第4話
中年の家職が長い渡り廊下を歩いている。磨きあげられた床に足音も残さず、男は主の部屋までたどり着いた。
この屋敷の管理を任され、家職という上役についたのは数年前。足音を立てない歩き方は、前任者の老人から教わったものだった。
「旦那様、書簡をお持ちいたしました」
「入れ」という声に家職は従う。
豪奢な居室は薄暗く、いまだに夜の香の匂いがする。昼を過ぎた時刻ではあるが、主は寝間着のままだった。奥の寝室から若い女が顔を出し、文机に向かう主の肩に艶やかな仕草で絹の羽織りをかけた。そのまましなだれかかるように主の肩に顔を寄せる。
家職の差し出した書簡は四通。そのうちの一通が主の機嫌を悪くさせることを男は知っていた。
「……また龍威軍のギョクコか。鬱陶しいな」
心の準備をしていた家職とは異なり、女は主の苛立った声に驚き身をすくめた。最近、屋敷に来たばかりの妓女だ。妓楼でいちばんに笛が巧いと評判だった。
「黙って朝廷に従っていればいいものを。あの忌々しい世話役に感化されおって」
「呉将軍に知らせをやりますか?」
「ああ、すぐに来いと伝えろ」
龍威軍からの嘆願は三日に一度はやってくる。以前まで、龍威軍の兵権を握っていたのは主であった。その時の嘆願書は主の命により、家職の男がすべて焼き払っていた。
それが、龍付きの世話役によって告発されたのだ。
たしか名をユェンといった。
龍と馴れ合うだけあって、不思議な雰囲気のある若い男だった。なんの後ろ楯もないくせに、皇族でもある主、
当時のことを思い出したのだろう、竒王は女のかけた羽織りを落として立ち上がった。
「笛を吹け、哀情歌だ」
主の要求に女が慌てて薄紗をくぐり、寝台に置いてあったらしい横吹を持って戻る。
妓楼でいちばんの腕だという家職の記憶はたしかだった。
柔らかく甘い音色は、苛立った主を慰撫する極上の絹のようだ。笛音にそう詳しくはない家職の耳にも格別だということは分かる。
床に跪きながら音色にうっとりとしかけた家職であったが、主はそうでなかったらしい。
「違うな。耳障りだ、出ていけ」
薄い襦袢のまま、女は部屋の外に追い出された。家職はそれを黙って見守る。
龍威軍への影響力を失ったかにみえた竒王だったが、そこは宮中をゆりかごとして育った皇族である。潤沢な銀子をばらまき、次に龍威軍を管轄する者を首尾よく傀儡にした。それが呉将軍だ。
彼に宛てられた書簡は様々な者の手を経て、まずは竒王のもとに集まるようになっている。
毎度家職が焼き捨てていたユェンの嘆願は、彼が去ると白龍のギョクコがそれを引き継いだ。しかし嘆願は、いまだに主のもとに集まる。公に出ることはないのだ。
文机に肘をつき、苛々と酒をのみはじめた主を見て、家職は部屋から下がった。
細心の注意を払い、音をたてないように戸を閉める。そうしてようやく息をつける。
戸の前にはいまだ妓女がうずくまって泣いていた。
「何がいけなかったの? ねぇ、私の笛音の何がご不満なの?」
すがり付いてくる女の甲高い叫び声に、家職は慌てて口を閉じるようにいった。
「静かに」
「でも……でも、私の笛音はどんな席でも評判で……」
「ああ、しゃべるのじゃない。旦那様はしゃべる女がお嫌いだ。何があっても黙っていろ」
家職は声を落としてささやくように女に耳打ちする。
「旦那様が哀情歌を求められた時はどんな音色も意に沿わぬ。どれも「違う」と仰られるんだ」
「でも、私の笛はこの都でいちばんなのに……」
「もう考えるな。侍女を呼んで、湯浴みでもしろ。日が暮れたら旦那様の機嫌も戻り、また床に呼ばれるだろう。旦那様にはくれぐれも今のようなことを言うのじゃないぞ。ただ黙って仕えるんだ」
そうじゃないと舌を抜くことになる、と家職は心のなかだけで続けた。
女の舌を抜くのは家職になる前から男の仕事のひとつだった。好きになれない仕事だ。
しゃべる女はもちろん、飽きた女も屋敷で見聞きしたことを洩らさぬように舌を抜く。竒王に侍る女は舌なしだと朝堂で非難されたこともあるが、それを口にした官吏たちは悉く消えていった。竒王は恐ろしい。
家職は女を侍女に預けると、龍威軍からの書簡を手に厨房の竈におりた。昼食は終わっているので人気はない。
竈に火を入れると書簡を投げ入れる。龍の筆はいつも青草の爽やかな匂いとともに燃えた。
そういえば、龍の世話役も笛を吹いたことを男は思い出した。内側から発光するような真珠色の横笛で、なんとも心に残る不思議な音色を響かせた。
「あれも哀情歌か……」
呟いてから、家職は慌てて掌で口を覆う。舌を抜かれては堪らない。それなら舌を抜く方がまだよかった。
主の心情に立ち入ってもろくなことはない。長生きするためには口をつぐみ、忘れることが重要だ。
火かき棒で竈をつつく。書簡は一部の残りもなく薪の灰に混じった。
龍ごときが文字を綴るとは忌々しい。家職は主を真似て心の中でそう毒づいた。どうせ読まれぬ奏状なのだ。それを焼く者の手間を考えることもないのだろう。
龍の訴えがすっかり燃えきったのを確認して、家職は足早に厨房を後にした。慣れた作業だが、龍の筆はいつだって目に染みるので嫌な気分になる。
青草と澄んだ水の匂いだけが、人のいない厨房にいつまでも残った。
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