赤-2



教室の席から見える窓の外がすっかり遠くなってしまった。空の色も高くなった。


特筆すべきかわりのない日常。


ホームルームで話す教師の話題も「校庭に猿がいた」とか「生徒に話しかけてくる不審者がいる」とか「近くの海が映画のモデルになる」とかしょうもないことばかりだった。


いつも通りの日常が続いた。

美化委員の浜ソーは、また涼しくなってからみたいだ。今更思ったより活動がなかったことに、残念なようなよかったような。



配信は時々。電話も時々。

俺にとってはほぼ毎日。彼女の声が、夜の空白を埋める。


『す、すみません、う〜ん……』


スマホの中で犬耳がぴょこぴょこと動く。


『そんな面白い話ができず……』


葉っぱちゃんの配信に、紅蓮ショータローは相変わらず入ってきて、彼の喧伝のおかげか否か他にも人がちらほらと出入りするようにもなった。


彼女の言葉に、コメント欄が動いた。


『ここは最古参として話題を出さなきゃな……スコンビニの好きな食べ物は?』


紅蓮ショータローのコメントだった。

彼女はそのコメントを読んで、うーんと唸って答えた。


『最近は近所のエイトイレブンではよくおにぎりを……』


『可愛い! これおにぎり代!』


コメント共に、画面がぱっと白く点滅した。それと同時に『紅蓮ショータローさんがギフト花火を送信しました』とテロップが流れる。


『そ、そんな。……これ、なんかポイント? がはいる? ギフト? なんですよね、ありがとうございます……』


相変わらずあんまり分かってない。


『ま、ままぁ……どうしよう……?』


俺に聞くなよ。

とは思いつつ、その救いの手を求めるような声が嬉しくないと言ったら嘘になる。



配信がない日は電話がかかってきた。

ワンコールも経たずに出る俺に、もしかして待ってた? なんて言う。


「板見るのにスマホも使ってたからだよ」


板? と彼女が聞いてきて、株の取引で使う用語だよ、と簡単に説明した。

少し感心したように「へえ、大人っぽいね」と笑った。


高校生ガキなりにな。頑張ってるよ。

そう心の中で返す。


『で、今日男子は教室の後ろで何やってたの?』


くだらないことだよ、と前置きして俺が話すと、今度は「男子子どもっぽい」と笑った。


だろ、と笑えば耳元で鈴が転がるような声がした。

やがて鳴る音が消えて、気がついたら眠ってる。



そうやって、夜を埋めて、ページを重ねていた。



***



一番前の席なんて厄介な席だと思っていたのに、その価値観が変わった。


「はーい順にプリント取ってねー」


今日も教師は紙の束を適当に手に取ると先頭の生徒に渡していく。


はい、と。自分の分を手に取って後ろの席のヤツにまわす。

振り向いた俺の視界に、二列離れた斜め後ろのその席に座る紫乃の姿が入った。


「ありがとう」


紫乃はプリントを受け取ると前の席の女子に笑いかけ、それからまた後ろの席に回していた。

俺が彼女を見たのはプリントを後ろの席に回す、一瞬だけ。


──なのに。


彼女が捻った上半身を前に戻すその時、目があった。

ハーフアップにした長い髪が肩から落ちて、同じ色の睫毛で縁取られた瞳が大きく一度、まるでシャッターを切るように瞬きした。


その瞬きでこの一瞬が切り取られたらいいのに、と思った。

カーテンの金具が揺れる音と、彼女の髪が音もなく流れ落ちた瞬間。

──この一瞬を切り撮っておけたらいいのに。



***



「美化委員ー、放課後職員室前集合ー」


授業と授業の間に廊下から投げ入れられた美化委員の教師の声。

鬱陶しかった委員会活動が僥倖だと思ってしまうくらいに、やっぱり俺の価値観は変えられてしまっているようだ。


「あー、部活あるヤツもな。ちょっとだけで済むから」


けど放課後忙しい学生に、委員会活動は基本は厭われる。そんなリアクションにも慣れたように教師はそう付け足した。



いつも一日の終わりのホームルームが終わるとすぐに帰ってしまうのに、今日は放課後の教室に紫乃がいる。


美化委員の突然の活動はこうだった。


新しい掃除用具を購入したから今までの掃除用具と入れ替えること。

新しいモップの柄にクラスを書いたシールを貼って、それでおしまい。

今まで使っていた古いものは裏門近くのゴミ置き場に置いてくるように言われている。


「古いやつ俺ゴミ置き場置いてくるけど」


どうする? 先帰る?

これから仕事だろうと、紫乃にそう聞く。


「ありがとう。大丈夫だよ」


じゃあ、と俺は紫乃に古いモップを一本だけ渡す。


もっと待てるよ、と言った紫乃の言葉に軽く首を振る。


「女の子だろ。力ある方が持てる分持った方がいいだろ」


俺がそう言えば、これ以上食い下がってくることはなかった。



吹奏楽部の楽器の音を聞きながら二人で歩いた。

階段を降りる時に上靴がキュッと音を立てて、俺たちの会話に相槌を打った。


昼間より湿度の増した空気と、誰に憚れることもない放課後の軽い空気。

遠くに聞こえる吹奏楽部が合奏を始めたらしい、ちょうど良いBGMだ。


ゴミ置き場に古い掃除用具を置いて、俺このまま裏門から帰るけど、と言うと「私もそうしよっかな」と紫乃が答えた。


──放課後に紫乃といるのは珍しいことだった。

俺だって普段放課後に残って駄弁ったりするタイプではない。帰路に着くのに回り道なんてしない。コスパが悪いから。


だから俺のこの提案は、吹奏楽部の合奏が思ったより上手かったせいだ。


「……送ってこうか?」


浮かれた青春ヤローみたいな言葉、言う機会なんてないと思っていた。

紫乃は俺の言葉に少し驚いた顔をしていた。そんな意外そうな顔をされると。


「アオイくん、家、こっちの方じゃないでしょ」


もう彼女は俺の家を知っているから、通り道だよなんて言ってさりげなく送るなんてことはできない。

漫画みたいにうまくはいかないもんだ。

俺の言葉の続きを待つような沈黙だった。歯切れ悪く埋める。


「もうあと、卒業まで、数ヶ月だから」


ここまで言ったら、続きの言葉はスムーズだ。


「…………紫乃と帰るチャンスなんて、そうそうないだろうなと思って」


くそ。言い間違えた。

俺は機会と言いたかったんだ。

チャンスなんて言葉を言ってしまってどうする。


「そ、そうだね! よ、ようし……お姉ちゃんと一緒に帰ろっか」


お姉ちゃんなんてその言葉を茶化す余裕もない。


並んで歩きながら裏門を出た。珍しく人が立っていて、普段は人気のない場所だから珍しいなぁと思う。スマホを持っているから待ち合わせだろうか。


「浜ソーの回数って、思ったより少ないんだな」


「実は去年の三年生で文句続出してねえ……」


「へえ、知らなかった」


やっぱり一年分俺の知らない話をする彼女に少し気後れしたけれど、今肩を並べて歩いてるのは俺だ──まあ、それだけでいいだろ。


家の近くだというコンビニまでで十分だ、と彼女は手を振った。これから仕事をする彼女に「寄ってく?」なんて言えず、俺は一人で買い物をした。

普段は買わない、コンビニのおにぎりだった。



その夜、俺が配信を見始めた時には紅蓮ショータローが視聴者欄にいた。

彼女のリアクションよりも早く俺の入室に気がついた。


『マキチャン! おつっぱ〜』


どうやら俺のイメージは完全に女として定着しているらしい。俺は一言も女なんて言っていない。

聞かれたら答えるのに、誰も聞いてくれないからとついここまできてしまった。


『ママああ〜! 待ってた、嬉しい!』


紅蓮ショータローのコメントを見た犬耳が揺れた。

その言葉に、紅蓮ショータローのコメントが送られる。


『そんなこと言わないたら寂しいジャーン!』


語尾だけカタカナなのは変わらずだ。

彼女はそんなコメントに引っ掛かることもなく、ママ聞いて、と女友達に向けるように話し始めた。


『えへへ〜、今日ねえ、クラスの人と一緒に帰ったの』


……まるで放課後の教室で話すような口調で。


『普段家のお店の手伝いがあるからすぐに帰っちゃうんだけど、今日はね〜……えへへ、たまたま〜』


……なのに、えへへ、なんて言う声は教室で聞くものよりも随分甘い。

画面の中の犬耳のキャラクターは笑っていて、その見た目と子犬のように甘い声はとてもマッチしている。

話す内容をよく知らなくても、ただその姿と声を聞いただけで、かわいいな、と視聴者が思うほどに。


くそ。

俺は一度スマホを置く。

わんわん転がる声が聞こえる。

……この声を──他のショータローも聞いてるのか。


俺は配信画面を閉じた。

通話アプリを開く。

呼び出した連絡先が出てくれるのに、しばらくかかった。


『えっ、わっ、マ……アオイくん』


マってなんだよ。

マキ《俺》なら許そう。


「もしもし……紫乃」


スピーカーから、俺の真意を探るような息遣いが聞こえる。さっきと同じ声なのに、こっちのほうがクリアに聞こえる。


とりあえずかけてしまったが──配信を知ってる手前、何してた、なんて聞くのも野暮だろうか。


「ちょっと紫乃のこと思い出して」


くそ。何言ってんだ。

配信知ってることはバレてないから素直に「何してた?」と聞けばいいのに。気を回しすぎて失敗した。

少し焦ったような声が聞こえてきたのを、案の定といってもよいのだろうか。


『え、わ、私!?』


「あ、いや」


──もう取り繕うこともないか。


「……ああもう、うん」


言いたいことがあって、と俺が言えば息を呑む音がした。


「今度はコンビニで寄り道しようか」


テレビ通話じゃない。配信でもない。

画面越しに、どんな顔をしているかわからない。


けれど、


「うん」


そう答えてくれた声は、きっと俺の思ってる顔だと思う。



そんな顔で次の日会えるのを楽しみにしていたのに──次の日の彼女の顔は俺の思っている顔ではなかった。

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