第76話
私にとって絵を描くことは呼吸するのと同じだ。
描けなくなったら呼吸が出来ない死の苦しみだろう。
追い詰められた自分だって何をするか分からない。
ましてやレイトさんは画家で絵を描いて生きていた人。
だからこそ頭の中の『もしかして』が離れなくなっていた。
私は目をギュッと瞑って『もしかして』を頭から追い出した。レイコとナオヤに警戒しろと執拗に言われたせいにきまってる。
「大丈夫ですか? 今日はもう終わりにしましょうか……」
「あっ、はい」
今の感情のままデッサンなどしたら恐ろしい絵が描けてしまいそうだ。
それに、あれ? なにか忘れている気が――
「そうだ! 鰹節!」
「かつおぶし? 料理に使うのなら、キッチンの棚にあった気がするな。確認してきますから……」
「大丈夫です! あります。お礼なんです」
カウンターの奥にあるキッチンに向かおうとするレイトさんの背を呼び止めた。
振り返ったレイトさんは不思議そうに首を傾げた。鰹節とお礼で何を連想できるだろうか? 言葉の足りない部分を補った。
「公園の猫にモデルをしてもらったお礼なんです……あの、レイトさんのお礼がまだなのに御免なさい」
話す途中で思い出した。猫より後回しって気を悪くしたかな。
私はもう一度、蚊の鳴く声で「御免なさい」と謝った。
「フフッ、猫でしたか。僕へのお礼はもう十分ですよ。話を聞いて僕の代わりに泣いてくれてありがとう」
優しく微笑むとレイトさんは背を向けてカウンターの中に入り、冷蔵庫から何かを取り出して包んでいた。
包んだものを紙袋に入れながら「送ります」と私の隣に戻って来た。
「今日は公園にも寄るし、悪いんで本当にいいです」
ただ送ってもらうだけでも申し訳ないのに、自分の用事にまで付き合わせるのは論外だ。
「駄目です。人気のない公園に一人で行くなんて危ないですよ! 怖がらせる訳じゃないですが、変質者に狙われてるかもしれないんですよ? 嫌だと言っても付いて行きます」
「嫌だなんてそんなこと……ごめんなさい。お願いします」
私が頭を下げて顔を上げると、レイトさんの眉間にあった皺がなくなり、満足そうな笑顔を浮かべていた。
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