前言撤回。一番前の席はやはり良くない。

朝のチャイムが鳴り、ホームルームが始まる前。

席について教師が来る前の時間割の隙間時間。


「紫乃さん、なんか今日暗くないですか?」


「え、あ……そうかなあ?」


俺の後ろの喧騒の中で、そんな会話が聞こえた。


紫乃はチャイムが鳴る寸前、一番最後に教室に入ってきた。いつも来るのは遅い方だが今日は殊更に遅い。


一番前の席からは彼女の表情が見えづらく、背中さえも見ることができない。

離れてしまった席のせいで、なかなか話すタイミングも見つけられない。


プリントを回す時に見えた紫乃の顔は確かにどこか暗く、口は重そうだった。


結局紫乃はいつも通り、最後のホームルームが終わるとすぐに帰ってしまった。

チャイムが鳴ると同時に急いで帰るその姿に、家の方が忙しいのだろうか、と予想する。


二十二時過ぎ、一人暮らしの家の中は静かだ。

別に珍しいことでもないのに、今日は静寂がやけに目につく。

スマホを手に取る。今日は鳴かないみたいだ。


──電話、かけようかな。

いや、忙しいかもしれない。


彼女の家のことを何か相談されたとして、俺に何ができるのだろう。


通話アプリを開いても、発信画面までは辿り着かなかった。どこにも行けない──何もできないだろうから。


俺が入れないクラブハウス。

俺が踏み入れない家の事情。


結局高校生の俺にできることなんて──。


スマホの時計表示が動く。時間が進む。卒業までの長いカウントダウンのようだ。


寝よう。明日話せるかもしれない。

そう思った時だった。

スマホから鳴ったのは着信音。


きっとワンコールも待たせてない。


「もしもし」


『…………アオイくん』


えへへ、と笑う声は、夜の影に身を潜めるようないつもより小さい声だった。


今日はどうした。

何かあったか。

そう聞きたい声を抑えた。

あくまで軽い口調で──くだらない話を。


「……今日昼休み。アホな奴らでテニスボールの毛抜きやってたんだけど」


──青春の一ページに使うのさえもったいないようなくだらない話を。


「一番アホなヤツが、全部抜けばピンポン球になるはずとか言い出してさ」


──漫画なら吹き出しの中に入れるのさえ躊躇うようなくだらない話を。


「ピンポン球に植毛すればテニスボールになるかもって野球部引退した奴が頭の毛抜き出したりしてさ」


──なんの伏線にもならない、読み飛ばしたくなるような話を。

だから笑ってくれ、しょうもなく笑い飛ばしてくれ。


「最後抜いてた毛が結局風に飛ばされて掃除大変だったな」


暗い顔をさせる理由が、一瞬でもいい。頭から吹き飛べばいい。


『あははは! なにそれ、変なの』


耳元で風のように軽い笑い声がした。

変なの、と言いながら笑ってる。

……よかった。アホな奴らに感謝だ。


息遣いでさえ安心する。

その笑い声は居心がいい。

鈴がなるような声に、風が吹くように心が揺らされる。


──話したいことがあったら。

それが話す準備ができたら、心の用意ができたなら。

きっと彼女から話してくれる。


そう思って、その夜はずっと不毛なくだらない話をしていた。


明日こそ彼女の表情が曇っていませんように。

てるてる坊主を吊り下げるような気持ちで、くだらない話を並べていった。



──結局のところ、次の日も、また次の日も同じだった。



「紫乃さん、なんか疲れてます?」


「そ、そうかな……昨日遅くまで勉強したからかな」


教室に来るのは一番最後。影のある顔で登校してくる彼女に、席が近い女子たちが訳を聞くけれど、あははと軽く笑って流される。


「大したことじゃないから」


私、お姉ちゃんだから大丈夫。

なんて──誰もお前にそんな役目を強いてなんかいないのに、どうして虚勢を張るんだ。



たった二、三日。

電話も配信もないその夜が、表情の沈んだ昼が──俺の方が耐えられそうにない。



ホームルームが終わって解放されて、俺はすぐに廊下に出た。

一番前の席で良かった。廊下に出やすかった。


「紫乃」


既に廊下に出ていた彼女を呼び止めることができた。

早いな。犬みたいにすばしっこい。長い髪が振り向いて、犬の豊かな尻尾みたいに揺れた。

間に合った。あとは捕まえるだけだ。


「あのさ、一緒に──」


「小田巻せんぱ〜い!」


一緒に帰ろう。

言い切る前に、弾けるような瑞々しい声が飛び込んできた。


突然現れた声の先を視線で辿ると、黒髪のボブカットが俺たちの方に駆け寄ってきた。


「桃花」


名前を呼べば軽く手を振って俺に応える。

それを見た紫乃が「じゃあ」と軽く首をもたげた。


「また、明日ね」


スカートの裾がゆっくりと翻って、合わせて揺れた髪から漂った甘い匂いが鼻を掠めた。


「あっ、紫乃──」


先輩? と。

紫乃とすれ違って俺のところにきた桃花を前に、俺は呼び止める手の行き先を失ってしまう。

彼女の姿が廊下の奥に消えて、それからやっと口を開いた。


「…………どうしたの? 桃花」


俺の溜息混じりの問いかけに、ふふー、と桃花は鼻を鳴らした。


「リスナーを増やしたくて相談に来ました!」


「それ俺じゃなくても……」


他に適任がいるだろ。

俺がいうと、桃花がこてんと首を倒した。

揺れたボブカットの毛先から、せっけんの匂い。


「だって先輩の投資アカウント、フォロワー多いじゃないですか」


学校イチですよ、と付け足されて、ああどうもと軽く返す。

畑違いだ。


「……あのクオリティと、桃花のスタンスを変わらず大事にしてれば伸びると思うよ」


そう言って軽く桃花の頭を叩いて、じゃあ、と残して走り出した。階段を三段飛ばしで降りたのに、駆け足気味に進んだのか、もう校門に紫乃の姿はなかった。





時計を見る。針が動いた──二十二時。

いつもそのくらいの時間に終わるのだろう。

高校三年生二回目の彼女は既に十八歳になってはいるから、本来時間制限はない。

ただ高校生ということで、家業とはいえ配慮されているんだろうな、と勝手に思っている。

厳密に彼女のタイムスケジュールまでは知らない。


そして彼女の母親は明け方まで店を開けているらしい。

だから仕事が終われば家に一人なんだ──電話もゆっくりできる、と紫乃は言っていた。



もうしばらく待っても、スマホは鳴らない。

結局放課後、話せなかったから、その未練のせいで布団に入る気にならない。

──そろそろいいだろうか。

時計の針がまた動いたのを見て、思い切って電話をかけた。

ワンコール、ツーコール、スリーコール……。

電話は留守番電話に繋がった。

アンコールは躊躇わなかった。


珍しいな。そういう日もあるよな──いや、ないだろ。

そんな日なかっただろ。出ろよ。


一度電話に出なかった相手に間髪入れずに電話をかけるなんてタイパ悪いってわかっているのに、我慢ができなかった。

くそ。


日付が回って鳴ったスマホを、俺はすぐに手に取った。聞こえた後は着信音じゃない。短い通知音。

──葉っぱちゃんが配信を開始しました。


おい。なんでだよ。

折り返しかけてくる前に、配信なんて。

寝ずに待っていたのに、なんて書くのも憚れる感情が胸を掻く。


そんな俺の気を知らず、画面の中に現れた犬耳のキャラクターは陽気な顔をしている。そういう風に描いたから当たり前なのに、今はなんでこんな顔なんだよという思いが隠せない。


『こんばんは〜』


陽気な顔と打って変わって、少し気落ちするような声だった。


『えっ、あっ!? ママ!?』


視聴者欄にあるマキの名前を見て、驚いたような声をあげた。


『こんな時間にも? えへへ、ごめんねえ……』


俺も我ながら脅威の出席率だと思う。

皆勤賞は下手をすればストーカー認定されかねない。

そうならないのはマキという女っぽい名前のせいか、ママという大義名分のおかげか、もしくは彼女のおおらかさか。


すぐにまたテロップが流れてきた。

紅蓮ショータローさんが入室しました。


『おつっぱ〜! 配信ありがとうネ!』


彼女の犬耳が何も言わずにぴくぴくと動いた。

クセの強いコメントが続けて流れる。


『さっきお願いしてよかったナ! あ、これおにぎり代ワラ』


──は?

画面が点滅して、花火のグラフィックが再生された。ギフトが送信されましたとテロップが流れる。

流されるコメントを二度見した。

確かにと書かれている。


『明日もいっぱい話したいナ!』


『そうですか〜……えへへへ……』


紫乃がリアクションをすると、紅蓮ショータローのコメントはさらに続けて投げられた。


『中身も可愛いんだから配信でももっとイカした方がいいと思うヨ!』


──どういうことだよ。

紫乃のリアクションは明らかな苦笑いだ。

文字だけなのに、紅蓮ショータローが浮き足立っているのがわかる。


──ああもう、見ていられない。

俺は配信中にはじめて、スタンプじゃなくて文字入力をした。


『葉っぱちゃんさん、よかったら新しい服のデザイン考えたいので相談できますか?』


初めてコメントを送信する。

とりあえず考えた文だが、これでいいか──送信。するとすぐにリアクションがあった。


『え……!? あ、はい! うん、うん!!』


顔を上げたような声にほっとした。

助け舟だったということが伝わったようだ。


『それじゃ失礼します、ショータローさん』


『女子会ガンバレ! もっと萌え度アップヨロシクネ!』


そのコメントに、彼女があははと苦笑して、配信は終わった。


とりあえず出した船だったから着く先になやんでしまう。

本当にSNSでメッセージを送るべきか、と画面を睨んでいる間に、葉っぱちゃんのアカウントからメッセージが来た。誰にも見られない、直接のやり取りだ。


『ママ、さっきはありがとう。ちょっと気まずい配信だったので助かりました』


気まずいってなんだよ。

配信にそんなんあるのか。今まではそんなのなかっただろう。

踏み込んでいいのか悩む。いや、ここは踏み込まない方が不自然か、と結論づけて文字を打つ。


『先ほどの人と何かありましたか』


『実は身バレしてしまったようで……』


──嘘だろ。

くそ。本当かよ。いつ──どうやって。

彼女のメッセージは、いつものマキママに対する態度より神妙だ。敬語で、説明的。


驚いて労う返信をすると、彼女はしっかりと話してくれた。


数日前に最寄りのコンビニ近くで「葉っぱちゃん?」と話しかけられたこと。


なんのことかとシラを切って無視して歩いたが、学校近くまでひたすらついてきたこと。

その間ずっと話しかけて、を並べてきたこと。


配信で言ってたローカル百貨店の名前。

そこから近い海が見える高校。

声。

声が一致の女の子について行ったら、お店っぽいところに入って行ったこと。


『校門で挨拶する先生が見てる見えないくらいの距離で去っていくんですよね……』


帰り道にも付近で待ち伏せされていて、ひたすらついてくる。

親の手伝いをしなければ親の機嫌を損ねる、帰らないわけにはいない。


多少寄り道をしたり走り出したりしても、ずっと笑顔で追いかけてくること。


とうとう昨夜、お店に来たこと。

接客はせず料理や皿洗いに徹するだけにしている紫乃に執拗に話しかけてくること。


客が多くない気まずい店内で、そろそろ帰るからお礼配信よろしくね、とプレッシャーをかけられたこと。


『こういう人のおかげで学費が払えて生活できてるんだから、大事にしろってお母さんに言われちゃって……』


それがさっきの配信か。

……くそ。ずるいだろ。

どいつもこいつも大人であることを利用しやがって。


気持ちを落ち着けるために一度深く息を吐いて、それから文字を入力する。


『身近に頼りになる大人はいませんか』


こういうとき、高校生ガキじゃ何もできないんだと絶望する。

愛しいはずの青春が憎らしくなって、名残惜しい日々に後ろ足で砂をかけたくなる。

卒業したくないのに、卒業したい。

とっとと大人になりたい。──そうじゃないと理不尽と戦えない。


返信はすぐにきた。


『うーん、先生に言えることじゃないし、母親

もそのお客さんの売り上げに喜んでそんな調子なので』


続く文字に、俺の方が励まされてしまった。


『クラスメイトなら』


──よかった。

同じクラスになれてよかった。

俺がいると気付いてもらえて、よかった。


『けど、話して重くないかな? こんなの知られたくないなあ』


重いわけないだろ。


『電話するだけならいいかな? けど、こんな遅くじゃ、もう寝てるかな』


いいに決まってるだろ。

起きてるよ、なんなら迎えに行ったっていい。

呼んでくれたら、話しに行ったっていいんだ。


立ち上がりたくなる腰を落ち着けて、俺は文字を打つ。

──いいんじゃないですか。

次の一文は送ろうか悩んでいる。


『きっとその人も待ってますよ』




俺のスマホが鳴った。


「もしもし、紫乃」


スピーカーの向こうで、ワンコールも経たずにでた俺に、息を呑んだのがよくわかった。


『……起きてたの?』


「起きてたよ」


取り繕わなくていいだろう。夜遅い時間だから、テンションが上がりやすいせいだって言い訳もある。


「紫乃のこと考えてた」


『…………そういうの、お姉ちゃん困っちゃうよお……』


「なんで」


困る理由が俺ならいい。


「紫乃もそうでしょ?」


わかって聞いた。困らせると。


『……意地悪』


そんな声が聞ける意地悪上等。高校生なんてこんなもんだろ。


そのつぶやきから、間が空いてさっきの質問の答えが来た。


『……そうだよ』


──お前さあ、なんて言いたくなるのを堪える。

そんな声で言われたら、電話越しなのがもどかしい。


「……なんかあった?」


『アオイくんの声が聞きたくなったの』


甘い声は毒のようだった。思わず固まった。

そこでそう答えてくる方が意地悪だろ。


『…………朝まで繋いでてもいい?』


お願い、なんて聞こえる声は夜に溶かすには甘すぎた。

そんなの今更だ。


「……お願いするまでもないだろ」


お安いご用だ。

徹夜なんて次の日のコスパが下がるようなこと──もうそんなの今更だ。


話題なんていくらでもある。

この曲知ってる? とか、なんでそんな古い話知ってんだよ、とか。

しょうもない話をしているうちに星は落ちて、太陽が昇ってきた。


星が見えなくなるにつれて会話が途切れ途切れになってきて、けどお互い眠らなかったし、切る気もなかった。


──これは徹夜明けのテンションのせいだ。


「今日、迎え行っていい?」


一拍おいて、返事があった。


『お願いしてもいいの?』


そう言った直後に、あっ、と言った。


『やっぱ危ないかもしれないからやめ──』


「もう遅いよ」


お願いしてくれただろ。

男は頼られたら嬉しいんだよ。



***



家の最寄りだというコンビニに着くと、店の前でスマホを持って立っている男に見覚えがあった。

どこかで、どこかで──。

それがつい先日だったから、それが人気の少ない場所だったから。だから思い出すことができた。


学校の裏門を潜ったところだ。

美化委員の仕事をした日。

スマホを持つその男は中肉中背。よくいる姿のいい大人。

──お前が紅蓮ショータローか。


お前か。お前のせいで。

震えそうな拳を握る。

他に片鱗はあっただろうか、と考えることで冷静さを取り戻す。

バレていることはバレないほうがいいだろう。


思考を繋げようとしていたら、遠くの方からこちらに向かって歩いてくる紫乃の姿を見つけた。


長い茶髪が歩くペースに合わせて揺れている。


紫乃。

名前を呼びそうになって慌てて口を噤んだ。彼女の店に行っているということは既に名前も知っている可能性はあるが──それでも念には念を入れた方がいい。


「おはよ!」


わざと大きくした声だったが、自分でも思った以上の声量が出た。

狙い通り、その男は俺の方を伺った。俺に向かって手を振る紫乃を見ると、顔を隠した。


諦観することに決めたようだ。

──まだ安心できない。息を吸い込む。


「しばらく委員会の仕事で忙しいな! その間一緒に登校よろしくな!」


「え、あ……あ、うん」


朝イチ。大きな声で喋る普段と違う俺の様子に、少し驚いたようだった。

それでも多くを言ってこなかったのはやっぱり周囲を警戒してるからか。


早足でその場を離れると、その男はついてこなかった。


「どうしたの? アオイくん」


彼女は俺の早足に合わせてくれた。


「……いや、なんとなく」


彼女は俺が知っていると知らない。

彼女への言い訳までは用意していなかった。


「紫乃と歩いてる姿を見せつけたくて」


「え、え、ええ……!?」


どんな顔だよ。そんな顔他に見せるなよ。


学校が近づくにつれ警戒が解けていき、俺は校門に立つ教師の姿に初めて安心した。


周りはもう同じ制服を着た生徒の姿ばかり。

あの男が潜んでいるような感じもない。


「……安心して登校できたの、久々な気がする──あっ」


校門を潜った紫乃は、そう漏らした方を慌てて両手で塞いだ。

これはチャンスだ。


この隙を突かないと聞き出せない。


「紫乃」


教室には行かなかった。

靴を履き替えてすぐに、俺はそのまま彼女の腕を掴んだ。

教室とは違う方向に引っ張られて紫乃が戸惑う。

──行かせてやれない。


「俺に教えて」


人目を盗んで俺が連れ込んだのは、教材室。


「今の言葉、どういう意味?」


俺は教材室の窓を閉めて、カーテンを閉める。

白の薄いカーテンは陽の光をよく通すので、締め切っても柔らかな光が注いで教材室は明るい。


「安心して登校できたのが久々、って──ここ数日暗かったのは、それが原因?」


俺に話しかけられたその肩が、小さく跳ねたのを見逃さなかった。


「お、お姉ちゃんちょっとよくわかんないな〜……」


わかってる。言葉の原因も誤魔化す理由も全部わかってる──だから逃さない。

逃がしてやる方が優しくない。


「お姉ちゃんぶってないで、教えて。俺に聞かせて」


教材室の外から聞こえる生徒たちの声が遠くなって、だんだんと静かになる。

きっとそのうちチャイムが鳴る。

カーテンの金具さえ鳴りを顰めている俺たちの空気。

紫乃は静かに目を背けた。


「知られたくない……」


「なんだよ、そんなの」


「話したくない……」


「話してよ」


話さない、と彼女は首を振る。

離すまいと食い下がる俺に頭を振る。


「……危なくなるかもしれないから、知られたくない」


そんなの、尚更だろ。

なんでこんな状況でも守る側になろうとするんだよ。

──一番、守られるべきなのに。

頑なに引結ばれた唇は、春と同じ色。


「言わない!」


くるんと背を向けられた。

その背中は語らない。

どうやら正攻法じゃ話してくれることはなさそうだ。

……だから意地悪を言ってしまうのも、しょうがないだろう。


「こんなこと言いたくなかったけど、」


俺はその背中に近づく。

──丸められたその背中の細さを知っている。

──丸められたその背中の触れた色でさえも。

近づく俺の声に、いっそうその背は丸くなった。


その背中に、俺は人差し指を立てる。


「背中のここに黒子あるの、知ってる?」


たしかこの辺。

ブラのホックの下辺り。

背骨のラインからちょうど落ちたところ。


俺があの日、家の風呂場のあの最中。

水着の紐を解いたあの背中。


俺がその場所を押すと、ぴくんと大きく肩が跳ねて──


「よし、こっち向いた」


こちらを向いた顔は、見たことがないほど真っ赤になっている。


「え、ええええ!?」


「知らなかっただろ」


「…………知らなかったです……」


「俺も言う気なかった」


彼女自身も知らなくてよかった。

知ってる、なんて言われたら正直膝から崩れ落ちていた。──いやまあ、自己処理してたら気づく可能性もあるけど。そういう意味じゃなくて。


とはいえその顔がこっちを見た。

子犬のように丸い瞳に俺が映っている。

これで口の滑りも良くなっただろう。


「だから、さあ、話してくれよ」


ネットの画面越しじゃなく、直接。



予想外の俺からの攻撃に調子が崩れたようで、ぽつりぽつりと喋り始めた。

それは概ね昨日の夜マキママに話していた通りで、俺も知っていることだった。俺は知らないふりで話を聞いた。



マキママが聞いた通りの説明のそのあとは、俺用の説明だった。


「朝はコンビニ前から学校近くまで着いてこられて、帰りは学校から少し離れたところから突然現れるの」


話しかけられるの、と彼女は言った。

それだけなの、と付け足した。


「だから何にもされてない……けど、何かされるんじゃないかって、怖かった。相槌を打たないと大声出してきたりもして、返事をしなくちゃいけなかった」


寸前に家を出たり、今からいないかと思って早めに学校を出たりしたけれど、待ち伏せされていたと彼女は話した。


「リアル女子高生は会いにくる価値があるんだって」


紫乃は目を伏せて、あの男の言葉があったであろう言葉を言った。


けどそんなことで特定するのか。

そんなしょうもないことで。


「高校から海が見えるとか、ローカル百貨店の名前とかで割と簡単に特定できたって」


ああ思い返せば確かに。

──確かに話していた。


「あとは、声。……ここかなって思ってた学校で、ちょうど裏門から聞こえた私の声で気付いたって」


あの日か。

美化委員の活動をして──二人で初めて帰った、あの日か。


くそ。気付けなかった。

熱烈なファンが会いにくるなんて──そんなの、よっぽど人気のある配信者の話だ思ってた。

母数なんて関係なかった。

その視聴数のイチが、危ないやつの可能性なんて十分あったんだ。


「……店にまで来るのか」


「うん、だからお母さんは──お母さんには、上手くやんなさいよって言われちゃった」


意味がわからないよね、と笑った。

その笑い方は、よくわかってる笑みだ。

なにを──どうやって。

娘にどんな立ち回りを求めてるんだよ。


──チャイムが鳴った。

そろそろ行こうよ、と紫乃が言ったけれど、頷かなかった。

今行かせたら有耶無耶になる。


「……警察に言おう」


こんな手しか思いつかない。


「登下校での待ち伏せはストーカー行為だろ。警察に言って注意させよう」


「そんな大事オオゴトじゃないって……」


大事だよ。大事だいじなんだよ。

分かれよ。

──分かってくれよ。


「大体、被害届出すようなこともされてないし……」


「被害届なんて出さなくても相談するだけでもいい」


昨夜話しながら調べていた現実的な対応を話していく。


「それだけでも、警察はパトロール増やしたり相手に忠告してくれる」


まず警察、なんて漫画や小説ラノベの主人公らしくない提案だ。俺が追っ払う、なんてすぐに言えない。


「そうしたら、多分お母さんに言われる」


紫乃が続けた。


「あの人が……警察がお母さんに言うかもしれない」


──なんでだよ、と思った。

あの男が店で働く母親に話すことを怯えるのは分かる。どんなことを言われるかわからない。

……けど、警察が母親に話すことに怯えるなんて。


彼女にとって、家は安寧の場所ではないのだ、と改めて分かってしまった。

いやだな。辛いだろうな、と思う。


「今度こそお母さんは、高校に通うの辞めさせてくると思う」


だから。


「だから平気。──お姉ちゃん、それなりに頑張ってきたんだから」


頑張らなくていいことまで、頑張ってきたはずだ。


「紫乃」


一体どうすれば、頑張らなくていいと言えるのだろう。

安心できる場所まで連れて行ってやれるだろう。


──そう考えてしまうくらいには、もう俺にとって彼女はクラスメイト以上の存在だった。

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