第74話

忘れてはいけない、あの日の事ーーー。


「サインでも何でもするーー誰にも言わないで!」

そう頼み込んで来る麗香の手を、怒りに震える手で掴み、結希は歩き出した。


「どこ行くの!?。放して!」と麗香は強く抵抗している。

結希は更に強く麗香の手を掴み返し、引き寄せ、「誰にも言われたくないんでしょ?」と麗香を振り返り睨(にら)んだ。

結希の突き刺すような目に麗香は頷く事しか出来なかった。


結希は麗香の手を掴んだまま建物と建物の間を通り、今はもう廃墟と化したあるビルの屋上へと続く階段を一言も喋らず上って行く。


「こんな所に来て…どうするの?」と麗香は足を縺(もつ)らせ、転んでしまった。

結希は今にも泣き出しそうな麗香の前に立ち、麗香を見下ろしている。

「どうすれば許してくれる?何でもするから!お願い許して!」

足元で頼み込む麗香の姿に、「本当に何でもしてくれるの?」と結希が言う。

「何でもするわ。それで許してくれるなら!」

「じゃあ、手紙を書いて…。」

結希にそう言われ、ポケットの中から携帯を出し、「住所、教えて。すぐに書いて送るわ。」と麗香は立ち上がろうとした。

その麗香の肩を押し下げ、「今から言う事を書いて欲しいの。」と結希が言う。

「あなたが言う事をーー今、ここで?」

麗香は鞄の中から手帳のメモ用紙を契(ちぎ)り出し、ガサガサと何かを探している。

不安一杯な表情のまま結希を見上げ、「ペンが無いの…。」と麗香は言った。

「それでも芸能人なの?サインするとか言って、ペンも無いんじゃない!」

結希が大きく肩で息をし、自分の鞄の中からペンを取り出し、麗香に投げ渡す。

そのペンは、さっき幸のライブ会場で買った限定のカラーペンだった。

「ごめんなさい。」とそのペンのパッケージを開け、ギュッとペンを握り、「何て書くの?」と麗香はメモに向かう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る