花咲く黒龍の駆けるさき

シメサバ

第1話


「龍威軍のやつが西南に降りたとよ」



 繁盛している酒楼は、噂を得るに事欠かない。  夕陽の落ちたばかりの時間とあって、酒楼の入口には面白いように仕事あがりの人々が吸い込まれてゆく。

 龍威軍という単語に、ユェンは通りを見下ろす窓の欄干から身を起こした。


 春の宵だ。

 日が長くなり、夜でも冷えることのなくなった通りは賑やかで、紅梅につづいて咲いた木蓮が灯籠の明かりに白く浮ぶ。


「西南は妖獣に村の中にまで入られたと聞いた。ようやく龍威軍が来たか。遅いぐらいだ」


 テンポのよい口ぶりにユェンは素知らぬ顔で耳を傾けた。

 話すのは、羽織や荷物からして売り歩きの商人のようだ。扱う品物はそれぞれでも、こうして集まり彼らは地域ごとの知らせを交換し合う。


「妖獣は不味い。俺の荷も、猿の姿をした妖獣にやられた。すばしっこい上に集団で頭も回る。てんで敵わねぇ」


 妖獣。それは妖気にあてられた獣の呼称であった。

 体内にたまった妖気の影響で、体が二回りほど膨張するため、どれも一様に体積を増す。性格も狂暴になり人や家畜を好んで襲うようになる妖獣は、この国の厄介事のひとつだった。妖気を吸った獣はそれ自体が妖気をふりまく存在となり、さらに疎まれるものとなる。

 妖気は隠の気が強い湿地に溜まる。妖気が溜まらないよう、または、溜まった箇所に獣が落ちないように都の術士が管理しているが、中心地から離れた田舎までは手が回っていないのが現状だった。

 妖気は土地を腐敗させるのだ。妖気にあてられた土がもとに戻るには長い年月がかかる。


「まぁそうだがよ。龍が妖獣を追い払ってくれるのはいいさ。おれら歩きの商人もやりやすくなる。だがな、龍の降りた土地だって同じように荒れるんだぜ。妖獣の撒き散らす妖気なんてかわいいもんだ。龍威軍が進行したあとは草の一本も生えねぇってよ」


 男の言葉に、まわりがこぞって同調する。


「迷惑な話だなぁ。それじゃ妖獣が妖気を振り撒いて渡ったのと代わらねぇじゃないか」

「違いねぇ」

「西南には渡らん方がいいな」


 酒が入り陽気になった男たちの話は、間を置くこともなく次の地域の話題に移った。

 それを機に、ユェンは静かに店を出た。すぐに面紗のついた笠を目深にかぶる。


「西南か」


 呟きと同時に、酒で火照った頬を春の夜風がなでた。梅の香りのする風はまだ冷たくはあるものの柔らかい。


 ユェンは船着き場へと足を向けた。最終の乗り合い舟が出る時間だ。夜の河にのびた木板組みの桟橋には、いまだ大きな荷物を背負った人々がごった返している。

 そのなかで洗い晒しの藍の長袍で、手荷物のひとつなく身軽に歩くユェンは浮いて見えた。


「西南行きの乗り合いはこれかな?」


 屋根付きの小舟を覗きこむと、船頭が顔を出した。


「そうだが、はやく西南に着くのは、となりのでかい帆船だ。この小舟は一等に遅い」


 手漕ぎ舟の船頭は、長い櫂を手にしていた。

 灯籠が照らすのは桟橋の上だけなので、櫂の先端は闇に溶けて見えない。幅の広い穏やかな河も、ぬっとりとした濃い闇色だった。


「それはいいな。遅い方が都合がいいんだ」


 猫のようなしなやかさで、ユェンは桟橋からその小舟に跳んだ。長身の男の跳躍に慌てた船頭だったが、思いのほか柔らかな着地は、小舟を揺らしもしなかった。


「なんだオマエ、龍威軍の見物じゃないのか? この舟が着く頃にはもう平定も終わっとるが」

「ああ、龍には会いたくないんだ」

「龍の焼いた田舎村に用があるのか? 妙な奴だな」


 船頭がいぶかしげにユェンをねめつける。自分の舟に乗せてもいいものか、考えあぐねている様子だ。

 たしかにユェンの風采はあやしい。面紗つきの笠は夕刻を過ぎると、さらに影と混じり闇に沈む。柳の横にいると、幽霊に見間違われることもしょっちゅうだ。


「怪しい奴め。どっかにいけ。ワシの舟に悪人は乗せんぞ」

「そんなこと言わずに乗せてくれよ。ほら、もちろん船賃は前払いできる」


 食い下がるユェンに助けを出してくれたのは、屋根の奥にいた旅装の女だった。


「いいじゃないの。女子どもしか乗ってないんだから、若い男がいてくれた方が助かるわ」


 屋根の下を覗くと女のいうように、乗客は子連れの女ばかりだった。気忙しい商人は鈍行を避け、速度の出る大型の帆船に乗るのだろう。


 ユェンは、被っていた面紗つきの笠をはずして、口添えしてくれた彼女に頭を下げた。


「ありがとう、ぜひ用心棒として役立ててくれ」

「いいのよ。よろしくね」


 笑う女のとなりで、船頭は口をへの字に曲げている。


「用心棒だと? 刀も持たん貧乏書生のような成りをして」

「刀はなくとも、これがある」


 そういって、さっと懐に手を入れたユェンに、船頭は思わず身を固くした。妙なものを出したら殴ってやろうと櫂を握り直したのだ。が、そんな船頭の眼前にユェンが出したものは、飾り気のない横笛であった。

 とろりとした質感の白い笛は、闇のなかでは内側からほんのりと発光している。


「なんだ、ただの笛か! 脅かしやがって」

「ただの笛とは言ってくれる。音色がいいと評判なのに」

「あら、用心棒じゃなくて楽士なのね」


 女が楽しげに笑う。こうして、鈍行の小舟はユェンを乗せて出発することとなった。







 春の薄闇にのたのたと漕ぎ出した小舟は、西湖の縁を這うよう大廻りしながら西南を目指す。

 川縁ばかりを進むので、日中は桜桃の花びらがしきりと小舟に降ってくる。ぽかぽかとした暖かい陽気にも恵まれ、船旅は順調だった。


 乗客を何度も入れ替えながら、ユェンは舟上で五度目の夜を迎えていた。もはや定位置となった船頭のとなりで、今夜ものんびりと酒壺を傾けている。


 「今夜の酒は旨いな」


 相伴する船頭がいった。


 「ああ、これは当たりだったな」とユェンがこたえる。今夜の酒は澄んでいてほどよく辛い。


 屋根のなかでは女たちが眠っている。夜には外に出てきて、こうして屋内を女たちに譲る律儀なユェンに、船頭はようやく気を許しはじめていた。


 妙な男だが、悪人ではない。


 それが船頭の結論だった。異様なまでの軽装だが、旅馴れしていることはすぐにわかった。

 舟上で子どもが愚図っても鷹揚で、桜桃の花びらを使って遊んでやったり、夕暮れには例の笛で子守唄を吹いてくれる。

 妙に技巧高い叙情的な笛音が、なんとも素朴な子守唄を奏でるものだから女たちはよく笑い、そのちぐはぐさが赤子にさえ伝わるようで、泣き声はすぐにやんでしまうのだった。


「ね、当たりの用心棒だったでしょう」


 そういって舟を降りていった旅装の女は正しかった。


「ああ、当たりだったな」


 船頭は二口目の酒をあおった。今晩の酒を褒められたのだと思ったユェンが、向かいで嬉しそうに目を細めている。男ふたりで酒盛りをするのも恒例となっていた。


 昼、ユェンはふらりと町に降り、日暮れ間近に寄る停留場でまた乗り込んでくる。

 鈍行の小舟だからできる過ごし方だ。荷物の多い女や腹の大きな女がいれば、降りた先まで送ってやりもする。そうして地酒の壺と少しばかりの酒肴を買い込んでくるわけだ。ふらふらとしているように見えてその実、ユェンは人をよく見ていた。


 夜の河は星のある空よりも暗い。もったりとした質感の水面は穏やかだが黒々としていて、巨大な生き物を思わせる。


 船頭は、まだ半分ほど中身の残っている酒壺を置くと、愛用の櫂を手に取った。この奇妙な相方をとなりに、舟の舵を西に切る。

 西南への行程でいちばんに気を張るのが、今晩の流れだ。河川に張り出している山の斜面に山匪さんぴが住み着き、気まぐれに舟を襲う。


「何か来たな」


 隣で寛いでいたユェンがそういって身を起こすまで、船頭はそのことをすっかり忘れていた。


「不味い。山匪だ!」


 不覚である。つねならば、夜に渡るのを避けていた場所だったからだ。旨い酒と笛の音ですっかり気が緩んでしまっていた。


「山匪? 山が根城の盗賊が舟を持っているのか?」

「山道は人が通らねぇから、やつら最近では河まで降りて来やがる」


 暗闇のなか、丸太を組んだだけのいかだが近づいてくる。明かりも灯さず暗闇に紛れているが、目を凝らすと鈍く光る刀身が見えた。

 人気のない河川の真ん中ではどうしようもない。とにかく岸に引き返そうとした船頭よりはやく、ユェンが寝かせてあった櫂をとった。


「なにをする! 返せ!」

「もう逃げるには間に合わないだろう。櫂を借りるぞ」


 そういうとユェンは櫂を河底に斜めに差し込み、そのしなりを利用して湖面を跳んだ。


「おいっ! 刀もないのに!」


 船頭が止めるまもなく、洗いざらしの長袍が山匪のいかだに降り立った。突然のことに慌てる山匪たちを、空を切った櫂が打つ。

 長い櫂が自在に円を描き、その度に山匪の腹と尻をしこたまに叩いた。


「うわ!」

「なんだ?!」

「痛ぇ!」


 間抜けな叫び声に続いて、ドボン! ドボン! と水飛沫が上がる。盗賊たちが湖に落ちているのだ。その間にも櫂はしなる。

 ドボン! と最後の一人が落とし、ユェンが櫂を使いふたたび小舟に戻ってくる頃には、河川はまた静けさを取り戻していた。


「お前……わしの商売道具を……」

「はは。悪かったな、傷ひとつつけていないから許してくれ」


 心配が上回り、おもわずくだらない責めを口にしてしまう船頭である。


「この野郎、武芸を心得てるんじゃねぇか。心配させやがって! ただの笛吹きかと思ったぞ」

「いや、心得はない。今のは奇襲が効いただけだ。河縁にはまだ仲間がいるだろう。人数が増えたら俺では太刀打ちできない、さっさと逃げよう」


 ユェンがいう通り山間の岸辺に目をやると、チラチラと松明らしき明かりが見えた。

 船頭は手渡された櫂を使い、舟の進路を流れの速い中流域にとる。急流に乗った小舟はぐんと速度を上げた。


「ふぅ……何とか助かった。お前のおかげだな」

「舟代くらいは働かないとな」

「馬鹿いえ! 舟代は舟代だ! 無銭で乗せた覚えはないぞ!」


 「ダメか」とユェンは笑って、転がってしまった酒壺を拾い上げた。壺の中身が残っていないのを確認し「こっちもダメか」と船縁に背をあずける。

 酒を諦めるように伸びをして、寝の体勢をとるユェンに船頭は声をかけた。


「お前、起きている時は昼行灯で暢気なもんだが、夢見は悪そうだな」

「夢見?」


 驚いたように顔をあげたユェンに、船頭は続けた。口調はいつも通りぶっきらぼうだが、その声には心配が滲んでいる。


「よく魘されている」

「それは……知らなかった。すまない、うるさいか?」

「いや、うるさくはない。ただ名を呼んでいる。ルオとな」

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