第3話
龍が力を使うと土地が荒れる。それが龍の嫌われる理由のひとつだ。土をダメにするなら妖獣と同じだという者すらいる。
竹籠を背負った少女がテイヨウとともに案内してくれたのは、農村の奥に広がる麦畑だった。
美しく整えられ、日々世話されていることが一目でわかるような畑だ。
だからこそ、元気なくうなだれてしまった麦が哀れだった。
「去年の秋に蒔いて、麦踏みしながらようやく大きくなったのよ。それなのに龍威軍が来たせいで……」
「だが冬を越えたら突然、妖獣の被害が増えたからな。龍に追い払ってもらわんと仕方のない状況ではあったのさ。あと少しで村人がやられるところだった」
「それはそうだけど!」
テイヨウの言葉に、少女はむっと唇を尖らせた。
「でも! 龍が暴れたから、土が悪くなったのよ!」
座り込んで土を触っていたユェンが、顔をあげる。
「うん。まずはそこだな。なぜ土が悪くなったと思う? 作物が育たなくなったからか?」
「そ、そうでしょう?」
ユェンのゆっくりとした問いかけに、少女は戸惑いの表情をみせた。
「だって見てよ。こんなに萎れちゃったのよ。土が悪くなった他にないじゃない。追肥をいくらしても、元気になってくれないんだもの」
「でも普通の枯れ方じゃないだろう? 葉は青いままだし、ほら、根も健康だ」
ユェンは麦の根本の土を払い、慣れた手つきでその根を指差した。手はすぐに土に汚れたが、ユェンは特に気にした様子を見せなかった。
(土に触るのに慣れているんだわ)
とメイレンは思った。
普段農作業をしない者は、手を汚したくないから土に触れることに躊躇いを持つからだ。
メイレンの猜疑心が少しだけ小さくなる。たがそれを悟られぬよう少女は語気を強めたままにした。よそ者をそうやすやすと信じない。農村の鉄則である。
「ふん。だから、なに? 根が元気でも麦がシオシオになってることに困ってるっていってるの!」
「これは土が悪くなったんじゃなく、良くなりすぎたんだ。栄養過多というやつだな」
ユェンの言葉に、少女とテイヨウは顔を見合わせた。
「土が、良すぎる?」
「ああ。つまり俺たち人が「良い」と認識するのは、自分たちの糧となる作物が育つかどうかって基準なんだ。自分達にとって都合のいい土を勝手なことに「良い土」と呼ぶわけさ。その狭い範囲から外れた良すぎる土は、悪い土といわれてしまう」
「はっはぁ。追肥が効かないのはそういうわけか」
テイヨウが顎をなでながら明るい声をあげた。
「ああ。龍は土地を荒らすという、誰が言い出したか分からない言葉が一人歩きしているんだ。龍が土を踏むと、その土地の龍脈が活性化する。龍脈がどう作用するかは土地によるし、一括りにはできない。雨が降ったから作物が弱ったと、天に怒るやつはいないだろう?」
目をまんまるにして、ユェンの言葉に聞き入っていた少女だったが、最後の言い草はさすがに癇に障ったらしい。
「んもう! あなた何なの?! 龍の味方ばっかりして! 天龍信仰の人?」
顔を真っ赤にして、またぷりぷりと怒り出してしまった。
「おいおい、参ったな」
龍を盲目的に崇める天龍の信徒といわれ、ユェンは嫌そうに頭をかいた。
天龍教とは朝廷への参内で何度か会ったが、お互いに一触即発の天敵という認識である。龍をあがめる彼らは、雑に龍に触れるユェンが気に食わないし、龍を兵役につけながらも信仰対象として放置する天龍教がユェンは嫌いだった。
大きくため息を吐いて、ユェンは苛立った心を抑えた。
「ただの通りすがりだよ。この土地の龍脈はとてもすこやかだ。少し畦道を曲げて、龍気を河の方へと流してやるといい。消石灰をまいたり、龍気を吸う石を埋めるのも効果がある。村長のところに案内してくれないか? くわしい土壌改良のやり方を教えるから」
「本当に?」
「本当に。すぐに作物が育つようになるぞ。しかも今までより土が良くなった、と言うはずだ」
少女は村長である祖父を大切にしているのだろう。とつぜん現れたユェンに手を借りたい気持ちはあるものの、祖父に紹介していいものか悩んでいる。
「そうだ、俺を怪しいと思うなら、君が見張っていればいい。妙な動きを見せたらその鍬で殴ってくれ。ほら、メイレン。背負い篭は持つから案内してくれ」
背負い篭にぶら下がる刺繍袋にあった名前を呼ぶと、メイレンは子猫のように毛を逆立てた。
「ちょっと! 勝手に名前を呼ばないでよ!」
メイレンの振り上げた鍬はユェンの足下に音をたてて突き刺さった。
土壌に手を加えても一朝一夕で効果が目に見えるわけではない。農耕は日々とともにあるのだ。
「詐欺師と呼ばれたくなかったら、麦が健康になるまでちゃんと村にいてよね」
しっかり者のメイレンにそう言われ、ユェンは村長宅に逗留することとなった。扱いは食客である。
用意された部屋は広くはないが、清潔だ。中庭を挟んだ向かいがメイレンの部屋で、朝から規則正しいメイレンに叩き起こされることには辟易したが、あとは三食昼寝付きで申し分ない。これまでの旅の中でも格段によい待遇だった。
「おはようユェン! 朝よ!」
「……うう、俺にとってはまだ夜だが……」
今日も元気なメイレンが勝手に部屋へと入って来た。はじめはあんなに警戒していたのに、もうそんな距離は微塵もなくなっている。
「畑仕事は朝が早いの。ほら、一緒に見に行きましょう。どんどん麦が元気になるから朝目が覚めるのが嬉しいわ」
メイレンに剥がされそうになる上掛けの布団を、ユェンは必死に体に巻きつけた。
「ちょっと! この蓑虫! 起きなさいってば!」
「むうう」
布団を離さないユェンに業を煮やしたメイレンはついに寝台に飛び乗ってくる。
「ぐええ」
「蓑虫ユェン! 掛布を離しなさいったら! まったく子どもみたい! ねぇ、畑をまわったら、屋台でお粥をご馳走してあげる。油条(揚げパン)もつけるわ。村でいちばん美味しい屋台を知りたいでしょう? ほら起きて!」
腹に乗っているメイレンが重い。起きるしかないと悟ったユェンは渋々と布団から出た。
気は強いが人見知りがちで、村外の人間にはたやすく警戒を解かないメイレンが、ユェンにはすぐに慣れた。
「お嬢がこんなに懐くのは珍しい」とは雑貨売りのテイヨウの言葉だ。
それはユェンにしても同じことが言えた。多くの土地を回るがゆえに、そのひとつひとつには深入りをしないようにしているユェンは、メイレンという少女に他にはない親しみを覚えはじめていた。
メイレンの頑固な気質は龍に似ているのだ。
のろのろと寝台から這い出たユェンはメイレンに背を押されながら畑に行く支度を整えた。
「ねぇ、龍の話をしてよ」
メイレンが
「龍か……、だけど龍威軍が妖獣を払うところを間近で見ただろう? それが龍だとしか言いようがない」
ユェンがもうひとつ欠伸をしながらいうと、メイレンは「見てないわよ」と頬を膨らませた。すぐに感情が顔に出る。
「危ないからって、みんな街の方に集められたの。龍は空から来ると聞いていたからずっと雲間を見ていたけれど、遠くて何にも見えなかったわ。龍ってわたしが思うよりちっちゃいのかしら」
「ああ、人姿で来たのかもな」
と、ユェンはいった。
「そうなのね! 龍は大きなものだと思っていたけど、人の姿にもなれるんだものね。言葉は話すの?」
「もちろん。無口もいれば、おしゃべりもいる。俺たちと同じだ。それに危ないこともない。むしろメイレンたちがいつもの場所でいつも通りに生活していないと、どこまで妖獣を追い払ったらいいのか分からないだろう? 今回も農地はもちろん、かなり山奥まで妖気が浄化されている。人のいない所まで陰の気を払ったから、麦が影響を受けたんだ」
「知らなかった……」と、メイレンは呟いた。
「わたし、龍と妖獣は同じだと思っていたわ。ユェンに会うまでそう信じきっていたの。龍を見たこともないし、知りもしない。ただ噂をきいただけなのにね。妖獣から村を守ってもらっても、麦のことで頭がいっぱいで感謝もしなかった。大事な麦だったから……でも、それってすごく狭量だし悪いことよね……」
しょんぼりとうなだれたメイレンに、ユェンはゆっくりと言葉を返した。
「うーん、俺はメイレンたちにそう思わせた奴が悪いと思うけどね」
「どういうこと?」
「メイレンはただ知らなかったんじゃない。龍たちと引き離されて、目を覆われて、龍への知識を与えられなかったんだ、あえてね」
ユェンは見えてきた麦畑から、早朝の白々と霞む空に視線をあげた。
「誰が? どうしてそんなことをするのよ」
「そうした方が人は龍を恐れるだろう? 知らないという恐怖心や憎悪を利用すれば、力のある龍を簡単に駒にできる。龍を自分の意のままに使おうと思っている人間が朝廷には多いんだ」
緑色の麦畑が風に波打った。鞘葉から出てきた小穂は特に明るい黄緑色をしている。出てきたばかりの朝日に照らされた麦の穂は清廉で美しかった。
ユェンの言葉に黙りこんでいたメイレンは、しばらくするとようやく顔をあげた。
「ユェンは、それに怒っているのね」
聡明な少女だ。言葉の端から、相手の心情をすぐに察してしまう。そういうところも龍に似ている。
「そうだな。俺はずっと龍を都合良く使おうとする人たちに怒っている」
朝の空気は爽やかで、ユェンの抱えていた怒りもすっきりと冷やしてくれるようだった。青い麦畑を波打たせた冷たい風が、ふたりのもとにも届いた。メイレンの髪飾りの赤色が柔らかく揺れる。
「メイレンに似ている龍を知ってるよ。ギョクコという本が好きで頭がいい弓の名手だ。白龍だから、輝くような銀髪に翡翠の目をしている。目がいいんだ」
ユェンが龍の個体について話したのははじめてだった。いつもは人に関係のある龍気や大地に巡った龍脈の話しかしないのに。メイレンは自分が信用されたことに、そして何よりユェンがいとおしそうに話す龍に一瞬で夢中になった。
「わたしも! わたしも本は好きよ! ギョクコは女の子なの?」
「そう。メイレンみたいに外の暖かい日向で本を読むのが好きなんだ。あまり笑わないが、じつは人をからかうのが好きで、史書や古詞を引用して笑わせてくる」
「ユェンの大切な友人なのね」
どうして離れてしまったの、とメイレンは続けなかった。
友人としての龍を語るユェンは、無遠慮に触れたら霧散してしまう影のようだったからだ。頬は濡れていないのに、早朝の光の反射と目元に落ちた影で、なぜか泣いているように見える男。慰めたくとも、手を伸ばせばその瞬間に、消えてしまうだろうことがわかる隠された悲しみをメイレンはユェンのなかに感じた。
「ああ、友人なんだ」と、ユェンはいった。
その表情をメイレンは忘れない。
朝の澄んだ空気と青麦のざわめき。大切な人を思い出す、過去をうつす瞳の色。
茶楼の講談師がよく使う「忘れえぬ」とはこういう瞬間のことをいうのかと、メイレンははじめて思ったのだ。
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