黄-5



「えっ」


驚いた顔は予想通りだ。


「おはよ、紫乃」


朝のこれから登校する時間。

建物の下に来ている俺の姿を見て、扉を開けた紫乃は驚いていた。

それでも足を止めずに階段を降りてくる。


「コンビニ……」


「昨日家教えてもらったし」


その方がいいかな、って。

そう思ってるのが俺だけだったら嫌だから、その言葉は飲み込んだ。


「一応念のため」


「え、あ、うん……」


「あ」


紫乃が俺の前を通り過ぎた。


「紫乃」


呼び止めると、彼女がスカートの裾を翻して振り向いた。長い髪が俺の前で揺れて、花のような甘い匂いがした。


「えへへ、ありがとう──アオイくん」


そう素直に言われると、少し驚く。


「どういたしまして」


返した声は上擦っていなかっただろうか。

お姉ちゃんぶってこないので、多分大丈夫だったはずだと思う。




そうして二人で登校して、普段通りの学校の授業を受ける。


昨夜は結局、あれから少し話していたので寝不足だ。

後ろの席にプリントを回しながら、斜め後方の彼女を伺うと──少し眠そうに目を擦っていた。

誤魔化すように長い髪を耳にかけ直して、回ってきたプリントを受け取ると微笑んでその後ろの席に──


回す彼女と目が合った。


なんだよ。

……俺ばっかり見てるかと思ってたのに。


カーテンを揺らして教室に入ってきた風は、今更秋の空気をはらんでいた。



***



もうすぐ放課後という休み時間に、現れた教師が騒々しい教室に向かって言った。


「美化委員ー、今日浜ソー」


ジャージに着替えて集合なー。

そう言って俺たちの反応を見ず、教師は次のクラスに行くのかすぐに立ち去った。

タオル持ってきてたよな。

──美化委員。確かにタイパは悪いけど、今しかこういう時間もないよな。

バッグの中を確認しながら、変わった思考を確かに確認した。




浜辺にくると、夏の終わりが色濃く感じられた。

日差しはまだ強いが、どこか淡い。

ニュースでは九月も猛暑日ばかりと言っていた、随分くるのが遅かったな、秋。


──長い夏をありがとな。

薄くなった空の色と輝きを落ち着かせた波に心の中で礼を言う。


ジャージ姿で学校から移動した俺たち美化委員は、一人一枚のゴミ袋を持って、浜辺に落ちたゴミを拾っている。

砂浜の柔らかい土が足跡を刻み、少し涼しさをはらんだ風があっという間に消していく。


「かぜつよっ」


同じジャージを着た奴らが、砂浜に押し付けたゴミ袋の上に石を置いて、波打ち際に字を書いて遊んでいる。


注意するはずの教師の姿は周囲にない。……多分またアイス買いに行ってるな。


もうアイスがほしい、なんて気温じゃないぞ。

波の音は風鈴を砕く音だ。


少し離れたところから、俺はその様子を見ている。

文字を書く後輩の女子たちに紫乃がのこのこ近づく。……注意しに行ったのか?


「何書いてるの?」


違った。

聞けば好きな歌詞やらなんやら、適当なことを書いてるようだった。


「え? 私も? ……じゃあちょっとだけ」


参加するんだ。

俺は隣のクラスの美化委員仲間の奴と話しながらゴミを拾う。


砂浜には夏の名残が多少落ちているものの、一学期の浜ソーよりは多くない。夏の終わりに既にボランティアの清掃があったのかもしれない。


「紫乃さん、なんか変わったな」


少し離れたところではしゃぐ女子たちを見て、隣の奴が言った。


「なんか壁がなくなった気がする」


「そうか?」


そうやって返して、俺は彼女から目を逸らす。

……くそ。高い壁を感じてろよ。


「アオイはどう思う?」


「別に」


言うわけないだろ。

高い壁であれよ。壁の向こうの扉を知ってるのは俺だけであれよ。

なんて思っているのは──絶対バレたくない。


そのとき、話題をさらうようにいっそう強い風が吹いた。飛んでくる砂に目を瞑る。


「あっ」


聞こえた声は──向こうから。

砂浜で字を書いている女子たちの方だった。


ゴミ袋の上に置いていた石が飛んだのだろう。

白いゴミ袋がふわりと舞い上がった。


「取りいってくるわ」


俺はゴミ袋を奴に預けて、逃げるように舞い上がったゴミ袋の方に駆け寄る。


「取りに行くね!」


同時にそんな声が聞こえた。

紫乃も足元の砂を蹴り上げるように走り出した。

なんでだよ。

後輩もあっ、と言って遅れて追いかける。


高く舞い上がったゴミ袋を追いかける紫乃は犬みたいだ。駆け寄りながらそう思う。


「俺拾うから!」


声を張り上げて伝えるが、


「まかせてー!」


なんて言って俺の方を見ていない。


くそ。わりと体を張るタイプだよな。

──そうやって頑張ってきたんだろう。


絵の具が点々と置かれたような雲が浮かぶ空。

海の強い風にビニール袋が高く舞い上がる。

サンダルを履いた足の裏に入ってきた砂が痛い。

少しずつ海の方へ近づく。


舞い上がったビニール袋が、海の方へゆるやかに下降して、波打ち際の方へ落ちた。


「あっ」


俺と紫乃の声が重なった。


「俺取るから」


「大丈夫!」


少し大きな波がきたら濡れるぞ。全然大丈夫じゃない。

なのに紫乃は、ビニールを拾おうとする俺の後ろについてくる。


「きゃっ」


その声に振り向くと、紫乃がつまづいたようだった。

石に足元を取られたのか、濡れた砂の上に尻もちをついた。


「紫乃」


転んだ彼女に振り向いたその瞬間に、


「せんぱーい!」


波が音を立てて押し寄せて俺の足元と紫乃の下半身を盛大に濡らした。


「うわっ」


波の冷たさが広がると同時に、足元の砂が波にさらわれて俺もバランスを崩した。


ゴミ袋は、打ち寄せた波に砂浜へ押し付けられたようだ。


「濡れちゃったね」


「ああ」


俺は立ち上がって、紫乃に手を伸ばす。


「濡れたな」


こんな状況なら、大多数の前で手を差し伸べることに気後れする必要はないだろう。

差し出した俺の手を紫乃が掴んだ。

濡れた水は冷たかったが、音を立てて重なった手は生ぬるかった。


──一緒に海に入ったってことにしよう。


繋いで手に力を入れて、紫乃の体を引き上げる。

足元の穴から蟹が顔を出して、またすぐに引っ込めた。紫乃が立ち上がって俺は手を離した。


「向こうにタオルあるよ、借りてたやつ」


「私も借りてたハンカチも持ってきてる」


大丈夫ですかと駆け寄ってくる後輩や、笑いながらこっちにくる奴らに答えながら、俺たちは波に背を向けて堤防の方に向かって歩いていく。


「おー! 調子どうだー!」


やっと堤防に現れた教師の手には、膨らんだコンビニの袋があった。


濡れた俺と紫乃を見て、まあ毎年青春ヤローはいるからしょうがないな、と言って笑いながらアイスを配った。



濡れた体にアイスは冷たかったが、まあわりと美味しいアイスだったのでよしとしよう。



***



その日の夜は風呂で念入りに温まった。

風呂場の濡れた床を踏むとどうも色々思い出して長風呂をする気にならなかったのだが、今日はまあ、寒い思いをしたからな。


風呂から上がって、しばらくリビングで過ごす。

百インチのテレビが流すニュースに耳を傾けながら、スマホの鳴らす音を聞き漏らさないようにする。


──通知音がなったのは日付を超えた時だった。


葉っぱちゃんが配信を開始しました。

その文字にすぐリンクを開いた。

犬耳のキャラクターが耳を揺らして俺を出迎える。


『えへへ〜、ママ〜』


明るいイメージで描かれたキャラクターに、浮かれた声は良く似った。


『今日ねえ、今日ねえ、学校の人たちと海のゴミ拾いしてたんだけどねえ、楽しかったあ〜』


それはよかった。

俺は『いいね』スタンプを送る。


『あの男子とね、一緒に濡れちゃったりしてね……えへへへへ』


なんか語弊あるな。


『手、おっきかったなあ……えへへへへ』


俺は自分の手を見る。


「……」


握った感触を思い出す。


「手とか、繋ぐのいいよねえ……えへへへへ』


……どんな顔してこれ言ってんだろうな。

俺はスタンプを押した。


それから、あ、ちょっと家族に呼ばれちゃった、と言ってその夜の配信は切れた。


彼女の言葉に『そうですね』なんてスタンプを送るぐらいには俺もなかなか浮かれている。


今日は配信だったな。もう彼女もきっと寝るだろう。今日は電話はなさそうだ。

ウェルパの高い一日だった。



──きっとこうやって夜を超えて、冬を越えて、それが卒業まで続くと思っていた。



『ごめん、明日休むから登下校大丈夫です』


紫乃からそう俺宛のメッセージが来て──それなら彼女は学校に来なくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る