黄-4



今日送り届けたばかりの、紫乃の住んでいる場所の前。


一階の店舗部分の前には車が止まっていて、窓や扉の隙間から灯りが漏れていた。


着いたよ、と電話口で告げれば、今行くね、と伺うような声で返事があった。

──まだ日付は変わらない。


足元の影は夜の闇に溶け込んでいる。

もうすぐ十月だというのに、まだ微かに熱気をはらんだ重い空気がじっとりと肌にまとわりつく。


二階のアパートの一室の扉が開いた。

暗いせいで髪の色がよくわからない。後ろを向いているのは鍵を閉めているのだろう。その背中が振り向いて、見慣れた顔が見えた。


紫乃。

何も言わずに手を振る。


足を忍ばせるように階段を降りてきて、俺の元に歩み寄ってきた。

店の照明から漏れる灯りに彼女の茶髪が照られされる。


「ごめん、いきなり」


大丈夫だった?

そう聞こうとしてやめた。自分勝手に誘ったのだから、今更そんなのやめようと思った。大丈夫じゃない、なんて言われても帰る気なんてないくせに。


「ううん」


首を振る紫乃に胸を撫で下ろしてしまう。


「大丈夫」


その答えに甘えてしまう。

よかった、とだけしか言えない俺の方がまだまだガキだ。


「……行きたいところがあるから、一緒に行ってくれる?」


そこで手を差し出せば漫画の主人公になれるのに、俺は隣を歩いてもらうのに精一杯だった。


大人びた顔で微笑んで、紫乃はいいよと言った。


並んで歩いたその道が、夜で幾分も表情が違うとはいえ見慣れた道だったからどこに行くのかすぐに気がついたようだ。


「え、学校?」


「うん」


もうすぐ十月にもなるのにまだ暑い。地球温暖化がありがたい言い訳になる。きっと俺のためなんだとさえ思うほどに。


夜に浮かび上がる大きな校舎。締め切られた校門の前で俺は言う。入るために偏差値は上げた。春は終わったけれど、まだ夜は青い。


「今度こそプール、行けないかなって」


夏の思い出を今度こそ上書きしよう。


「海だって結局、一緒に泳げなかったから」


「……けど、センサー……」


「それは、プール開きの間だけだろ? プールの授業は、この前が最後だった」


水泳部もプール納めしたみたいだ、と付け足す。


「今がチャンスかなって」


まだ夏の暑さが尾を引いているうちに。


話しながら、俺たちは外壁まわりを歩いて行く。

道路からこの高い壁を越えればプールがある。


特別なことをしたかった。

どこにも連れて行けないのならせめて。

最後の夏に、忘れられないことをしたかった。

ヒーローじゃなくても、漫画みたいなことをしてみたかった。

結局俺が一番青春ヤローに憧れてたんだ。


「……うう、うーん……」


紫乃は犬のように唸る。


「準備ができてなくて……」


なんの?


「いやその、水着になる準備が……」


一応書くが、俺は何にも聞いてない。


いや、水着にならなくていいんだけどな。

俺だって持ってきてないし。

ちょっと足ぐらいで、なんて言った、余計に恥ずかしがらせると思って黙って言葉を待った。


「……その……」


「…………」


「…………えっち」


「え!?」


黙ってただけだろ。


「変なとこ想像したでしょ」


せめて変なって言えよ生々しい。


「アオイくんのえっち」


なんでだよ。


「男子高校生なんてそんなもんだろ」


「マニアック」


誰のせいだよ!

誰のせいでシェービングフォーム変えたりしたと思ってるんだよ。


「…………私だけだよ?」


その言葉をそのまま返したい。

というか何のことだよ。わかってるけど。


塀を一つ越えればプールの向こう。

段差を使えば容易く忍び込める。

たけれど、もうそんな気は起こらなかった。

高い塀の汚い壁を背に、俺は座り込んだ。


遠くに虫の声が聞こえる。


──やっぱり無理は柄に合わないし、もうそんなことしなくてもいいと思った。


濡れ手にアワは掴めない。無理なことは失敗のもとだ。見切りは早く──無理に手を伸ばさなくてもいい。


入ろうと思えば入れる。それだけで充分だ。


「……紫乃だけだよ」


しゃがみ込んで顔を上げれば、星空がよく見える。

わざわざプールの中の、落ちた星空を見るよりもこの方がよく見えるだろうと思った。


そろそろ日付が変わるだろう。

もう変わっているかもしれない。


──ああそうだ。

思い出して口を開く。


「一年生のあの子は……その、なんていうか」


そういうんじゃないんだ。

言葉を探す口元を隠してそう言えば、彼女も俺の横に座り込んだ。


「どういうの?」


「だから」


俺と紫乃の──。


「…………どう言えば、いいんだろうな」


言葉を探しても足元には何もない。

言葉を探しても空には星しかない。

宵闇が俺たちの体を包んでいる。


「…………とにかく、桃花とはそういうんじゃないから」


「けど名前で呼ぶ仲なんだね?」


「紫乃だって紫乃だろ」


「…………そうだけど……」


「…………」


「…………」


静かになった空気の中に、やっと名前を見つける。

ああそうだ、と俺が言えば彼女は俺を見た。

桃花は、と言おうとして名前は飲み込んだ。


「強いて言うなら、戦友、かな……?」


「戦友?」


何と戦ったの? と聞いて笑う。

何だったんだろうな。


戦いというには短かった出来事だと思う。

ネットの中というか、大人というか。

けれどどちらにしろ。ともかく。


「もう終わったことだよ」


そう、もうその章は終わった。

だからもう大丈夫。


「心配しないで」


もうお前の敵は倒したから。

次だって倒してみせるから。


「……友達なんだね?」


「そうだよ」


ふうん、と紫乃は言っただけだった。

私と違うの? と聞かれなくてよかったと思う。

そう聞かれた時の答え方が、まだわからない。


時間が気になってスマホを取り出す。

闇に慣れた目にブルーライトは眩しい。

細めて見ると、日付はとうに変わっていた。


「お」


「どうしたの?」


「なんでもない」


思わず声が出た俺がそう答えると、その答えが不満だったのか黙ってしまった。

待ちに待った日なんだよ、と思ったけれど、結局何も変わるわけではない。変えるのは話題。


「…紫乃って四月の何日生まれ?」


四月生まれだとは言っていたけれど、何日までかは知らなかった。

唐突に聞いた俺に、少し間を開けて紫乃が答えた。


「……一日ついたち


ん? それって、と少し考えた。

一学期、紫乃に何月生まれかと聞いた時──早生まれなんだと言うと笑っていた。そうだよとは言っていなかった。


「早生まれ……学年で一番遅い生まれじゃないの?」


年度の切り替わる誕生日は、四月一日。

四月生まれは一日までが早い学年、二日生まれからは次の学年になるのだ。


「…………そうです」


そう答えた紫乃がお姉ちゃんなんて呼び方とは正反対の顔だから、笑ってしまった。

気まずそうだな。なんで敬語なんだよ。


──なんだ。


「ほとんど俺たちと変わらないじゃん」


壁なんて塀なんてほとんどなかったじゃないか。

背伸びして塀に登らなくてもいいか、と思った。


「…………おひつじ座だな」


俺が言えば、なんですぐに分かったの、と聞かれた。

桃花の配信で最近話題だった、と言うのは気が引ける。たまたまだよ、と答えた。


「アオイくんは何座?」


「てんびん座」


「そうなんだ。誕生日って──」


「おひつじ座、どこにあるか分かる?」


紫乃の言葉を遮って、俺は夜空を指差した。

素直に俺の指先に素直に導かれて、その視線が夜空を映した。


「えー、今は見えないんだよ」


「そうなんだ」


俺は手を下ろして同じように夜空を見あげる。


これが漫画だったら、あれが夏の大三角形で、その隣が……なんて色々名前を言うんだけど。

あいにく浪漫があることはまったく分からない。


「誕生日には自分の星座は見えないんだよね、だいたい三か月くらい前に見えるんだったっけ」


「へえ」


「小学校で習った時、自分の星座がいつ見られるかって調べなかった?」


調べた気はするけど。

全然覚えてないなあ、と言った俺に、紫乃は笑った。


「やっぱり星とか花とか、ロマンチックなの好きなんだよねえ」


「じゃあ今見えるのは何座?」


「え、あ、うーん……」


俺が適当に星を指差すと、紫乃が犬のように唸った。

なんだよ。

それが面白くて、俺は思わず少し噴き出してしまう。


「アオイくんは分かるの!?」


「全然わからん」


だよね、と恥ずかしげもなく言い合って、学校の塀にもたれたまま二人で笑い合った。


結局ロマンチックな場所にも、どこにも一緒には行けなかったけれど、まあ俺たちは今いる場所で、こうやって笑い合っていられればいいかと思った。

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