第5話

竒王府から遠く、だが同じ都の山沿いに龍威軍の軍営は敷かれていた。


「ルオ。あなたも嘆願を書くのを手伝って。ずっと一人で何をしてるの? わたしたちが元気でいないと先生が悲しむ」


 ギョクコが青々とした茂みに向かって苦言をていすると「悲しまない」と短く答えが返って来る。

 姿も見せずに否定する黒龍に、白龍のギョクコは機嫌を悪くした。


 姿は銀の髪に整った顔立ちをした美しい娘だ。しなやかなバネのある体は大弓を三本同時に射つことができるが、彼女をみて白龍だと気づく者はいないだろう。

 ギョクコは完全な人化姿で、むっつりとその細腕を組んだ。


「む。すぐにそうやって先生を独り占めして、勝手に決めつける。先生はルオだけのものじゃない」


 龍威軍の軍営は広い。前方は一般的な訓練地と野営施設になっているのだが、その奥には竹林と雑木林、切り立った岩壁が広がり、そして最奥には浮島がある。

 崑崙山から切り出し運ばれてきた小さな浮島は、龍たちに唯一許された私的な空間だった。

 この浮島に立ち入った人間はひとりだけ。その人が去った今も、情の深い龍たちは彼の帰宅を待ちつづけている。


 ぷいっと顔を背けたギョクコは、自分の機嫌を取ることにした。

 気持ちの良さそうな木の根に腰を下ろし、持っていた書物を広げる。


「ギョクコは書物が好きだなぁ」


 本を開くと、いつも温かく懐かしい声が聞える。それはギョクコだけの思い出だ。


「ユェンは、わたしの先生でもあるんだから」


 そう独り言をいうと、人の姿をした白龍は翡翠の目で文字を追いはじめる。読み物は楽しい。それを教えてくれたユェンと繋がっている気持ちになれるから。


 そこにやってきたのは桃色の髪をなびかせた華龍だった。最近ようやく龍気を抑えることが上手くなった彼女は名をイーファといった。


「ねーねー! やぁっと私にも外出許可がおりたのよ。これから崑崙でお茶をしてから、空から街を見回って来ようと思うんだけど、一緒に行かない?」


 「行かない」と書物に目を落としたままギョクコが応えた。姿すら見せないルオは沈黙している。


「えーどうしてよぅ! ユェンが見つかるかも知れないのに」

「先生は見つからない」


 答えたギョクコの声は淡々としていて温度がない。しかしイーファはすぐに自信満々に否定した。


「それは皆が見つけられなかっただけでしょう? わたしならきっと見つかるもん!」

「イーファには無理。先生はわたしたち龍と接触しないことを条件に、邪悪な竒王を軍の長から追い出した。先生は一度言ったことは絶対に守る。龍より頭が堅い。隠れる先生は追えない。だから無理」


 立て板に水のギョクコの淡白な言葉にイーファは一瞬気圧されたものの、食い下がった。


「でもでもでも! ユェンはイーファの桃色はこの都でいちばんに華やかでいちばんに素敵っていってくれたもの! 今は春だよ! きっと満開の桃花を見てイーファのことを思い出してるはず! きっとそう! 大きくなってさらに綺麗になったイーファを見たらユェンはきっとふらふら~って出てくるね。いつも通り酔っぱらいながら「イーファの桃色はキレイだなぁ」って言うのよ。そうに違いない。そうとしか思えないもの!」


 龍族には珍しく、イーファは短絡的、かつ楽観的だった。自分の言葉に気を良くして、くるりとまわる。すると長袍の裾が風を含んで揺れ、薄桃色の花がどこからともなく降ってきた。イーファの龍気は空気中で花の形をとるのだ。

 ギョクコは書の上に降ってきた透き通る花を、手の甲で雑に払った。花は大気に溶けるように消える。


「イーファ、角と龍鱗が出てる」

「え?」

「そんな姿じゃ、上空であっても街には出られない。人化の修練に時間を割くべき。出掛けるのは一月先」


 ギョクコの言う通りだった。気分が高揚したイーファの頭には薄墨色の龍角が二本、なめらかに立ち上がっている。紅潮した頬にはうっすらと桃色の龍鱗があらわれ、瞳孔は縦に切れ込んでいた。


「あら? あらあら? そんなはずは……」

「イーファは人化がまだ未熟。没収」


 言葉と同時に、イーファの懐から玉佩が飛び出し、ギョクコの掌にするりと収まった。

 龍には神通力が備わっている。小さなものなら手を触れずとも動かすことが可能だ。


 通行証にもなる玉佩を取り上げられて、花龍は抗議の声をあげた。


「あーん! イーファの玉佩! なんでなんで、何でなの~?! ギョクコちゃんのいけず! 意地悪! むっつり! 鉄面判官!!! ユェンを見つけたくないのぉ?!」

「見つけるより、先生との約束を守りたい。先生は言ってた。ちゃんと人間と話し合うようにって。人が龍を恐れるのは私たちを知らないから。だから根気強く嘆願を書き続ける。これを人間は和平交渉という。話はおわり」


 そういうとギョクコはイーファに背を向けた。ルオの気配はずいぶん前からすでにない。今日も一人、どこかへ行ってしまったようだった。


「ええー!? 人間とは文字でお話しするのにお友だちのイーファとのおしゃべりはおしまいなのぉ? どういうこと? ……あ、これ本当におしまいなのね。絶対返事してくれないやつだわ。んも~! またあとでおしゃべりしてよね、ギョクコちゃん!」


 イーファは桃色の髪をなびかせていう。めげない明るさが彼女の長所だった。そして三歩歩いたところで振り返ると、我慢できずにこう叫んだ。


「ねぇ〜!!! やっぱりユェンが居ないと、イーファずっと一人でおしゃべりしちゃうんだけど?!? 集めた桃色の玉に向かってずっとだよ?! 大丈夫かなこれぇ?!? ねぇ〜聴いて〜?!?」

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