青-3




ユートピアは仮想の国。

モラトリアムは短い時間。

国を追い出されタイムリミット。

次に俺たちはどこに行かばいいんだ?



あの日彼女とともに、俺もいつのまにかソファで眠ってしまっていた。


朝起きると、触れ合っていたわけでもないのに、家の中の空気がくすぐったくて会話は少なかった。


それでも気まずいものではなかった。


その日から彼女は──自分をお姉ちゃんだと言うことはなくなった。



***



次の授業は世界史だった。

たまたま出席番号で手伝いを頼まれた彼女は、一番前俺の席まで来ると、髪を一筋耳にかけて言った。


「教材室に荷物取りに行くんだけど、手伝ってくれる?」


お願いしてもいい?

そう聞いてくる口調は、どこかぎこちないし、顔は少し不安げだ。


「……なんか笑ってる?」


笑ってないよ。


「もちろん」


俺は立ち上がった。


「あの場所のプロジェクター、取りづらいよな」



***



彼女が家にいる間、葉っぱちゃんの配信はもちろんなかった。

自分が描いた絵を見られないのは残念だが、それを見られない残念さよりもそれをしなくてもいい安心感の方が上回っている。


彼女にとって配信は癒しで、逃避だった。


俺の家の中にはスピーカー越しじゃない彼女の声が聞こえていて、俺は見もしないテレビの電源をつけなくてもよくなった。


それでも彼女はウキウキでテレビをつけるから、室内のBGMはもっぱらニュースなのだけれど。


一緒に買い物行った次の日から、朝食には毎回味噌汁が出てきたし夕食は米を食べるようになった。


「アオイくんちょっと太った?」


ほっとけ。


「私はちょっと……あ、うん、なんでもない」


なんだよ。


「やだ。えっち」


何も言ってないだろ。



そんな風に過ごしたのは、四日だった。

米はまだまだあるし、冷蔵庫にいきなり増えた食材や調味料はまだまだ減っていない。


今日は金曜日。

ホームルームを終えて、今週も終わりだ。


紫乃は女子たちと買い物に行くらしい。

放課後遊びにいけるなんて嬉しいなあ、と言っていた。その姿には安心するものがあった。


家で待ってようか、解散する頃に迎えに行こうか──そんなことを悩みながら、女子たちの少し後ろを歩きながら校門を目指す。


秋の日差しは穏やかで、夕暮れに向かって冷たくなっていく。


放課後のチャイムが鳴って、部活のない生徒たちが話しながら校門に向かっていく。

鈴のような笑い声が、枯れ葉を踏む音を上書きする。心地の良い風だった。

風が吹いて、彼女の髪が靡いて、その声はよく聞こえた。


「紫乃」


今見つめていた背中の持ち主の名前だったから、はっきりと気付いた。


周りにいた女子も足を止めた。

その中にいる紫乃だけが、強張った顔で固まる。

周りの女子たちは誰だろうと伺うようにその女性を見る。


「ここ数日どこの誰と何をしたのか知らないけど、団体さんの予約入ったから帰るわよ」


いきなり告げる要件に、強張る紫乃とその女性がどんな間柄なのか予想がついた。


「……お母さん」


予想通りの言葉を言って、紫乃が顔を上げた。


「外でお母さんお母さん言わないで」


はあ、と吐き出された溜め息は秋の風より冷たかった。

それでもその顔は、確かに紫乃に似ていた。


「私に似て顔だけはいいからなんとかしてるとは思ってたけど、そんな元気そうならしっかり仕事もできるわね」


長いウェーブがかった髪がかけあげられて見えた目元が疎ましそうに細められる。


「あんた目当てのお客さんもいるんだから、店にいてもらわないと」


その言葉に、紫乃が目を伏せる。

周りにいた女子たちが、心配そうに彼女を見た。

ごめんね、と軽く笑う。


「ちょっと、先行ってて」


そう言われて女子たちは一歩引いた。

彼女と、母親から一歩下がる。

それでも先には行かなかった。

何かあれば助けるよ、と言わんばかりに、少し離れた後ろにいた。

──きっとそれは、彼女に力を与えてくれた。


「いやなの」


だからきっと、彼女はそう言えた。


「手伝いはする……お皿洗うのもお料理もする、掃除だってちゃんとやる、だから」


彼女の背中を押すのは本来俺の役割だった。

その予定で、俺は彼女を家に呼んだ。

──向き合える力を溜めてから、伝えようと。


「接客は休ませてほしい……」


予想外のタイミングだったが、彼女はしっかり対峙して、伝える。

嫌なの、と子どもみたいに言って。

だから、と大人のように提案する。


「嫌なこと言われても笑わなきゃいけないのはわかる。けど触られそうになったり……カラオケのデュエット強要されたり……それを遅くまでするのは、ちょっと──しんどい」


最後に崩れそうになった声のトーンで、決死の覚悟で言ったんだと伝わった。


そうだよな。

しんどいことを、しんどいと言うのはしんどいよな。

よく言えた、と思った。


──言えば伝わると思っていた俺が、やっぱりガキだったか。

次の母親オトナの言葉は、声のトーンは変わらなかった。


「そういう人の売り上げで学費だって払えてるのよ?」


ずるい。

ずるいだろ──それを言われたら黙るしかない。


紫乃が、ぐ、と息を飲んだ。

それから俯いた。まるで引っ叩かれたかのように俯いてしまった。

矢継ぎ早に投げられる言葉が、またその頭を叩く。


「わがままばっかり言わないの! 子どもじゃないんだから!」


長い髪で隠れて、俯いた顔の表情が見えない。

勝手だろ。

そう思うんなら──子どもじゃないと思うんなら、話を聞いてくれよ。


彼女が戦った。次は俺の番だ。


「すみません」


一歩踏み出して声をかけると、紫乃の母親が俺を見た。

きっと紫乃が歳を取ったらこんな感じなんだろうな──苦労をして歳を取ったら、だけど。


「俺が──俺が紫乃さんを、家に泊めてます」


……息を吸え。言葉を構えろ。


「連れ出してすみません。けれど、家にいるのが辛そうな彼女を見ていられませんでした」


彼女の周りの女子が一瞬色めき立った。それからすぐに、そんな場合じゃないと表情を戻した。


「はっ」


嘲るような母親の声に、ぐっと固まった。

どんな言葉を言われるかと身構えた。

なのに、向けられた言葉は俺へじゃなかった。


「立派ね。ちゃんとじゃない」


娘に──子に言う言葉かそれは。

紫乃は俯いたままだ。母親は唇を歪めて言葉を続けた。


「なら高校生相手じゃなくて大人にしてほしいもんだわ。……っていうかちゃんと媚を売れるなら店でも売りに出してくれたらいいのに」


「……紫乃さんは」


怯むな。俺。


「それが辛いとおっしゃってましたけれど」


「そういうところに生まれたんだからしょうがないでしょ」


一笑に付されて一蹴される。


「うちはうち。お宅はお宅ね──ほら、行くわよ、紫乃」


母親が紫乃の手首を掴んだ。

色の塗られた長い爪に、長袖でよかったな、と思った。


「…………いや」


それは小さな声だった。

それでも、強い秋の風にさらわれない強さがあった。


「帰らない」


「だから、子どもじゃないんだからわがまま言わないの」


諍いをしている様子は遠巻きに他の生徒たちに見られていて、誰かが教師を呼んだのか、教師たちが気がついたのか──校舎の方から教師が駆け寄ってきた。


「どうかなさいましたか」


駆け寄ってきたのは、美化委員の教師だった。いつもタイミングがいいな。

教師を目の前に、紫乃の母親が微笑んだ。


「ちょうど良いです」


制服を着ていない──大人同士の会話。

大人が何と言うのか、俺たちは黙る。

風が木を揺らす音がして、靴に枯れ葉がぶつかってきた。


「この子、学校辞めます」


俺はその枯れ葉を踏む余裕もなかった。


「ずっと言わせようと……言おうと思ってたんです。もう留年してるし、どうせいいでしょ、この子は学校やめます」


紫乃は呆然としている。

いや、慄然としたいるようだ。顔に血の気が引いている。


いやいやお母さん、と教師が止めても、母親は言葉を止めなかった。


「どうせ卒業したって進学なんかさせるお金ないわよ。このまま働くだけなんだから中卒でだって変わりません」


「大学はともかく、せめて高校は……」


「どうせ馬鹿な私の子なんだから、勉強なんかできないわよ」


「いえお母さん、紫乃さん成績……」


ああけっこう食い下がってくれるんだな、と教師を少し見直した。俺のポイントを上げた教師の様子も、紫乃の母親にはまったく響いてくれない。


「どうせ一度やったところだから点数取れてるだけでしょ」


トンビの子はトンビなんです、なんて。


確かに調子は悪くなってると言っていた。けどそれは、勉強する時間を与えられなかったからだろ。


トンビだって餌の取り方を学ばないと生きていけないじゃないか。学習しなければ腹を満たせられないじゃないか。


「ほら、帰るわよ。人数多いから準備が大変なの。だから早く帰るわよ」


「帰りたくない」


掴まれた手首を振り払うようにして紫乃が


「学校だって辞めたくない」


「ないない言わないの! ほんとにほんとに──子どもはワガママばっかり」


はあ。

紫乃の母親が溜め息をついて、息を吸い込んだ。


「卒業できなかったのはあんたが悪いんじゃない、こうして留年させてあげたのに言うことも聞かなくて!」


「だから、お皿洗いとか料理とかはやるって!」


「あんた目当てのお客さんが来るおかげで、そのおかげで学費が払えるのよ!」


母親は強い口調で言い続ける。


「良さそうなお客さんにも下手くそな対応して逃しちゃって、ちゃんと考えてるの!?」


そんなもん知るかと言えばいい。

──けどそんなわけにはいかない。

だって俺たちは、そういう立場なんだから。


「もういいわよ。学費は払わない──だから辞めるしかないんだから……家のこともやらずに学校いかせてもらおうなんて、そんなムシのいい話許さないんだから」


そんなの、無私な話だろう。


「どうせあんたは」


紫乃の母親は、言い含むように言った。

その目の中にはきっと、鏡のように紫乃が映っている。


「私の子なんだから」


くしゃりと、紫乃の顔が歪んだ。

泣きそうだと思う。ずっとさきから、泣き出した方が楽そうだった。


……それでも紫乃は黙らなかった。


「わかってる。わかってる──でも」


ひどいことを言うけど、と紫乃は前置きした。

それでも言うのをやめなかった。


「でも、嫌なの。それが嫌なの」


こんな家族じゃ嫌なの、と紫乃が言った。

紫乃の手首を掴む母親の顔が、くしゃっと歪んだ。……ああやっぱり、紫乃とは似ていないかもしれない。


「あんたねえ、ずっと子育てなんてコスパの悪いことをしてきた親に向かって!」


「そんなの知らない」


紫乃が俺を見た。


「アオイくん」


そのピンク色の唇が動いた。


「お願い」


大人たちの目がある中でも、俺を選んでくれたその言葉。


「なんとかしてほしいよ」


具体的なことも何もない。それでもそれは助けを求める言葉だ。


「わかった」


そんなの、俺が守らないわけにはいかない。


──制服を着ていても、高校生でも、他人でも、どうにかできないか考えていた。


「お母さん」


俺には俺なりの戦い方があって、そうやって大人と戦ってきた。

経験値は積んだ。

足りなかった年齢も──あのプールの前で星の話をした日に、もう達した。


「紫乃」


何を言うんだと伺うような目で、周りの奴らも俺を見た。

紫乃の瞳は、飼い主を見る犬のようだった。

母親の目は、子どもを疑うような目だった。


どんな目に見られても、今からいう言葉は変えない。

どんな目にあっても、曲げないと考えてた俺の決意。



「──俺と結婚しよう」



「………………え?」


それは紫乃の声だった。

きょとんとした紫乃に言葉を続ける。


「親は選べないし、子だって──子だって選べないけど、結婚相手は自分で選べる。自分で決められる唯一の家族が結婚相手だ」


だから。


「だから、俺を選んで。紫乃」


手の届く距離にいるから。

今度は俺に手を掴ませて。


「今すぐ結婚しよう」


手を伸ばした俺に、横殴りに母親の言葉が降った。


「何言ってんの、子どものくせに!」


「子どもじゃないです」


そうだ。もう俺は子どもじゃない。

未成年じゃない。


「もう十八歳の、成人ですよ」


「……アオイくんくん、いつ……?」


それは誕生日をいつ迎えたか、という質問だとすぐに分かった。

彼女の疑問はもっともだ。だって夏休みの出来事の段階で、俺はクラブに入る資格を満たしていなかった。


……さすがにこんな衆人環視の中で夜中に会いに行った日、とは言えない。


「あのプールの日だよ」


星を見たろう──一緒に日付を超えただろう。

特別な日だったから、浮かれてたガキっぽい俺を見ただろう。


「……ふざけないで」


耳が痛いな。

声のせいじゃない。──コスパなんて言葉のせいだ。


「誠意をわかりやすく見せましょうか?」


「は?」


「結納金ってことで、今度お見せしましょう」


……一応これから義理の親になるかもしれないからな。ちょっとだけ猫を被ろう。笑え。──笑え、大人なら。笑えないところでも、自分を強く見せるために。


「僕、これでもけっこう甲斐性あるんですよ」


自分のために。──彼女のために。

紫乃を見た。安心させたくて微笑んだ。


「学費だって、これからのことだって俺が払う。愛に──」


これは自戒だ。

決して嫌味じゃない。


「愛だけは、コスパなんて言っちゃいけないんだ」


それでも今からするのはパフォーマンスだ。

ロマンチックなことが好きだと言っていた──お前への。


「指輪がなくてごめん」


きっとダイヤモンドの指輪が欲しいだろう。

調べたんだぞ、お前の誕生月の宝石はダイヤモンドだって。


けどそんなの、こんなすぐに必要になるとは思ってなかったから、さすがに持ってはいない。

──だから。


「花がほしいって言ってたけど」


ハンカチを借りたとき。花でも添えて返してくれたらいいよなんて言っていた。

花とか星とか、ロマンチックなものが好きなんだよねと言っていた。


「花さえ今は持ってない。けど──」


けどごめん。そんな花さえも今は持っていない。

──だから、その代わりに。


「俺の苗字、もらってよ。小田巻──オダマキって花があるんだよ」


苗字を変えさせる前提なんて、今の時代ダメなのかもしれない。けれどそれでも、今渡せるものはそれしかなかった。


今の俺が、彼女に渡せるものは、この身とそれを表す名前ぐらいしか持っていない。


「お前のお願いはきっと叶えてみせるから。星よりも頼りになるはずだから」


「だから、俺と結婚してください」


俺の差し出した手を取ってくれ。

漫画の王子様みたいに跪かないで悪いな──すぐに走り出すためなんだ。


「俺と行こう、紫乃」


一緒なら、絶対になんとかしてみせるから。


「うん!」


呆気に取られて手首を掴む力が緩んだのだろう、紫乃はするりと母親の腕から抜け出した。



俺は手を掴んで、今度こそ走り出した。

後ろのことなんて知らない。

女子たちの矯正や、男たちの口笛が聞こえる。


長い髪が風に揺れて、俺の鼻に春を思い出させる甘い匂いがした。


「どこに行くの?」


「市役所! 紫乃!」


紫のオダマキの花言葉は勝利への決意。


「小田巻になってよ」


そしてオダマキの花言葉は──必ず手に入れる、だ。

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