第十六話 彼女の許婚

 クラウとアッシュの婚約話の噂は、思いの他早く、学園内に広がった。


 情報の出所は、もちろんクラウではなく、アッシュの方。彼は、大々的にローウェンハイド家とオーディスティルン家が結ばれる時が来たのだと、吹聴して回ったのである。


 こと恋愛話に興味津々なクラスの女子たちは、やれ「アッシュのことをどう思っているの!?」だの、「いつからそういう関係だったの!?」だのとクラウを質問攻めにし。


 密かにクラウに想いを寄せていたであろう男子たちは、「俺の天使が憎きローウェンハイドに!」だの、「こうなれば先にクラウの心を射止めるしか!」などと色めき立っている。


 当人であるクラウは、婚約話を否定するものの、すっかりその気になっているクラスメイトたちには、恥ずかしがっているのだろうと受け入れてもらえず。


 そんな彼女に協力出来ることと言えば、逃げ回るクラウの居場所を把握しつつ、それを誤魔化す程度のこと。


 こんなことが何日も続けば、クラウも消耗する一方なのは言うまでもない。


 いつものように、グラウンドの隅にある木の上に隠れたクラウに、木の下からそっと話しかけた。


「やっぱり、アッシュ本人をどうにかするしかないんじゃないか? あいつが話を盛って吹聴する以上、逃げ回ってるだけじゃ、いつか追い込まれるぞ?」

「……わかってるわよ、そんなこと。でも、何度お父様に抗議の手紙を送っても、突っぱねるような内容の返事しかして来なくて、話が前に進まないの!」


 まずは実家を説得するという方法を取ったクラウだが、そちらは難航している様子。


 かと言って、噂を鵜呑みにしているクラスメイトたちに、自分が異を唱えたところで、「貴族間の婚姻交渉に下民が口を挟むな」と一蹴されるのがオチである。


 自分の出自を嘆いたことはないが、今ばかりは、貧しい村の出身であることが悔やまれた。高位とは言わずとも貴族であれば、それなりの交渉も出来たかもしれないのに。


「おやおや。我が花嫁ともあろう者が、そんなところで何をしているんだい?」


 突然会話に割って入って来た、男性の声。


 聞き慣れているというほどではないが、この声の主を、ディクスは知っていた。


「アッシュ……」

「……おい、口を慎めよ、下民。お前のような下賎の者が、貴族である僕の名を呼ぶなどあってはならないことだ」


 彼がこちらに向ける視線は、人間に対するそれではない。害虫か、はたまた汚物でも見るような目。


 こちらが仮にもグレインフォードの名を継いでいることなど、全く意に介していない様子である。


「我が花嫁。そんなところにいないで、降りて来たまえよ。一緒に昼食にしよう。今日はとびきり腕のいいシェフを呼んであるんだ」


 次の瞬間には、こちらには目もくれず、クラウに話しかけ始めたアッシュ。


 だが、大人しく誘いに応じるようなクラウではない。


「冗談!? そもそも花嫁じゃないし、なるつもりもないわよ!」

「そんなに恥ずかしがることないじゃないか。今すぐにではないにせよ、結婚すること自体はもう決まったことだ。せっかく許婚になったんだから、仲良くやって行こうじゃないか」


 まるで相手の言い分を聞かないアッシュと、それに反発するクラウ。


 これが本来の貴族の結婚観なのだろうか。クラウと一緒にいると、それほど貴族を特別視するようなことはないが、それはあくまで彼女が特別なだけ。


 一般的でないことを通そうとすれば、当然、立ちはだかる壁は大きい。クラウが前にしているのは、そういった大きな壁なのかもしれない。


「どちらにせよ、いつまでもそんなところにいたら体を冷やす。昼食の誘いには乗ってくれなくてもいいから、とにかく降りてきてくれないか?」


 ここで譲歩したのは、アッシュなりの駆け引きなのだろう。それに対して、クラウがどう返して来るのかを試しているのだ。


 クラウの方はと言えば、アッシュの言うことに従うのは癪だが、居場所がバレてしまった以上、いつまでも木の上にいても仕方がないといったところ。


 彼女の中で何を天秤にかけたのかまではわからなかったが、渋々といった感じで、クラウは木から飛び降りた。


 ふわりと舞うスカートの裾をそっと押さえつつ、華麗に着地を決めた彼女に対し、アッシュは両手を叩いて賛辞を送る。


「さすがはオーディスティルン家のご令嬢だ。貴族としての節度を保ちつつ、その軽やかな身のこなし。実に美しい」

「お褒めいただきどうもありがとうございます。それでは、わたくしは彼と用事がありますので、失礼させていただきますわ」


 普段なら絶対にしない貴族令嬢の口調で返事をしたクラウは、おもむろにこちらの腕を取って歩き出した。


 それが気に食わなかったのだろう。


 怒りを露わにしたアッシュが、こちらを呼び止める。


「おい、お前ぇ! 軽々しく僕の花嫁に触れるなぁ!」


 そう言われても、こちらは腕を掴まれている身。がっしりと抱きかかえるように掴まれた腕は、こちらの意思で振り払えるような状態ではなく。当然の結果として、アッシュをより怒らせることになった。


「聞いているのかぁ!? お前に言ってるんだよぉ! お前にぃ!」


 怒りの向く先がクラウではなく、こちらというのがいささか納得行かないが、それでも彼女の心情を考えれば、ここは矢面に立つのもやぶさかではない。


「悪いな、王子様! お姫様は俺をご所望のようだぜ!」


 いっそのこと、怒りの矛先を完全に自分に向けてしまえば、この先クラウの身に何かが起こる確率は減るはず。


 その分、こちらに対して風当たりは強くなるだろうが、元よりいい印象を持たれていないのだから、評判が落ちることもあるまい。


 学園内においても貴族と平民たちとの間の確執はずっとあったのだし、これを機に身分に固執する貴族を炙り出して、まとめて意相手取ってしまった方が、対立構図としてはすっきりするというもの。


 決して楽な道ではないのは承知の上。それでも、民衆の信頼を一手に背に受ける英雄を志すならば、貴族程度に遅れを取る訳には行かない。


 あのアルサンドラの弟子なのだから、これくらいの無茶は背負ってなんぼだろう。


「ああぁ、ああぁ~!! いけないぃ! 貴族の血を、薄汚い羽虫の体液で汚してはならないぃ!」


 よほど頭に来ているのか。アッシュは頭を抱えながら、その場に蹲ってしまった。


 彼が何を考えているのか想像もしたくないが、クラウに肩入れしようと決めた時点で、何らかの負債を背負うことになるのはわかっていたのだから、今更覚悟がブレることもない。


「おい、羽虫ぃ! お前はボクの逆鱗に触れたぁ! もうどこにも居場所があると思うなよぉ! この学園の中だけじゃないぃ! この世界から、お前の居場所を全て消し去ってやるぅ!」


 その一言は、ディクスにとっても、大よそ耐えられるものではなかった。


 逆鱗に触れたのは、アッシュも同じ。


 居場所を奪うということは、これまでに築き上げてきた人間関係すら壊されるということ。


 こちらの大切なものにまで手を上げると、そう宣言されたのだから。ここで立たねば、英雄の弟子の名が廃る。


「アッシュ……。今の一言はよくなかった」

「ああぁ? 羽虫ごときが何を――」

「俺の大切なものを傷つけると言うのなら、お前を殺してでも、止めなきゃならない」


 場の空気が固まった。


 アッシュの燃え盛るような怒気は、冷たい殺意へと変わり、辺りの雰囲気を急激に酷寒の地に変える。


「いけない。いけないな~。こんなことで取り乱すなんて、僕はまだまだ未熟者だ」


 急に冷静な口調に戻ったアッシュだが、向けられた殺意は氷の刃の如く、こちらの喉下に突きつけられているようで。


「クラウディア。その男が君を惑わせているんだろう? だったら僕は未来の夫として、その男から君を取り戻さなければならない」


 クラウが何か言いかけたのを察して、サッと左手で口元を覆う。


「やってみろよ、お貴族様。早くしないと手遅れになるぜ? 何せこっちは下賎の民だからな~」


 売り言葉に買い言葉ではあっただろうが、まさか自分がこんな悪役じみた言葉を発する時が来ようとは思ってもみなかった。


 それでも、こうでも言わないと、クラウが悪役になってしまうかもしれない。


 それだけは何としても避けたかった。


 アッシュが、付けていた白い手袋をこちらに投げて寄こす。


 貴族の風習にはあまり詳しくないが、これは確か決闘を申し込むときの作法だったか。


 これを拾えば決闘を受諾したとみなされ、拾わなければ勝負を前に逃げ出した軟弱者のレッテルを貼られる。


 今更マイナスのレッテルが増えたところで困るような立場ではないが、この決闘は自分のためだけでない意味が込められてしまった。


 ならばこそ、手袋を拾って勝負を受ける他に、選択肢などありはしなかったのである。

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