青-2



真夜中に外に出てきた紫乃は、俺のパーカーを着ていた。

その姿は、名前のわからない星座なんかより、よっぽど眩しく感じた。


「アオイくん」


呼ばれて慌てて口を開いた。

──ちょっと肌寒いな。


「こんな夜に」


ごめん、と言おうとした言葉は飲み込んだ。

この薄寒い真夜中の空の下に、わざわざ出てきてくれた彼女にかける言葉は、もっと暖かい方がいい。


「外出てくれてありがとう」


俺がそう言うと、あ、とか、うん、とか頬をかいて、それから俺に聞いた。


「冗談だよね?」


「いや本気」


そんな驚くことないだろ。

俺はずっと本気だったじゃないか。

海に行くのも、クラブに行くのも……一緒にプールに入りたかったのも本気だった。

全部紫乃のために飛び出した。

今度は飛び出させないように、守りに来た。


それは確かに思い付きだけれど。

その思いを作らせたのは、紫乃だ。


「家から学校、通いづらいならうちから通えばいいよなって」


これが正しいかは分からない。

ただ応急処置にはなると思った。

学校に行けなくなるほど追い詰められている彼女を、逃がすならうちしかないと思った。


「しばらくお店も手伝わない、友だちの家にいるからとでも言って出たほうがいい」


助けを求めてくれないのなら、一方的に押し付けるしかないじゃないか。


「少し落ち着いてから、家に戻るのはどうだろう。お母さん、お店は一人で大変だろうから、戻ってきた紫乃のありがたみで話し合う余地もできるだろ」


ガキの考えかもしれない。

けど、俺だって──夏を越えて、少しは大人になったんだ。


「…………無理やり俺に連れて行かれるか、どっちの方がいい?」


風が吹いて、一筋垂れた髪を、彼女が耳にかけた。夜の中に浮かび上がる白い指先が、少し荒れていた。


「……アオイくんのおすすめは?」


「圧倒的前者」


かな。すぐに答えて付け足す。


「ひとこと言っておくだけで捜索届を出される可能性が減って、オオゴトになる危険性が減るから」


「なるほど」


紫乃が唸る姿は、やっぱり犬みたいだった。

けどその後に上げられた顔は、やっぱり大人びた少女の顔。


「このまま連れてって……もう去年、直接話して喧嘩になっちゃったから……今年はそっと消えるにする」


「わかった」


一つ頷いて、そして俺は、彼女の手を掴んだ走り──ださない。

漫画じゃないんだから。


「……ごめん、一筆書いて置いてきてもらってきてからでいい?」


本当は今すぐ手を引いて走り出したいけど。

これからのことを考えるなら、そんなわけには行かないと思った。


「頼むよ」


暗に俺のために。

言わなかった言葉を察したのか、わかったよ、と紫乃はすぐに微笑んだ。



そうして、俺は家に彼女を迎え入れた。

下心じゃなくてまるで家に犬を迎えるような真心でだ。

そう、これは真心の話なんだよ。




「アオイくんは一人暮らししてるけど、お母さんやお父さんとはどんな感じなの?」


「勝手に海外住むことにしたり、呆れるような感じでふざけてるけど、悪い親じゃないんだ……だから仲は悪くないよ」


素直に仲がいい、とは言えないのはまだ若干残ってるガキらしい照れのせいだ。


「大事に育てられたし、信頼してもらってると思う」


自覚はある。

それが恵まれていることだと、人によっては僻まれることなのだと──彼女に羨ましがられる自覚はある。

だけど後ろめたくはない。


「だから、俺がこうやって紫乃を泊めるのも、多分何も聞かずに咎めたりはしてこないと思う」


だから安心して、と続ける。


「いくらでもいてくれていいから」


寝室使って、と紫乃を案内すると「悪いよ」と遠慮したけれど、疲れていたのかすぐに眠ってしまった。


俺はリビングのソファに寝転がって──全然眠れなかった。

一つ屋根の下だぞ。抱いてるものが友情ならまだしも、そうじゃないから眠れるわけがない。



***



朝日と共にリビングに足音が入ってきて、俺はパソコンの画面から顔を上げた。


「起きてたんだ」


「ん。ああ、おはよう──紫乃」


寝室から出てきた紫乃は、少し驚いたような顔をしている。


「早いんだね」


「朝はチェックすること多いから」


寝たか寝てないかなんて敢えて言わない。

目元をほぐしながら「紫乃も早いんだね」と言うと、えへへと少し恥ずかしそうに微笑んだ。


「朝ごはん作ろっかなーって……」


「…………どうぞ」


本気かよ。

夜の夏に浮かれされて言った言葉を覚えてるのか──そのいじらしさに眉間を抑えた。


別にいいよ、と言おうとも考えたが、こんなチャンスは滅多にないからやめた。


「台所、そこにあるのなんでも使っていいから」


「うん、ありがとう……」


紫乃が棚周りや冷蔵庫を一通り確認して、それからパソコンを見る俺に向かって声を投げた。


「お米は!?」


「ないけど」


基本サンドイッチだからな。

炊く時間や洗う労力などを考えると、一人暮らしじゃコスパはともかくタイパが悪い。買い物でも重いし。


「この家、地味にあるはずのものないなあ……」


鏡とかお米とか。

まるで哲学するみたいに呟きながら、紫乃は冷蔵庫の中身から野菜を取り出していく。


「あっ、お味噌もないよ」


「意外と賞味期限早いだろあれ、発酵してるくせに」


「早い……?」


「毎日でも使わないと使い切れないじゃん」


まあ確かに、そうかもね。

そう言いながらも、紫乃の手は動いていた。

普段から店の手伝いをしていると言ってただけあって、包丁の音は小気味良い。


随分久しぶりに、家のコンロに火がついた音がして、それから温かくて芳しい匂いが鼻についた。


「お味噌汁じゃあないけど」


家の中で、使い捨てできない皿を見るのはずいぶん久しぶりだ。


湯気の漂うスープ皿の中は、黄金色の野菜スープだった。中の野菜は、冷蔵庫にサンドイッチ用に用意していたもののようだ。


家にあったものでこんなものが作れるのか、と驚く俺に、お醤油とかはあったからね、と紫乃は軽く言った。


「寒くなってくるし、サンドイッチだけよりいいでしょ?」


「確かに。毎日飲みたいな」


栄養バランス的にも良い。

俺の言葉に、紫乃は黙ってパンを齧った。

そんな俯いて、食べづらくはないのだろうか。


「いただきます」


飲んだスープのはっきりした味は、寝不足の体によく染み渡った。



***



放課後のホームルームが終わって、振り向くと紫乃がいた。

……俺じゃなくて女子たちに話しかけに行く姿を黙って見る。


何の話だ。

紫乃さん、放課後いるの珍しいですね、と話しかけられて、えへへと笑っている。


「あ、小田巻」


彼女を囲む女子の一人が、俺の視線に気がついて軽く手を上げた。


「あんたも帰んないの?」


チラリと横目に紫乃を伺う。

アオイくんが帰るなら帰るよ、と言うように、紫乃はバッグを持ち直す。


「…………ちょっとスマホ見ながら休憩する」


俺は彼女たちに背を向けて座り直した。

その俺の不自然な様子に、女子が小声で呟いた。


「変なの、タイパ魔人が」


聞こえてるぞ。


「せっかくだし紫乃さん! おしゃべりしましょ!」


放課後ゆっくり喋りたかったんですよ──そんな声が聞こえたから、俺はスマホに夢中なふりをして、黙って座っていた。


放課後に教室に吹く風は涼しい。カーテンの隙間から見える空の色が、青色から橙色に変わるのを一人で見ていた。


そろそろ帰ろっか、と女子たちが解散して、紫乃が俺の机の前にしゃがみこんだ。


「お待たせ」


上目遣いにそう言って、俺の机の上に顎を乗せた。まるで主人のところに帰ってきた犬のようだ。


「……待ってない、スマホ見てただけ」


長いまつ毛に縁取られた大きな目に俺が映る。


「待っててくれてありがと。ゆっくり話せて楽しかった」


あまりに真っ直ぐ見られて、俺はすぐに立ち上がった。

持っていたスマホを慌ててポケットに入れようとして、するりと床に落ちてしまう。

カツン、と音が響いて、急いで拾おうと俺も膝を折った。


床に落ちたスマホを拾った拍子。しゃがんでいた彼女の足元に俺は視線を奪われて、間抜けな声を出してしまう。


「…………あ」


「……っオイくん!」


紫乃が慌てて立ち上がった。

心底、もう教室に誰もいなくてよかったと思う。


「…………えっち」


誤解だ。事故だろ。


「……帰ろ?」


両手を挙げて降参の仕草をする俺に言って、紫乃がバッグを持ち直した。

長い髪が揺れて、同じ動きでスカートが無防備に翻った。


帰る先は同じだな。今の一言だけでわかった。



俺たちはそのまま一緒に買い物に行った。


「あそこのスーパー安いんだよね」


さすがの紫乃はよく知っていた。


「いや、あっちの方がいい……株主優待券で割引になる」


なるほど、と紫乃が頷いて一緒に入ったスーパーで、俺はカゴを持って彼女に付き従う。


「お米十キロの方がお得なんだけど、持つの大変?」


そんなことないと答えて米を持ち上げると、さすが男の子なんて小さく拍手をされた。

どれくらいの期間で十キロの米が消費しきれるのかなんて知らなかったから、俺はそのままレジに向かった。




俺が家の鍵を開けて先に入った。

ただいま、と家に入ると、少し遠慮がちに紫乃も入ってくる。


「おかえりなさい……お邪魔しまーす」


他人行儀だな。いや、他人だけど。

それでも、おかえり、と言うのは恥ずかしかった。紫乃が靴を脱ぎ終わる間に考える。


「おつかれ、紫乃」


やっと出てきた言葉は、そんなありふれた挨拶。


「ありがとう。アオイくんも、おつかれさま」


それなのに、嬉しそうに紫乃は笑って答えた。



別に料理なんてしなくていい、と言ったのに、紫乃は台所に立ち始めた。


「じゃあ手伝う」


「いいからいいから! 自分のペースでやれる方が嬉しいから!」


わかった、と答えて俺は台所を出ていくことを決める。

今日買ったスーパーの袋から、品が野菜を取り出して並べていく。その指先は少し荒れている。


「じゃあ片付けとか食器洗いは俺がやるから」


「ええ、悪いよ」


「作ってもらうんだから、それくらいやらせてよ」


頼むよ、と言えば、どうしようかな、と言いながら野菜を洗い始めた。

──鼻歌は無意識だろうか。

蛇口から水が流れる音に隠れる程度の鼻歌だ。


台所を後にして、俺はその鼻歌を聞きながら、リビングでパソコンに向かうことにした。テレビはつけなかった。BGMはもう充分だった。



夕食後、風呂の順番は少し揉めた。


「紫乃、先入んなよ」


「え!?」


「俺、その間に皿洗っておくから」


お皿は私が洗うから、と紫乃が食い下がる。

一人に作らせておいて、片付けまでさせるのは忍びない。

かと言って食後の皿を置いたまま先に風呂に入ると、多分確実に片付けまでやらせてしまう。


「いやいやアオイくんが先入んなよ〜」


ほら、その……。

そう恥ずかしそうに、まるで察して欲しそうに言った。


「時間かかるよ?」


まあ女子はそうだよな。

別にそんなの構わない。


「…………なんか想像した?」


誤解だ。


「鏡ないのは知ってるし、もう別に大丈夫だからね!」


なにをだよ。

なにも想像してないって。


結局順番はジャンケンで決めることになった。


皿洗いを終えた俺は、濡れたお風呂の床を踏んでかがみこんだ。


「はあ〜……」


ため息つきたくなるだろ、こんなの。

男子高校生なんだろ。


落ちてる髪の毛の一本が、さっきまでここに紫乃がいたことを俺にわからせるようで、やっぱり俺はもう一度溜息をついた。



風呂から出ると、彼女はソファに座ってテレビを見ていた。

俺が風呂に入っている間にドライヤーを終わらせたのだろう。長い髪はいつもと同じハーフアップにまとめられている。


「映画館みたいだね」


百インチのテレビで、ただのニュースを見ながら嬉しそうに言った。


「父親の趣味でね」


そう答えて横に座る。

ソファが久しぶりの二人以上の重みに、小さく悲鳴を上げた。


「……ロマンチックな映画とか見たらいいんだけど、大体ニュースつけてるだけだな」


「ロマンチックな映画好きなの?」


「紫乃が言ったんだろ」


ロマンチックなのが好きって。

だからちょっと勉強したんだよ、花とか星とか──そこまでは言わないでおく。


俺の言葉に、紫乃が少し恥ずかしそうに答えた。


「……女の子ならわりとみんな好きじゃない?」


「ああ、やっぱそうなの?」


「やっぱってなに、やっぱって」


言葉のあやだ。


適当にチャンネルを変えると、地上波でちょうど映画が始まるところだったらしい。


なんとなくそのまま見始める。

俺は観たことのある映画だったから、チャンネル変えても良いかなと思ってこっそり隣を伺った。


紫乃は大きく目を見開いていて、じっと夢中になって見ていた。

観たことないのか、この映画が好きなのか。

どちらなのかはわからないけど、チャンネルは変えない方がいいみたいだ。


窓の外の景色は暗い。

どんな星空か俺たちは目も向けず、テレビを真剣に観ていた。


テレビからいっそう大きな音が流れる。主人公がトラブルに巻き込まれていくシーンだ。

これから辛くなるな。


「…………今日も、学校楽しかったね」


紫乃が唐突に口を開いた。

脈絡のない会話に驚くが、それを声に出さず、そうだな、と返事をする。


「……辞めなきゃいけないんだなって思ってた」


ていうか、辞めようかなって。


吐き出される声は小さい。

テレビが大きな音を立てたら消えてしまいそうなほどの声だ。

音量を下げたいと思うのに、リモコンに触れる動きすらも躊躇う。


「羨ましくなって、辛くなって、疲れて……」


うん。そうだよな。


「…………誰にも助けてもらえないと思ってた」


うん。そうだよな。

──だからお姉ちゃんぶって強くあろうとしてたんだろう。


「紫乃は助けの求め方が下手なんだよ」


優しくない言葉だったかもしれない。

優しくするための言葉だけれど、棘があるかもしれない。


「お願い、ってひとこと言ってくれよ。助けてって言ってくれよ」


紫乃が俺の方を向いた。

その大きな目の色が水面のように揺れるのは──テレビの明かりだけのせいじゃないよな。


「けど、お願いしたって、求めたって、無駄なことがあるじゃない」


紫乃の声が震えているのも、気のせいじゃない。


「助けを求めて伸ばした手は、爪なんて伸びっぱしになってるから……掴んでくれた相手も傷つけちゃうんだよ。だから結局、それを見て自分もさらに傷ついちゃう」


「それでも掴んだままでいてくれよ」


離さないでくれよ。

そうじゃなきゃ震えを止められない。


「お願いって言って。願いをかけてくれよ。──男は」


いいや──俺は。


「そのひとことだけで、たいてい頑張れるんだから」


覚えておいて。


その爪で傷ついても、手を離したくないと思っている俺がいることを。

傷ついたっていいんだと、だって爪を切る余裕もなかったんだろ。そんなのかすり傷だ。


手さえ繋がっていれば、あとはどうにでもしてやるから。


「言ってよ。辛いことも言ってよ。一緒に傷つかせてくれよ」


お願いだ。


顔が見えない他人に、泣き顔を知られないように吐き出すのもいいけれど。

誰も知らない場所で、鳴き声をだすのもいいけれど。

それじゃあ助けられないんだ。

画面の中には触れられない。


俯いた茶髪の頭から、雫が置いた。

髪は濡れていないから、それは涙だ。


「辛かった……働かなきゃ高校行かせないよって言われたからやってたのに、もう高校行かなくていいよねって言われて仕事押し付けられるの辛かった……!」


せきを切ったら止まらなかった。

声が夜にこぼれていく。


「接客しなきゃ明日も行かせないよって言われて、家でも怒られるのも辛かった……!」


そうだよな。辛かったよな。


「辛くて疲れて、どうすればいいのかわからなかった……!」


そうだよな──これから考えよう。


一緒に考えさせて。

そう俺が言うと、紫乃は黙って頷いた。


「だからまだ、ここにいて」


ここがユートピアだと言うつもりはないけれど、居心地はだいぶ整っているはずだ。


揺れた髪からは、甘い匂いじゃなくて、俺と同じシャンプーの匂いがした。



──ユートピアは所詮架空で、仮想だ。

ここはモラトリアムの中だ。

だから──終わる時が、やってくる。

タイミングを決めるのは子どもじゃなくて──大人だ。

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