花の色


漫画ならそうやって終わるのだが某曲よろしく俺たちには明日があるわけで。

今日は昨日、明日だった日──土曜日。


俺は今、紫乃の住んでいた家の前──お店の建物の前にきている。制服姿で。


ここに来るにあたって、スーツの方がいいんじゃないかと相談したが「けど学生の正装って制服でしょ?」とあっさりした様子だった。


「アオイくん、なにその紙袋?」


時間は昼過ぎ。

お店の前の駐車場には車も一台も止まっておらず、秋の昼過ぎの穏やかな光の中に紫乃の住んでいた、建物がある。歌声や物音などは聞こえない。昼間の穏やかな空気感。


「手土産だよ」


ふう、と胸を撫で下ろした俺に、行こう、と紫乃が言った。

ここに来ようと言ったのは俺なのに、いざ目の前にすると足が重い。

足の重い俺の体を、紫乃の細い手が引いた。


「大丈夫大丈夫」


それを言われてしまうなんて世話がない。

二階に繫がる階段を登る。こうして登ると、手すりの塗装は剥げたり所々茶色く錆びていて、この建物の年季が分かる。


階段を登り終えた一室の扉の前で紫乃が止まる。表札はなかった。押すところの色が禿げたインターホンを押した。


返事はなかった。

ただ、扉と壁の向こうから響くような足音が聞こえた。

かちゃ、と鍵が回る音がした。

扉が開いた途端に──香水の香りがした。


「…………ああ、来たの」


スウェット姿で扉から出てきたのは──紫乃の母親。

怯みそうになって、唾を飲み込んで俺は頷く。


「はい。ご挨拶とお願いに伺いに参りました」


噛んでなかったよな。ちゃんと言えたよな。




俺たちは昨日あれから市役所に行った。

手を繋いだ勢いのまま、市役所の窓口に飛び込んだ。

──婚姻届、ください。

すぐに出しますと言ってもらった俺たちに、役所の職員は少し首を傾げながら渡してくれた。

首を傾げていた理由は、初めて目にしたその茶色の罫線の紙の一項目でわかった。


「……あ、証人」


十八歳。

成人扱いになって一人前の大人と認められる年齢。

男女ともに婚姻も認められる年齢。

女性が十六歳から結婚できた頃は、未成年の場合は親の同意が必要だったらしい。

けれど法は変わった。──俺に、俺たちに都合よく変わった。


だから、親の同意はなく結婚できるのは知っていた。同意や保証人とはまた違う──証人。

婚姻を見届ける人。


「今その辺にいる人に名前を書いてお願いしてもいいぐらいだけど、どうする?」


そう聞いた俺に、紫乃は言った。


「え、やだ」


「…………まあ、そうだよな」


そうは言うものの──言葉に出して確認はしなかったが俺たちの意思は同じだった。

早く結婚したい。

学校に引き返して友だちに頼む? と腕を組んで唸りあって、俺はふと思い出した。


「……そうだ、俺、とりあえず親に報告するわ」


海外にいる親に。

なんて言おう──シンプルでいいな。


向こうはまだ朝早いだろうに、父親はワンコールで出た。挨拶なんていらないな。


「俺、結婚するから」


俺の言葉に、すぐに父親はいいんじゃんと言って喜んだ。お前の選んだ女の子なら素敵な子だろう、と言って、どんな相手かは深くは聞いてこなかった。


『向こうの親御さんは?』


ちょっと揉めちゃってて、と言うと、そこで父親の言葉は間があった。

──向こうの親御さんに証人欄を書いてもらいなさい、と。


『それを説得してみせろよ』


「いや、それは……」


じゃあな、と。俺の返事を待たずに電話は切られた。

切れたスマホの画面を見つめる俺を、なんだって? と紫乃が覗き込んだ。


俺が父親の言葉を歯切れ悪く話すと、なるほどと頷いた。


「アオイくんの親御さんの言葉だからなあ……」


考える素振りをして、腕を組んで唸り出した紫乃に提案をする。


「とりあえず、家に帰らない? ……俺たちの」


名義は確かに親のものだけど。けど確かにあほこは俺の家で──それからは彼女の家だ。


「とりあえずこれで、いつでも出せるな」


手に持った紙をひらひらとさせて見せると、うん、と言って、少し照れくさそうにはにかんだ。





その日の夜、紫乃の作った味噌汁を飲みながら考えた。


──現実問題。

引っ越すにも学費を支払うにも手続きが必要になる。

書類上のことを一方的に変えるにしても、元々籍を置いていた紫乃の母親のところには報告が必要だろう。


あんなふうに飛び出してしまったが。

それでもやっぱり向き合うべきなのだ──と、俺は紫乃に提案した。


「明日、紫乃のお母さんのところに行きたいんだけど」


不安?

そう聞くと、紫乃は首を振った。


「もう怖くないよ。帰れる場所ができたから」


一緒なら大丈夫だと言ってくれた紫乃に、俺も微笑んだ。


そうだ。俺が怯むな。

──もう大人だろ。


何持っていけばいいと思う?

そう聞いた俺に、紫乃は酒の名前を教えてくれた。

──明日か、なかなか……大変だな。




というわけで、朝早く一人で銀行に行ってそれから酒屋に行き、紫乃と合流してから俺たちは彼女の親に会いにきたのだ。




「こちら、お好きだと伺ったので」


俺が取り出したお酒に、母親は驚いた顔をした。


「売ってたの?」


「売ってもらいました」


なに? と俺と母親の顔を伺う紫乃に、母親が説明した。


「もう買えない──ファンの多いお酒なの」


その酒は、製造中止になっていた珍しい酒だった。

ニュースをあまり見ない紫乃はその名を聞いても……言ってもピンと来ていないようだったが、俺は名前を聞いた瞬間に「大変だな」と思ったのだ。


「商店街の酒屋さんは非売品にして飾ってあったに」


「めちゃくちゃ頼みました」


俺がそう言えば、持った酒瓶をまじまじと見つめた。


その酒は、春に生産中止が発表されると、市場の値段は高騰し、希少価値の高いものになった。

コレクターや酒屋の人間なら、売らずにとっておこうとする銘柄だ。俺はそれを──以前、百貨店で出会ったことがある酒屋の主人に頼み込んで譲ってもらった。


「いい銘柄を教えてくれよ」俺の株式予想と引き換えに。


「……このお酒があるってだけで、いい呼び水になるわ」


それはよかったです。

水じゃなくて酒ですよ、なんてダジャレを思いついたがそれを言う勇気はない。


「で?」


俺を見た瞳は──やっぱり紫乃の面影がある。

用件を聞かれている。

昨日立ち去った手前言いづらい。

なんてことは言ってられない。


「紫乃さんと結婚します」


つきましては。

そう言いながら、紙袋に入れていた婚姻届を取り出す。もう俺たちの名前は、書いてある。


「婚姻届の証人をお願いできないかと……」


突き返されるかもしれない。

破られるかもしれない。

扉を閉められるかもしれない。


母親は紫乃を見た。

紫乃はまっすぐに母親を見た。

はあ、と吐き出された溜め息が昨日より優しい気がするのは──昼間だからだろうか。


「もう今更何言ったって変わんないでしょ……っていうかもう変えられないでしょ」


ペンはある? と聞かれてすぐに差し出した。

俺の手から紙とペンを受け取ると、玄関の壁を支えに書き出した。


「じゃあこれは、受け取り印ってことで」


そして返された茶色の罫線の紙。

その証人欄には、紫乃と同じ苗字の名前があった。


「……ありがとう、ございます」


正直驚いた。書いてもらえないかもしれない。

その時は強引に事後報告にしてやろう、なんて考えていたから。


「以後、各種手続きはこっちで……保証人が必要なことがあればうちの親が」


俺がまだ中身の入っている紙袋を渡そうとすると、その手は軽く制された。

見せていないのに中身を分かったようだった。

そのうえで、いらないとばかりに軽く制された。


──馬鹿にして用意したわけじゃなかった。

ただ、通過儀礼として渡そうとしたのだ。

それでも受け取られなかった。


「もうもらった」


──俺が渡した酒は、結納として受け取ってくれたようだった。だからもう、差し出すのをやめた。


「あんた有名なお金持ちなんだってね」


突然言われた言葉に、俺はいつものように返事をしようとする。


「いや、お金持ちってわけじゃ……」


ない。

……そう言おうとして、やめた。


「まあ、そこそこ。……努力しました」


俺が持っているそれは武器でもあることを知っているから。今は隠すのをやめた。


「昨日お客さんからこの町に有名な投資家がいるって聞いたのよ。ああ、そう……そうなの」


後半の頷きは独り言のようだった。

まるで自分を納得させる独り言。


トンビも鷹に選ばれるのね」


なんだよそれ。

その言葉を諌めようとして、口を開いたのに、お母さんとか義母とか色々考えてしまったせいで咄嗟に呼べなかった。


お母さん、と呼んだのは紫乃だった。


「…………トンビってね」


お母さんと呼んだ紫乃を──おかあさんは今日は諌めなかった。


「漢字でね、鳥って部首の上にいぐるみっていうんだけど、それ、狩りの道具を表すつくりなの」


へえ。


「狩りが上手い鳥なの」


…………へえ。


そう言った紫乃が俺を見たので、俺は捕まったと表すように両手を小さく上げた。

なるほど参った。──狩られたよ。


「はっ」


昨日と同じように、おかあさんは笑った。


「よく分かんない」


紫乃は顔を歪めなかった。

ただ眉尻を下げただけだった。


「分かり合えなかったわね」


優しくない口調だ。けれどきっと、


「血が繋がってても、多分他人の距離感が合ってた。だから」


これは優しさだ。


「二度と戻ってこないで」


「……ありがとう」


紫乃は微笑んだ。


その微笑みを見てから、母親は何も言わなかった。

漫画なら、ここで俺が何かかっこいい言葉をビシッと決めるんだろうが、そんな言葉は出てこなかった。


申開きも謝罪も和解も別れの言葉もなく、一つの家族が住んでいた部屋の扉がしまった。


「ありがとう、アオイくん」


──というわけで、保証人の欄が一つ埋まった。


「今からどうする?」


「…………指輪でも、見に行こうか」


俺たちは階段を降りた。──手を繋いで。

紫乃のいい笑顔に、俺も同じ顔を向けた。



***



むしろいい顔をしなかったのは学校側の方だった。


月曜日に登校した俺たちは、朝から校長室に呼び出された。

というか校門を潜った途端に捕まった。


日当たりの良い校長室で、滅多に会わない校長と、なぜかもっと滅多に会わない教頭。

それと、俺と紫乃の後ろに──老眼鏡をかけた担任と、美化委員の教師がいた。……まるで味方をするような立ち位置だな。


「話は聞きました」


重厚な机の上に肘をついて、組んだ手の上に顎を乗せて、校長が言った。


「学生同士だなんて無責任な結婚を認められません」


傍に立つ教頭が頷いた。


「そもそも不純異性交遊ではありませんか」


校長が頷いたのを見て、教頭が言葉を続ける。


「葉賀さんのご事情はわかりますが、他に頼れるご親戚などはいなかったでしょうか? もっと……」


「恐れながら」


教頭の言葉を遮ったのは美化委員の教師だった。


「昨年できる限りの対応は致しました。その上で尽くせる手がなく、葉賀さんは──……ギリギリ留年で学校に留まることができました」


俺は紫乃の顔を伺う。

えへへ、なんてはにかんで「そうでしたね」とその教師に小さく言った。


「去年はありがとうございました」


いえいえ、と美化委員の教師が軽く合図した。


「去年の担任の先生だったの」


と紫乃が教えてくれた。

なるほどなあ。

小声で「いい先生なんだ、だから今年は美化委員にしたの」と教えてくれた。知らなかった。


俺たちの私語に、校長が咳払いをした。

それを聞いた教頭が、とにかく、と口を開いた。


「しかしですねえ、まだ子どもですよ? 現実問題、親がいないと生活も……」


「せんせー、僕家賃自分の収入で払ってます……」


なんなら親を海外生活させたの俺の収入。


「せんせー、生活を困難にしてくる親もいます……」


紫乃が同じように言った。

悪ノリしてくるなよ。しかも突っ込みづらい内容だな。


「…………ちょっときみたちは特殊だねえ……」


組んだ手に目元を沈めた。

老眼鏡をかけた担任教師が口を開いた。


「校長先生、校則を理由に婚姻を認めないというのは、法律で制定されていることが不純になるということになります」


──頼りないと、今まで思っていたのに。

こんな心強く、味方になってくれると思わなかった。


「第一、もう彼らは成人です」


国が認めた、一人前のお店です。

そう言うと、先生たちは顔を見合わせた。


「大人の意思決定を妨げることは……同じ大人としてどうなのでしょうか」


その言葉に、校長と教頭たちは言葉を返さなかった。



***



「ありがとうございました──」


俺と紫乃は、先生と一緒に教室に向かっている。

本来ならホームルームが始まる時間の廊下は、いつもより静かだ。

そこを歩きながら、俺は老眼鏡をかけた先生に言う。


「──先生」


いえいえ、と軽く手を振った。


「プリント配るの適当で悪かったねえ」


今ではそれに感謝したいくらいだ。

そこで俺は思いついて、紫乃の顔を見た。

目があった紫乃も──同じことを考えたようだった。頷き合って確認して、婚姻届を差し出した。


「先生、俺たちの婚姻届の、証人になってください」


俺が差し出した婚姻届を、担任は受け取った。

俺と紫乃の名前と──ひとつだけ埋まった証人欄。ひとつだけ、最後の空白。それを見て頷いた。


「わかりました」


やった! と紫乃が手を叩いた。


「……とりあえず教室に入りましょう」


もう俺たちは、教室の前に来ていた。


担任が教室の扉を開けた。

その瞬間、音が弾けた。


「おっきたきた夫婦!」


わっ、と拍手と歓声で迎えられる。


「クラスのヒロインを嫁にしやがって!」


「紫乃さん! 金持ち捕まえたねー!」


なんて好き勝手なことをどいつもこいつも言っている。


俺と紫乃は空いていた自分たちの席に座って、それぞれ席の近い奴らに小突かれたり囁かれたりする。


担任が、教卓に婚姻届を置いて、一際大きな口調で言った。


「先生が二人の婚姻届の証人欄を書かせてもらあことになりました──」


「え! ずるい! 俺も書きたい!」


そう言ったのは、一学期に俺の右斜め前の席だったヤツだ。

担任が、老眼鏡を親指でくいと持ち上げて、レンズが朝の日差しで光った。


「え、あんたが書くなら私も書きたいんだけど!?」


紫乃の前の席の女子が立ち上がった。


「え!? じゃあみんなで書かない!?」


なんでだよ。


「いや、証人欄ってふたつしかないし……一つはもう書いてあるし……」


「……何人でもいいんですよ」


意外な声の主は──担任だった。

老眼鏡でスマホを見ながら、賑やかな俺たちに言う。


「欄外に書いてもいいんです。三人目、四人目……二人以上であれば、何人未満という定めはなくて、何人でもいいみたいです」


そうなの?

担任の言葉に、教室中がわっと沸いた。落ち着け。

まさか全員で書く気かよ!?


「で、どうやら人数が多い場合は割印を押せば別紙に書けばいいみたいです。というわけで──」


担任が俺たちの婚姻届を掲げた。

黒板を背景に、茶色い罫線のその白い紙はよく映える。


「十八歳以上の人は、この婚姻届に名前を書いてください」


これが一時間目の授業です。

そう言った担任の言葉に、また教室が拍手と歓声で沸いて──俺と紫乃は、顔を見合わせた。



「くそー! 誕生日まだ先だー!」


そんなこと言ってるヤツもいたから、十八歳未満のヤツらには役所には出さない別紙に名前を書いてもらうことになった。記念として。


教室の前にある教卓に婚姻届と紙を置いて、その前に俺と紫乃が立つ。そこに前の席のヤツらから順番に名前を書きにくる。

名前、生年月日、住所と本籍地。

みんなが俺たちの前でペンを取って、紙に書いていった。


「おめでとうー!」

「おめでと! 二人とも!」


全員の記名が終わって、教室は拍手で包まれた。

教室の窓から冷たい風が吹いて、紫乃の長い髪をさらった。──季節外れの甘い匂いが鼻につく。


長い髪を耳にかけて、紫乃が隣に立つ俺に言った。


「まるで、結婚式みたいだね」


ああそうか。

なら──後で、白いカーテンをベールに見立てて誓いのキスをしてやろうと、俺は決めた。


ロマンチックが好きなんだろう?

ウェルパが高いじゃないか。悪くない。

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