初めての教え子
コウタは宿で身支度を整えながら、ふと深呼吸をした。
この異世界での生活が始まってから、まだ1日しか経っていないが、彼の中には不安と期待が入り混じっていた。
商家の子どもたちに計算を教える家庭教師の仕事が、初めての正式な依頼となる。
だが、異世界での仕事は、彼にとってこれまで経験したことのないものだった。
「よし…行こう」
コウタは自らに言い聞かせ、宿を後にした。
石畳の道を歩きながら、コウタは周囲の賑わいに目を奪われた。
市場には露天が並び、商人たちが声を張り上げて商品を売り込んでいる。
通りを行き交う馬車や冒険者たちの姿も目についた。
剣や鎧を身にまとった彼らの姿を見て、コウタは自分との違いに少し萎縮するような気持ちを抱いた。
「冒険者って、やっぱり強そうだな…」
コウタは背筋を伸ばしつつも、自分がこの世界で何を成し遂げるべきか、まだ見つけられずにいた。
彼が得意なのは計算や論理的思考だが、それがこの世界でどれほど役立つのか、まだ確信を持てていなかった。
しばらく歩くと、目的地である商家が見えてきた。
立派な門構えと整然とした庭は、その家がただの商人ではなく、名家であることを示していた。
コウタは少し緊張しながら、門番に声をかけた。
「こんにちは。今日からこちらで家庭教師をさせていただくことになったコウタです」
門番は一瞥すると、何も言わずにうなずき、門を開けた。
玄関に入ると、執事らしき男性が待っていた。
年配で、威厳のある立ち居振る舞いに、コウタは思わず背筋を正した。
「こちらへどうぞ。お二人は既にお待ちです」
コウタはその言葉に促され、奥の広間へと案内された。
中に入ると、そこで待っていたのは、14歳のルイスと16歳のリナだ。
二人は椅子に腰掛け、机の上にはノートと筆記用具が整然と並べられていた。
彼らの姿は、この仕事に対して真剣に臨んでいることを示していた。
「はじめまして、コウタといいます。今日から少しずつですが、計算や数学の基本を教えていきますね」
コウタは微笑みながら自己紹介をすると、二人はそれぞれ少し緊張した面持ちで彼を見つめた。
特にルイスは、商家の後継ぎとしての重責を感じているのか、真剣な眼差しをコウタに向けていた。
一方、リナは控えめな笑みを浮かべながらも、どこか興味深そうにコウタを観察しているようだった。
「よろしくお願いします、先生」
と、ルイスが最初に口を開いた。
リナも続いて、少し控えめに「よろしくお願いします」と言った。
コウタは二人の様子を見て、少し安心した。
思ったよりも緊張感があるが、それでも彼らは素直で、教え甲斐がありそうだと感じた。
「まずは基本的な計算から始めましょう。商売をする上で、最も重要なのは、収入と支出を正確に計算できる力です。今日は、その基礎を学びますね」
コウタは黒板の代わりに用意された大きな紙に数式を書き始めた。
基本的な四則演算から説明を始めると、ルイスはすぐに真剣にメモを取り始めた。
彼は計算に対して非常に熱心で、後継ぎとしての責任を感じている様子がありありと伝わってくる。
「例えば、商品を10個仕入れて、それを15個売るとどうなるか。まず仕入れにかかった費用と、売上げからの利益を計算することで、どれだけ儲けが出たかを知ることができます」
コウタが丁寧に説明するたびに、ルイスは真剣な眼差しでうなずきながら、それを吸収しようとしていた。
彼の姿を見て、コウタは自分の教えが少しでも役立つことに安堵を覚えた。
一方、リナの様子は少し違った。
彼女はコウタの言葉を聞きながらも、どこか上の空な様子だった。
時折、筆を動かすものの、明らかに計算自体にそれほど興味を持っていないように見える。
コウタはそれに気づきながらも、彼女のペースに合わせることを心掛けた。
「リナさん、計算が苦手ですか?焦らなくて大丈夫ですよ。ゆっくりやっていきましょう」
彼がそう声をかけると、リナは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに小さな笑みを浮かべた。
「先生、優しいんですね。私、正直言うと、計算ってあまり好きじゃないんです。社交の場に出る前に覚えておかなきゃいけないって母が言うから…」
その言葉に、コウタは少し困ったように微笑んだ。
「そうですか。でも、計算はただ数字を並べるだけではなく、日常生活でも役立つんですよ。例えば、パーティーで何人に料理を出すかを計算することだって、すごく大事です」
その例を挙げた瞬間、リナの表情に少し興味が戻った。
どうやら彼女は実用的な例を出されると、少し興味を持つようだ。
「そうですね…そう考えると、計算ってそんなに悪くないのかも」
リナの反応を見て、コウタは内心で安堵した。
彼は教師としての役割をしっかり果たさなければならないという責任感を感じつつ、彼女の学びたいという気持ちを引き出せたことに満足感を覚えた。
その後も授業は続き、ルイスはますます計算に対する理解を深めていった。
リナも最初は乗り気ではなかったものの、少しずつ興味を持ち始めているように見えた。
授業が終わりに近づく頃、突然リナがコウタに問いかけた。
「先生、こんなことを聞いてもいいですか?どうして先生は冒険者にならないんですか?」
不意の質問に、コウタは少し驚いた。彼女の目は、純粋な好奇心に満ちている。
「冒険者ですか?うーん、僕には戦う力がないんです。計算や理屈は得意ですけど、剣を振ったり、魔法を使ったりは無理だと思っていて…」
コウタが答えると、リナは少し考え込むようにうつむいた。
「でも、先生はすごく頭が良いし、他の人とは違う感じがします。なんだか、先生が本当に戦ったら、ものすごく強い気がするんです」
「はは、それは買いかぶりすぎだよ。僕はただの計算好きな理系オタクだからね」
と、コウタは冗談交じりに答えたが、その言葉がどこか引っかかっていた。
授業を終え、コウタは商家を後にした。
ルイスもリナも、予想以上に真剣に学んでくれていることに満足しつつも、リナの言葉が頭の片隅に残っていた。
宿に戻る道中、コウタはふと立ち止まった。
自分がこの世界に来てから、まだ短い時間しか経っていないが、計算だけを教えることが本当にこの世界で生きるための道なのか、迷いが生じ始めていた。
冒険者ギルドで見かける彼らの逞しさや強さと自分の無力さを比べてしまう。
だが、コウタにはまだ何か決定的なものが欠けているように思えた。
「僕に、戦う力なんてあるんだろうか…」
彼は自分に問いかけながら、再び宿へと歩き出した。
この世界で自分が何をすべきなのか、まだ見つけられずにいたが、その答えはきっと近づいているはずだと感じた。
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