第2話
小舟に揺られながら、ユェンは星空を眺めていた。先ほど船頭に言われた言葉が頭から離れず、眠気は散ってしまっていた。
ルオはユェンが育てた仔龍だ。
十年前。この国では強引な手段で集めた龍族を国有軍とする方針がとられた。
武芸に秀でた者が多い龍族は、なにより空を駆けることができた。龍の姿と人の姿、二つを持ち合わせており、どちらでも空を自由に飛翔できるのだ。足の早い妖獣退治には欠かせない能力。しかも、妖獣よりもはるかに高位である龍は、その
つまりは人だけでは手の回らなくなった妖獣退治を龍族に担ってもらおうというのが龍威軍の成り立ちだった。
その龍の世話役として、白羽の矢がたったのがユェンだ。
当時、若くして江湖をふらついていたユェンは恩師の導きもあり龍たちの軍営に入った。
龍族は気難しい。それは持って生まれた大きな力を制御する強固な自制心から来ている気質であるとユェンは付き合いのなかで知っていった。
爪のひとかきで河が生まれ、尾を振れば山が崩れるといわれる龍である。
まず仔龍たちが学ぶのは力の抑え方なのだ。
ユェンの背中には縦に裂けたような傷痕がある。
龍威軍にいたころに、幼い黒龍に突き飛ばされた時の傷だ。最後まで人姿になることを拒んでいた無口な黒龍は、いちばんに力が強く、そして情に厚かった。ユェン自身は気にしていないのに、水浴びをする度にユェンの傷痕を見てはひとり声も出さずに泣いていた。
「ルオ、泣くなよ」
星が落ちてきそうな夜を見上げて、ユェンは呟いた。
久しぶりに呼んだ名が懐かしい。夢では毎晩呼んでいると船頭がいっていたが、ユェンは夢を覚えていないのだ。
夜の河はゆったりと流れている。小舟に寝転んでいると夜の空にひとり放り出された気分になった。
ユェンは龍が好きだ。
崑崙の生む玉のように美しい龍。誰にも傷つけられない硬い鉄壁の鱗と、その奥に隠れている赤子のような無垢なあたたかさ。
見上げる星空が、懐かしい龍たちに繋がっていると思うと、じわりと胸がうずく。
ただ彼らが、この夜を暖かく幸せに過ごしているよう願わずにはいられなかった。
小舟が西南についたのは、それから更に六日がたってからだった。
のたのたと這うように河岸を進んだので、桜花の季節はとうに終わった。いまは霞むような萌黄色の山肌に、目を引く紫が鮮やかな藤の盛りとなっていた。
「こうやって西湖をぐるぐる回っとる。気が向いたら、帰りも乗っていけ。拾ってやる」
そういう船頭に手を振って、ユェンは小舟から降りた。
土を踏んだ瞬間、腿の内側がチリリと痺れた。
龍の気息だ。
龍の降った地には龍気が残り、土の下に眠る龍脈が開かれた状態になる。
変わるのは土だけでなく空気もだった。淀んでいたものが浄化され、豪雨によって洗われたように一新される。匂いは澄んだ淡水と緑草の香りがする。懐かしい、ルオの匂いだ。
ユェンは笠をかぶり、面紗を下ろした。
小さな市街地、あとは拓けた麦畑の広がる平野が西南の地である。さらに西に進むと砂漠に出るので、土は肥沃ではあるが乾燥している。麦に適した土なのだ。
ユェンは無人の閭門をくぐり、店の並ぶ通りに入った。どうやら龍威軍が去ったのは五日ほど前らしい。店々で気安い会話を交わしながら、ユェンは知りたい情報を集めていった。
「五日前か。気息の残り具合から十日は経っているかと思ったが……。こんなに龍気を抑えられるようになったんだな」
ユェンの知る龍たちは、妖獣退治は上手くとも人里への干渉の仕方が下手だった。磁場を狂わすような龍気を振り撒くように妖獣を狩り、むやみに龍脈を吹き上がらせていた。
これに異を唱えたのが、そこに暮らす民たちだ。とくに農業をなりわいとしている者は自分たちの土地が荒らされるのを嫌った。
彼らの土地を守るために働いているのに、どうしても龍は嫌悪を向けられてしまう。
龍威軍から追い出されたユェンが龍たちの跡を追っている理由は、この調整のためだった。
龍が乱した土地を、少しでもよくしたい。それは軍にいたときからユェンがすすんで行ってきた仕事だった。
龍と人とを繋ぐこと。
本来なら龍威軍の平定のあとに、土を整える組織が必要なのだ。妖獣をはらう部隊の後方に、龍気を沈める者を配置すればいい。村人に何の説明もなく進軍するのではなく、きちんと龍気について教えればいい。
妖獣を払うのは、民の暮らしを守るためだ。その暮らしの糧となる田畑を蹂躙したままでは本末転倒だろう。
これについて軍のなかで再三に訴えたのだが、ついにユェンの思いは形になることはなかった。
龍たちとの繋がりは切れて久しいが、人に誤解されがちな龍と人里をできるだけ繋いでおきたいというユェンの心は変わっていない。
「まぁ、独りよがりなんだが……」
世話役から退く際に、ユェンは龍との接触を禁止されていた。それにも、この後追いの旅程は都合がよかった。龍が降り、そして去った地を転々としていれば、けして龍たちに会うことはないのだから。
「しかし、これだけ龍気を抑えられるなら、俺の役目もそろそろ終いだな。西南を見物したら、そのまま砂漠を越えて、異国にでも渡るか」
そう一人ごちた時、のんびりとしていた西南の通りが突如ざわめいた。
人々が足を止める中心には、十を過ぎた頃合いの少女がいた。
「龍なんて! 大嫌いよ!」
顔を真っ赤にして叫んでいる。人混みに面紗を揺らしながら、ユェンは少女に近づいた。
「お嬢さん、こんにちは。少しいいだろうか」
人だかりをくぐり抜け、突然声をかけたユェンに、少女は警戒をあらわにした。
西南の土地はほとんどを農地が占めており、緑は多いものの風光明媚とはいえない。来遊客などは西湖と繋がる美しい九媚湖の方へ向かうのが常だ。見知らぬ客はそれだけで目立つ。
「な、何よ、あなた。どこから来たの」
「緑雲州から西湖をまわり、西南には今日着いたところだ」
笠をとったユェンの顔を、少女はじろじろと見つめてくる。
「物売り……じゃないのね。荷物を持っていないもの。龍でも拝みに来たの? 残念だけど遅かったわね。もう帰っちゃったわよ」
「ああ、声をかけたのはそうではなく、龍の残したもので困り事でもあるのかと思ったんだ。よかったら話してみないか」
ユェンの言葉に、少女は野生のコマネズミのように身を引いた。結った髪に巻かれている赤の飾り布が揺れる。
「何なのあなた? 私に何かしたら、村の人たちがボコボコにするわよ」
「いや、そんなつもりじゃ……ただ俺は……」
「そんな顔で似合わない髭をたくわえているのが、いかにも怪しいわ」
ユェンは思わず指先で口髭を触った。
「え。似合わない、か?」
「あなた、鏡をみたことないの?」
ここで、警戒心より世話焼き心が勝ったらしい。少女はユェンの背を押し、露店のなかの一店に連れ出した。そこに置かれていたのは小さな銅鏡である。
「おじさん、鏡ちょっと借りるわよ」
「お嬢は見るだけでいっつも買ってくれねぇからな」
「高価なんだもの仕方ないでしょ! いつか買うんだからそれまで待ってて!」
少女は手巾で自分の手をさっと拭うと、慣れた様子で商品の銅鏡をとった。ユェンの顔を映すように、黄みがかった鏡面を向けてくれる。久しぶりに見た己の顔に、ユェンはまばたきをした。
「……うん。なかなか揃ってきていて、いいと思うが」
「まったく似合ってないわよ! ね、おじさんもそう思うでしょ?」
少女の声に、商人はゆっくりと頷いた。
「そうだな。アンタには少し早いかもしれん。顔を隠したいという意図が透けて、逆に目立つ」
後半の言葉にぐっとユェンはのけ反った。
龍の世話役から切られた当初、数年は龍たちに探し回られていたのだ。身を隠す癖が抜けないのはそのためだ。
「あら、図星なの。このテイさんはね、うちの村一番の武芸者なのよ。この大通りの露天で、不審者が村に入ってこないか見ててくれてるの」
「村長への恩返しに、ただ座ってるだけだがな」
なるほど、長閑な農村のようでいて独自の保安策が敷かれているらしい。
「あーつまり、俺は髭は似合わないが、不審者ではないということでいいのかな?」
「ああ、そうだな。見たことのない足運びでどこの流派かは分からんが、どうも悪人ではなさそうだ。俺のカンだがな」
テイヨウだ、と露店商が名乗るので、ユェンも拱手礼をとった。
「ユェンだ。龍気で困っているときいて、このお嬢さんに声をかけた。以前に龍脈と土について学んだことがある。役に立てるかもしれない」
「それはいい。お嬢、荒れた畑に案内してやれよ」
テイヨウが明るく笑うのに、少女はすかさず眉をしかめた。
「嫌よ! こんな怪しい人と二人なんて! 私に何かあったらどうする気?」
お祖父ちゃんに言いつけるわよ! と両腕を振り上げる少女をしり目に、テイヨウはユェンに笑いかけた。
「これで村長の孫娘なんだぜ。驚くだろう」
「これでってどういう意味よ!」
「村のことを思って荒れた田畑に人一倍胸を痛めてるって意味だよ。ここのところ毎日通りで喚いてるしな」
鷹揚にそういうとテイヨウは敷布で商品を包みはじめた。
「俺もついていこう。それならいいだろう、お嬢」
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