青
「紫乃さん今日も休み?」
「ね、先生言ってたね」
ホームルームが終わり授業が始まる前の時間。
振り向いても彼女の姿はない。
今日もメッセージを貰っていたというのに、ついその姿がないか確認してしまう。
──紫乃が学校を休んで四日目になる。
浜ソーの次の日の早朝、今日は休むねとメッセージがあり、風邪でもひいたのかと思った。
『そんなことないよ』という返事だけでは、強がりか本当なのかがわからない。
まあ濡れて冷たかったところに、追い討ちのアイスだった。本当は風邪なのだろうと思って、二日目に来たその連絡にも違和感を感じなかった。
『ごめんね、明日も休みます』
欠席三日目の夜に来たそのメッセージに、さすがに違和感を覚えた。
風邪にしては長くないか。
『ちょっと調子悪くて……』
見舞いに行こうか、と送るべきか悩んだ。
家の場所を教えてくれた彼女の顔は、あまり来てほしくなさそうだったからだ。
家の外ならと朝は迎え行ったが、見舞いとなると家の中……あるいは玄関先。兎にも角にも扉を開けてもらう必要がある。
押しかけようにも、彼女の母親がなんと思うか分からない。
桃花にあの男はどうだ、と聞いてみた。
『早朝も深夜も突発配信でもめちゃくちゃ追いかけてもらってます!』
またタクシーで通勤しましょうか?
まるで自分の財布のようにあの男のことを言っていた。そんなギフト出させてんのか。
『勝手に送ってくるんですよ〜! とはいえ、額も相当ですしあんな感じなので他の配信者に浮気はしてないと思いますよ!』
まあ確かにハマれば一直線タイプだよな。
紅蓮ショータローが何かしたわけではなさそうだ。その点には安心した。
ということは、普通に体調不良が続いているのだけなのだろうか。他に理由があるなんて、俺の考え過ぎだったか。
メッセージの返信はまちまちだ。
体調を思うとやたら送る気にもならない。
配信もなく、電話もない。
教室の席は穴が空いたまま。姿が見えない。
空いた夜の穴が埋まらない。声が聞こえない。
せっかく同じ浜に埋もれたのに、彼女がいない。
連絡が来たのは日曜の夜だった。
『明日行くね』
──よかった。
結局、休みは一週間近く続いた。高校三年生にとって、一週間の休みは痛手だ。
授業の遅れ、受験勉強の不安、そして同級生たちとの距離感が広がる感覚。
今の彼女の気持ちは、俺の想像を超えている気がする。
『迎えに行こうか?』
返事はすぐに来た。
『じゃあコンビニ前で』
わかった、と返信する。
開いいた通話アプリをすぐに閉じた。
明日聞こう。
体調が気遣われる彼女を、わざわざ画面越しに呼び出すのは気が引ける。
明日になれば顔を見て話せる。
早く家を出るのは一週間ぶりだ。
カレンダーの列が変わる間に、気温がずいぶん下がった気がする。
涼しい、というより肌寒いな。
学校までは回り道。タイパは悪いが考え方を変えた。これはこれで、運動になってタイパいいじゃん。
近づいたコンビニの前に、その姿があった。
長い茶髪のハーフアップ。
伏せためにまつ毛の影が落ちて、大人びたその顔をいっそう神秘的に見せている。
喋りかけるのを躊躇うほどの物憂げな彼女に、同級生だから声をかけることができる。
「紫乃」
おはよう、と軽く手を挙げると、おはよう、とピンクからの唇が弧を描いた。
「待たせてごめん」
「待ってないよ、大丈夫」
そう言いながら、学校に向かって歩き出す。
しばらく歩いてから、俺はやっと口を開いた。
「体調は大丈夫?」
「あ、うん。……平気、ありがとう」
そうか。
長かったな、というのも違うだろうか。
大変だったな、ならいいだろうか。
紫乃の口数も心なしか少ない。
「……どうしてた?」
見つけた言葉はあっているだろうか。
俺が聞くと、うーんと犬のように紫乃が唸った。
「……ちょっと、休んでた」
「だから、それはなんで──」
歯切れの悪い答え方に、ざわついた心を隠さずに聞くと、俺たちの間に声が飛び込んできた。
「あっ! 紫乃さーん! おはようございます!」
「紫乃さん! おはようございま〜す!」
学校近くまで歩いてきた俺たちの姿を見つけて、クラスメイトたちが声をかけてきた。俺はの挨拶は軽いもんだった。まあわかるけどな。
俺たちを見つけた女子たちが、声をかけてくる。
「アオイもおはよ。 ……紫乃さん、風邪でした?」
体調どうですか、と聞かれて、紫乃が頷く。
「ううん、大丈夫。ありがとう」
穏やかな波のような微笑みだったから、俺はもう引くしかなかった。
***
「はーいプリント回すから取ってってねー」
今日も教師は紙の束を適当に手に取ると先頭の生徒に渡していく。
はい、と。自分の分を手に取って後ろの席のヤツにまわす。
振り向いた俺の視界、全て埋まっている席を見るのは久しぶりな気がする。二列離れた斜め後ろの彼女の席。
教室に入る風と違うリズムで、その頭が揺れていた。船を漕がその様子に、プリントを渡そうと振り向いた前の席の女子が声を掛けているのが見えた。
慌ててプリントを受け取ると前の席の女子に笑いかけて、それからまた後ろの席に回していた。
──眠そうだな。
それから、授業と授業の間の時間。
俺の斜め後ろから女子たちの声が聞こえた。
「紫乃さん、寝てるね」
「起きてくださーい」
後ろの席のヤツに話しかけながら振り向いてさりげなく視線を投げると、彼女は机に突っ伏して眠っていた。
ハーフアップの髪にはいつもと同じバレッタがついていて、彼女の寝息に合わせて教室の照明の光を反射させる。
つつかれて起き上がると、えへへと笑う。
ちょっと眠くてね、なんて曖昧に笑って煙に巻く。
そうやって始まった授業の終わり、教師が壁面のカレンダーを見た。
「今日の日付に……先生の誕生日を足して割って……葉賀、ノート集めて運んどいてくれ」
はい。
彼女の返事が後ろから聞こえた。
授業が終わって、みんなは教卓にノートを置きにいく。積み上げられたノートを持ち上げて、じゃあいってきますと紫乃が言って教室を出た。
教室を出たばかりの紫乃の背中をノートを持って追いかける。
「俺のも」
振り向いた顔に驚いた様子はなかった。
「うん」
だからきっと、俺がまだノートを出していないことに気が付いていた。
「はい、ここに乗せて」
そう言って、抱えたノートの山の頂上を見せた。
「見られんの真ん中がいいから半分もらうわ」
俺はノートの山を半分とり、自分のノートを一番下にするように両手で抱える。
「ついでに一緒に行く」
「いいよー、一人で大丈夫!」
いいから、と言ってそのまま一緒に廊下を歩く。
他の教室から聞こえる感想から区切られた廊下では、うまく話を切り出せず、階段に差し掛かったところでやっと俺は話を切り出すことができた。
「……調子悪い?」
なんかあったの、と聞けばしっかりとした足取りで歩きつつ、そんなことないよと首を振った。
「なんでもないよ」
なんでそんなこと言うんだよ。
線引きされた、と思った。
話し出してくれない──わかりえないと思われてる。
なんと言えば話してくれるかわからず、持っているノートの表紙を見て言葉を探す。
黙った俺に、紫乃が顔を向けた。揺れた髪からに甘い匂いが鼻をくすぐる。
「……お姉ちゃんの心配してくれるの? 嬉しいなあ」
──まだお姉ちゃんぶるのかよ。
階段を降り切って、職員室の前で俺が持っていたノートの山を彼女に持つ山に合併させる。
職員室に入った紫乃を、職員室の手前で待つ。
教師にノートを渡して戻ってきた彼女が、ありがとうと俺に笑いかけた。
大人びた顔は──やっぱり俺のストライクなんだよ。
だからほっとけるわけがないだろ。
「……な、紫乃」
ちょっと話せる? と、俺が教材室を示すと、なぜか顔を赤くした。
「あ、あ……アオイくんのえっち」
ちょっと待て誤解だ。
「行かないよ?」
違うんだって。
「ほら、次の授業始まっちゃうよ? ……出席しないと、私みたいになっちゃうよ」
「笑えないな」
「笑ってよ」
紫乃が言った。
「笑って卒業してよ」
なんだよそれ。
まるで願ってるみたいじゃないか。
自分のことを棚に置いて、願いをかけてるみたいじゃないか。
結局有耶無耶にされて逃げ出されてしまった。
それからその日の授業が終わると、紫乃の姿はすぐに消えてしまった。
***
『今日はありがとう。ごめんね、明日も休むね』
なんだよそれ。
それから紫乃は休みがちになった。
『明日は朝迎えに行く?』
夜に連絡をして、返事が来ていたのは明け方だった。
『次は行けるときに連絡するね』
どういうことだよ。
それは、しばらく来れないってことじゃないか。
なのに俺に連絡なしに来る時もあった。
そう言う時は大抵遅刻で、授業中も眠そうだった。
遅刻気味に学校に来た日はいっそう眠そうで、真面目で優秀だった彼女のゆるやかに調子を崩していった。
教室に入ってきた風に吹かれて、カーテンが踊る。
窓の向こうの景色は相変わらず完璧なロケーションだ。
美しい景色と裏腹に、どこか憂いを帯びた彼女の顔。
──そして三日ほど経った。
***
外国の経済の指標となる数字が発表され、明日からの株価などを予想しなきゃな、と思いながらマウスをクリックする。
夜。
日本人が寝静まる頃、海外の経済市場が起き出すため、夜に情報収集をすることが多い。
夜更かしは別に特別なことじゃないし、いつものことだ。
机の端に置いたスマホを一瞥する。──なんの鳴き声もしない。
眠ることもできず、かといって連絡をすることも──……さっきメッセージは送った。
返事はない。
ニュースを聞いている俺の耳に、スマホの通知音が鳴った。すぐに手に取り画面を見た。
──葉っぱちゃんが配信を開始しました。
……返事もしてこないくせに。
葉っぱちゃんの配信が始まった。
そうなったらもう、見るしかないじゃないか。
『ママあああ〜!』
それが存外、今まで通りの声だったから意表をつかれてしまった。
なんだよ、元気そうじゃないか。
『久しぶりなのに見に来てくれてありがとう……』
喜びを素直に表すその声に、俺は『そうですね』スタンプを押す。
押せば素直に、画面の向こうの彼女は喋り出した。
『ちょっと最近、余裕がなくなっちゃって』
私のね、と続けてそれから「いや、やっぱりちょっと違うかも」とつぶやいて話を続けた。
『うちのね』
ああ確かに……似て非なる言葉だな。
『もう今更ママに取り繕うこともないんだけど……』
なるほど、この
それは
『ちょっと、しんどい』
犬耳が動くモーションはお決まりのものなのに、今日は少し悲しそうに見える。
なにがそうさせてるんだよ。
画面の向こうの彼女の顔がわからなくて、相槌の打ち方がわからない。
『高卒ほしかったなあ……それよりも』
それよりも?
『それよりも、もっとあの人と過ごしたかった……』
──なんだそれ。
まるでもう、叶わないみたいじゃないか。
高卒を取ることも──過ごすことも。
俺があの人なら教えてくれよ。
『声を聞きたいし顔も見たいのに』
俺は彼女の声を聞きながら、バーチャルの姿を見ながら拳を握る。
『うまくできない、それも辛い』
なにもうまくやる必要なんてないのに。
どうしたんだよ。
『羨ましくて眩しくて辛い。臆せず歩けない自分が一番辛い』
きっとマキ《ママ》だから話しているんだろう。
なんでなんだよ。
なんなんだよ。
『ねえママ……私、学校辞めるかも』
──俺が聞かないと意味がないだろ。
マキがどう思われようと知るか。
ママにどう思おうとなんて知るか。
俺は配信画面を閉じて、通話アプリを開く。
──画面の外に、手を伸ばしに行かないと救えない気がする。
──今なら電話をかければ出てくれるだろう、と思った。
マキがログアウトしてしまえば、視聴者だっていないはずだ、だから出ろ。出てくれ。
スマホから発信音が鳴る。
ワンコールでは出られなかった。
発信音が途切れるまでに、スリーコール。
「紫乃」
途切れた音に、すぐに名前を呼べば「アオイくん」と小さく俺の名前を呼んだ。
「…………返信、待ちきれなくて」
なんで配信を先にしてたんだよ、なんて言うわけにもいかない。せめて責めないようにと選んだ言葉は、我ながら拗ねてるみたいだった。
『ちょっと忙しかったの』
「…………夜遅くまでか」
『うん、まあ、ほら、お姉ちゃんだし? 十八歳過ぎてし、それにこれは家の仕事だから……』
なんの問題もないしね。
なんて言い切る彼女に、言い返すのは避ける。
ないわけないだろ。
あるだろ。問題出てるだろ。
「学校、明日は来れそう?」
『ちょっと難しいかなあ』
なんでだよ。
なんでなんだよ。
もうそろそろ、引き下がれなくなってきた。
真剣に刺せる言葉を探す俺の気配を、通話口から感じ取ったのだろうか、紫乃の方から喋り始めた。
『……母親のね、機嫌を損ねちゃったの』
話し出してくれたのは──顔を見ていないからなのか。
『前に私目当てで来てたストーカーっぽかった人、覚えてる?』
覚えてるよ。
紅蓮ショータローだ。
『あの人、お店に来た時もそうとうお金を使ってくれてたんだけど……来なくなったのはあんたの態度が悪かったせいだって言われちゃって』
乾いた笑いが虚しい。
嘘だろ──そんな方向になるのか。
『なんでしっかり繋ぎ止めなかったの、って』
呼吸音が一つ。
『学費を払うための貴重な売り上げだったのに、どうするのって』
俺は息ができない。
『その分働きなさいって、閉店まで仕事しなさいって。朝行こうとすると、仕込みしてってとか買い出し行ってきてとかって……学校なんか行ってる暇ないよ、だって』
仕事は今までだってやってたのにね。
今まで以上の仕事を求められるの、と言った。
降りてきた沈黙に、やっと呼吸を取り戻す。
良かれと思ってやったことが裏目に出たショックと──娘が嫌がっていた客に媚びることを強いる親のことを考えて、めまいがした。
『そのせいで疲れちゃったし、学校行っても眠いし…………去年は頑張れたのに、なんだかもう、しんどくなっちゃって』
その声が、どんな顔をしているのかわからなくてもどかしい。
助けてほしい、と言ってくれたらいいのに。
お願い、なんて言ってくれたらいくらでもどうにかするのに、一人で強くならなきゃいけなかった彼女は、俺に助けを求めず、俺に願いをかけてはくれない。
──なら俺が、俺のエゴで連れ出すしかないだろう。
「紫乃」
『うん?』
「迎えに行っていい?」
え、と疑うような声だった。
『今会っても、もう遊べないよ?』
まるでお姉ちゃんぶる口調だった。
『仕事が忙しいの』
お前はまだ高校生じゃないか。
──なのに、彼女はしっかりしないといけなかった。
お姉ちゃんなんて自分から言って強くなろうとして、そうじゃなきゃきっと立てなかった。
『学校行くの、反対されてるし』
今も落ちろと引っ張られている手で、学校にしがみついているのだ。
誰にも助けを求めずに。
ネットの中で顔の知らない人間に、顔を知られず吐き出すだけ。そうやって現実に折り合いをつけたふりをして、だましだまし、戦っている。
「……だったら、うちにこいよ」
『え?』
「だから、うちこいよって」
だからさっき、会いに行くじゃなくて迎えに行くって言ったんだよ。
「一人暮らしなんだよ、俺」
『いやいやいや、え、あ、うん。それは知ってるけど……』
突然の俺の提案に困惑しているようだった。
そりゃそうだよな。
俺だって今まで思わなかった。
──そんな親なら離れなよ、なんて。
この話を聞くまで思わなかったんだよ。
『え? ちょっと待って……え? いや、うーん、ほら、お世話になるとしても……お金とかないし』
住んでるとこ、家賃高いよね?
俺からすればこの話のポイントはそこじゃないのだが、第一にそう言った彼女は、やっぱりそこの面で苦労してきたのだろう。
「……じゃあ仕事ってことにしよう」
仕事をしにきてよ、と俺は誘う。
「俺、毎食サンドイッチなんだけど飽きちゃって」
サンドイッチはタイパがいい。作るのは早いし、中身を変えるだけで栄養も食費もコントロールがしやすいのでコスパの面は最高だ。
ただウェルパは悪いんだよなあ。
ちょうど飽きてきたんだ。
「味噌汁でも作ってくれる? ……できれば毎日」
俺は返事を待たずに、ジャケットを着て外に出る用意をしていた。
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