妖気が漂いはじめる。メイレンは妖気溜まりを見たことがあるか?」

「ないわ。ねぇ、妖気がまだある方に踏み入って大丈夫なの? 妖気があるところは、妖獣が出るってことでしょう?」


 目に見えない境を越え、すたすたと先に進むユェンにメイレンは慌てた。


「この濃度じゃ妖獣は出ない。それに妖気というのは、そんなに悪いものじゃないんだ」


 ユェンの背中を追いながら、メイレンは声をあげた。


あやかしの妖気でしょ? 妖獣は人を襲うし、悪いものじゃないってどういうこと?」

「溜まり過ぎると害が出るというだけだ。妖気というより、陰の気と書いた方が近いと俺は思っている。龍は対極の陽の気だな。太陽が出ていると気持ちがいいし、木陰で休むのだっていいものだろう? 淀んで、溜まってしまわなければ、どちらも恩恵といっていいものだ。ほら、龍気だって多すぎると麦が萎れる。同じだ」


 ユェンはいつも楽しそうに自然の仕組みを話す。


「ねぇ、どうしてユェンは龍脈や妖気にくわしいの? あ、違った陰の気、ね」


 律儀に訂正し、言い直したメイレンは妖気が少しだけ怖くなくなった気がした。

 妖気という文字への漠然とした恐れがなくなり心が軽くなったのだ。


「地脈を整える知識は本来、江湖の丐幇かいほうが担ってたんだ」

「丐幇って家のない人たち?」

「この土が家なのさ。屋根と壁がないだけだ、風通しがいいだろう? 丐幇は様々な情報を繋ぐことを生業にしている。どこにでもいるっていうのが強みなんだ。都の情勢や各州の状況、どこに何がどんな量で運ばれているのか。実際に物を運ぶのは鏢局ひょうきょくという別の組織がある。丐幇は人の流れにも詳しいから、人探しも得意だな。そこに地脈の管理があったんだ。地脈は季節の巡りや天候、人々の田畑の使い方や建物の建て方、橋の掛け方と様々な条件で日々変わる」

「龍が降ったとか?」

「そう。龍はもう一発で変わるな」


 ユェンは朗らかに笑った。


「昔、古龍が降りた大河が七色に色を変えたという記録もあるらしい」

「本当に?」

「うん。その時の色を閉じ込めた大蛤が、河底に今も生きているらしいぞ」


 七色の河水を閉じ込めた大きな蛤を想像して、メイレンの唇の端がきゅっと無意識に上がった。


「ふふ! 七色の色をしている水なんて素敵!」

「だろう? そういう人の目には見えない力の流れを整える仕事があったんだ。だが、土地はすべて大都が管理するといって丐幇の地脈師は排除された。西南にも大都から派遣されている官吏がいるだろう?」

「いるけど……新しく建てた大きなお屋敷からあまり出てこないわ。行事の時はいちばん上の席に座っているけどね。あと、とにかく畑を測るの。お屋敷から出てくると、つねに計り棒で測ってばかりいる。測るのが大好きなのね」


 メイレンの率直さにユェンは笑った。


「まぁ時代は変わるからな。俺が丐幇に拾われた時にはすでに土脈師では食べていけなかった。師父の時代では土地を整えて歩けば、その日の食べ物にはありつけたらしいが」


 二人の前に切り立った崖肌が現れた。苔の這う岩は鐘楼のような高さだ。


「よし、ここを越えるか」


 ユェンはかぶっていた笠を片手で取ると、メイレンの頭に乗せた。


「預かってくれ」


 背を向けて足を折るのでメイレンはすぐにユェンの意図を読み取った。ぴょん! と身軽にその背中に飛びつく。細身ではあるが頼りがいのある背中だ。温かく、メイレンの体重をしっかりと受け止めてくれる。


「ねぇユェン、あなたやっぱり髭がない方が似合うわよ」


 メイレンとテイヨウ、ふたりそろって似合わないといわれた顎髭を、ユェンは先日ついに剃ったのだ。自分では気に入っていただけに、ユェンは苦笑いをするしかない。


「また貫禄がついたころに伸ばしてみるさ。しっかり掴まれ」


 ユェンが柔らかく土を蹴る。ふわりと浮いたその背中に、メイレンはサルの子のように足まで回してしがみついた。


「軽功がうまいのね。テイさんみたいだわ」


 崖を登ってゆくユェンの背中で、メイレンがいう。

 足場の豊富な崖だ。山道もよく手入れされて開けていた。

 最後の足場を蹴り、ユェンは崖上へと舞い上がった。メイレンのかぶる笠衣が陽光を透かしはためく。


 ユェンの背中からおりてからも、メイレンは薄紗つきの笠が気に入ったようで手放さなかった。

 しばらく歩くと太い幹を持つ柳に行き当たった。背後にはまた崖がそびえ、その斜面にじわりと水が染み出している。たっぷりと垂れ下がった柳の枝は重く影を落としていた。


「お。妖気溜まりが残っているぞ」

「これがそうなの?」


 かがんだユェンの肩越しにメイレンが覗き込む。ユェンの指差すそれは、小さな水溜まりにしか見えなかった。ちょうど濃い影を落とす柳の根元にそれはある。


「ここから育っていくんだ。水場だと思ってやってきた獣を引き込んだり、駆ける獣の足を引っ掛けたりする。そうやって腐乱した屍を重ねて、妖気を大きくしていく」

「やっぱり妖気じゃない! すごく怖い!」


 飛び上がったメイレンは、すばやくユェンの背中に隠れた。


「腹がいっぱいで健康な獣は、きちんと妖気溜まりを避ける。山の食べ物が少ない年は引っ掛かるのが増えるけれど。妖獣が出るのは不作の年が多いだろう?人は妖獣が出たから不作になったというが、逆だ。不作だから、妖獣が出る」


 ユェンの掌が妖気溜まりを撫でるように空で円を描いた。人差し指と中指が長い器用な手をしている。

 柔らかく何かの印を結ぶと、ユェンは懐から白い小石を取り出しメイレンへ渡した。


「妖気溜まりに落としてごらん」


 メイレンは恐る恐る、水溜まりにしか見えないそこに小石を落とし入れた。ちゃぷりと音をたてて白石が浅瀬に沈む。小さな気泡が上がった。


「何も起こらないわ」

「そりゃあ、すぐには起こらないさ。麦と同じ。崑崙のように刻と四季がすべて同時にあるわけじゃない。結果が出るには時間がかかるもんだ。昼飯にしよう」


 二人はユェンの持参した包子と干し肉で昼食をとった。食べ終えるとメイレンは高山に咲く珍しい野花をつみはじめた。ユェンはそのうしろをのんびりと歩きながらあくびをしている。


「わあ、この花も見たことがないわ。妖獣がいたから山には入るなって言われてて……わ! この紫色も素敵! ユェンこっちに来て!」

「んー。よく食後に走れるな、メイレンは。少し日陰で昼寝しないか」


 もたもたとやって来たユェンであるが、しかし手にはどこから摘んできたのか山菜を握っていたりするのだ。


「いったい、いつのまに見つけるの? あくびをしていたくせに」

「卑しいからなぁ。食べられるものはすぐ目に入るようになっているんだ」


 そういってユェンは美味そうにふくらんだ山菜の束をメイレンの背負い篭にポイと放り込んだ。


「じゃあ、そろそろ妖気溜まりでも見に行くか」


 大柳には、遠目からも分かる変化があった。重くたれ込めていた枝々に風が通るようになったのだ。

 ユェンは水たまりに手を突っ込むと、先程の小石を取り出した。 


「これが白海石だ」

「麦畑に埋めた石ね?」

「そう。海の底からさらう白石は陽気も陰気もよく吸う。こうして陰の気を吸わせた石は陽気を抑えるのにつかえる」


 ユェンは濡れたままのそれをメイレンの手のひらにそっと置いた。ずしり、と重い。見た目よりも明らかに重く、そして異様に冷たかった。異質だ。


 麦畑に埋める時、ユェンはこの石を誰にも触らせなかったことをメイレンは思い出した。

 目で見て予想した「小石」と全くことなる触感に、頭が混乱する。


 これが「知らないもの」か。


「冷たいだろう。陰の気の温度は」


 ユェンはすぐにメイレンの手のひらから白海石を取ると、お守りのような小さな布袋にしまった。きゅっと口を閉じたそれを、もう一度メイレンの手に渡す。


「重くないわ。冷たくもない」

「断気糸を使った布袋だから気が漏れない。この陰気量だと一年くらいですべて散る。大気に混じって濃淡が平均値に戻るんだ。メイレンにあげる」

「本当に? くれるの?」


 小袋を握りしめて驚くメイレンにユェンは頷いた。


「あげる。メイレンなら善く使ってくれるだろうから。使い方はおぼえただろう? 陽気と陰気のバランスが崩れたら、今度はメイレンが整えてみて」


 メイレンは胸を高鳴らせながら、神妙に頷いた。大変なものを託された、と感じたのだ。西南の村にとって必要な知識。ユェンはきっとメイレンが村長を継ぐと思ってくれた。地脈師の技をこの土地に残してもいいと思ってくれた。


「もちろん善く使うわ!」

「ああ、そうしてくれ。そろそろ日も暮れる。山を下りるか」

「そうね、家に帰りましょう」


 メイレンの言葉に、ユェンはまるで眩しいものを見つめるように目を細めた。


「帰る、か。帰る家があるのはいいものだな」

「何言ってるの。夕食は猪鍋よ。テイさんが昨日仕留めたんだって」

「それは楽しみだ」


 山をおりる帰路、西南の集落からはカマドの煙が幾筋もみえた。夕暮れの空気に、油の匂いが薄くまじる。

 家々のカマドに薪がくべられ、煮炊きをしている。それは、とても穏やかな村の夕暮れだった。

 村長の家が見えて来ると、並び歩いていたメイレンが飛び出した。途中でとった山菜をかかげて、自慢気に帰宅を告げる声は明るい。


「ただいま! お土産があるのよ!」


 夕暮れに響くその声は、ユェンの心に染み入るように残った。

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