それから彼女と電話をするようになった。

毎日ではないが、数日おきに。片手も数える前に。


なぜか気恥ずかしながらもビデオ機能をオンにしてくる。

俺からお願いしたわけではないのに「アオイくんもつけてよ」というのだ。


「え、やだよ」


『どうして? お願い』


渋々こっちのビデオをオンにしたのに、その途端に彼女は布団をかぶって暗くしたりするのだ。


「見えないじゃん」


『やっぱり恥ずかしい』


なら言うなよ。


話しているといつのま間か布団から顔を出して、薄暗い部屋明かりに照らされた顔を覗かせる。


中学校のこと、今までの高校生活のこと。

家のこと、これから進みたい路のこと。


『進学は、うーん、本当はしたかったけど』


なかなか勉強できてないし、学費も心配だし、いいかな、と彼女は言った。

お姉さんらしい物分かりの良さで。


『まあ、いいかな』


配信ではない。ビデオ通話だったから、彼女の顔がよく見えた。


陳腐な励ましやその場しのぎの言葉なんて言えなかった。ガキの俺で思いつくようなことはもう教師たちが言っているだろう。


『とりあえず卒業することが目標…………みんなと一緒にね』


ああ、そうだな。

高校生ガキの間じゃどこにも行けないし、連れて行ってやれない。


『二学期かあ……席替え、したくないな』


そうだな、とは言わなかった。

おやすみ、と俺が言った時には、もうスピーカーからは寝息が聞こえていた。



***



窓から見える木はまだ青々と咲いている。

八月の終わり。暦の上では秋らしいが、蝉はまだみんみんと鳴いている。


「プリントを配っていきますねー」


老眼鏡をかけた教師が数枚ずつ束にしたプリントを先頭の席の生徒に渡していく。

それは手渡された生徒から、順番に後ろの席に渡されていく。


「二学期が始まりましたのでさっそく席替えをしたいと思います。このあと──」


紙の擦れる音、教師の声がいき渡る教室。

カーテンのフックが風に揺れて音を立てて、膨らんで開いた隙間から青い景色が見えた。


──俺の目の前で風に撫でられる茶髪。

久しぶりに見た見慣れた背中が振り向いて、甘い匂いがした。


「はい」


今までだってずっと顔を見ていたのに、振り向いた顔は画面の中で見るのとは全然違った。

滑らかな頬の輪郭と細くて長い睫毛の先は、どんな画素数でも表現できない。


……なんて見とれたのは一瞬。

俺は彼女が差し出してきたプリントを指し示した。


「プリント、それ」


「え?」


口を開いた彼女の言葉が続く前に、差し出されたプリントを彼女に返して立ち上がった。


「プリント一枚足りませーん」


言いながら立ち上がった俺に、教師が気がついた。


「あらごめんね、取りに来て」


教壇にいる教師に促されて、俺はプリントを取り行く。

その途中の彼女の机に、俺はそっと指を滑らせて一枚の付箋を置いた。


──次は隣だといいな


教壇にいる教師からプリントをもらう。


「これからは気をつけてくださいよ」


そう言って席に戻ると、彼女と目があった。


よく画面の中で見た表情。その両手に俺が置いた付箋が握られていたことは──後ろの席の俺しか知らない。




***



その日の夜、久し部にスマホの画面の中で犬耳が揺れていた。


『ママああ〜! 久しぶり〜』


えへへ、と笑う声は教室で聞く声よりも明るい。


『えへへ、夏の間元気だった?』


また話を聞いてくれたら嬉しいなあ、と言う葉っぱちゃんに『そうなんだね』スタンプを押す。


『ママはこの夏どうだった? 私はね〜……えへへへへ』


なんだよ言えよ。

画面に映るのはただの絵のキャラクターでも、画面の奥で笑ってるのは分かってるんだぞ。


転がるような鳴き声ばかりで要領を得ない。

それでもいつか聞いた唸り声よりはマシだ。

そう思って配信を切らずに聞いていると、コメント欄に表示が流れる。


──紅蓮ショータローが入室しました。


『ほんと、高校生三年生二回やったかいがある……夏がアオハルすぎた……』


同時に彼女が喋り出して、コメント欄が動いた。


『おつっぱ〜』


発言をしたのは紅蓮ショータロー。

何語だそれ。久しぶりだなお前。


『えーっと……あ、はい?』


突然の謎の言葉に、画面上では葉っぱちゃんの犬耳の動きが考えるように止まった。

コメントが流れて来る。


『ファン拶とファンマ考えてみたヨ!』


紅蓮ショータローのコメントは絵文字でカラフルだった。

なんだそれ。語尾、相変わらずカタカナなんだな。


『ふぁん……さつ? ふぁんま?』


彼女も分からないようだった。

ご丁寧に紅蓮ショータローは一人の配信者ともう一人の視聴者のために説明をしてくれる。


『ファン独自の挨拶とファンだよってマークのことだヨ!』


……はあ。なるほど、独自の文化があるんだな。

へえー、と彼女の声はまるで他人事だ。

もうあんま興味がないみたいだ。

紅蓮ショータローのコメントは思わぬ方向にも飛んできた。


『さァ、マキチャンも新しい立ち絵を書いて応援しよう!』


え? マキ


『もっと、萌えを意識して、そんな感じで!』


まじ?

リアクションした方がいいのか? いや、いいだろ。しなくて。

リアクションをしたのは彼女だった。


『タダで描いてくれたママに、もうそういうのはちょっと……』


描いてもらえたのはラッキーだった。

そう続けた彼女に──この画面に、まるで花火が打ち上がるように点滅した光とカラーで染まった。


『紅蓮ショータローが花火ギフトを贈りました』

『紅蓮ショータローが花火ギフトを贈りました』


『これ! 絵の依頼の足しにしてネ!』


ちょっと待て。前に調べた。お前が前にも一度ギフトを送ってから俺も調べたぞ。

それは有料のギフト。一つで数千円するはずだ。


『そ、そ、それは……』


彼女の犬耳が定められたモーションでぴくぴく動く。

画面の向こうの顔が、笑っているのか困惑しているのか、その声じゃ分からない。


『JKの希望の星!』


うわあ。何がだよ。

ん? と俺は思ったがそれが何への違和感なのか分からずリアクションができなかった。


『さすがにそんな……』


彼女はなんとも歯切れの悪いリアクションだったが、紅蓮ショータローは照れ隠しだとでも送ったのだろう。また画面上に花火が上がった。


『お店に学校に頑張ってて偉いよ! こっちも応援していくからね!』


『すみませんそんな……いやいや……』


えー、あははは。

曖昧な笑みが聞こえるだけになって、そのうち配信は終わった。


どこの世界にもマイナー好きはいるんだな。

本当の彼女を知ればマイナーどころかやっぱメジャーが好きなんだろ、とでも言えるが、画面の中の彼女はあいにくマイナーのマイナー。


なかなか強烈なファンだが、それでもまあ彼女からすればきっとプラスになる存在だろう。

彼女の配信が、やっててコスパ良いものになればそれはそれでいいのかもしれない。


スマホの画面を閉じて、布団の中でしばらく目を開けていたけれど、その日の夜はもう通知音が鳴ることはなかった。



***



「せーんぱーい!」


一際明るい声が教室に飛び込んできた。

そろそろ次の授業に向けて移動しようか、話していたヤツが、榎園さんだ、と教室の入り口に目を向けた。


「桃花」


羨ましそうに桃花と俺を交互に見て、どういうことだよ、と小突いてくるので、先に行っててくれとヤツから離れて桃花に歩み寄った。


「全然会いにきてくださらないじゃないですかー」


「あー……」


配信のことな。そうだよな。

独自の空気感に馴染めず、夏休み前のあれ以来一度も彼女の配信は見ていなかった。

桃花は猫のように大きな瞳で、頬をかく俺を上目遣いで見つめた。


「寂しかったですよ」   


「ごめんごめん」


いやいや、俺一人別にどうでもいいだろ。

あれだけ視聴者がいればいてもいなくても変わらないだろ。


「だってあの小田巻先輩がファンになってくれたらふと……心強いじゃないですか!」


太いって言おうとしたなお前。


「わたしは石油王大歓迎って公言してるので」


石油王じゃないけど。

金目当てじゃないか、と肩をすくめて、どうしたのかと聞くと彼女は悪戯っぽく笑った。


「ふへへー、実はまたお願いしたくて……」


「また!?」


存外大きくなってしまった俺の言葉に、桃花はまたふへへと笑った。


「一度きりって言ったじゃないか」


「そこをなんとかお願いします〜!」


「絵を描いてもらうってお金かかるじゃないですか! 先輩は採算度外でしょ!?」


その言葉は、俺がイラストアカウントを始めたばかりの無償依頼の投稿を見た言葉だ。


「あれはサンプル用募集で、長期的に見たんだよ! コスパが悪いことは本来しないって!」


もうアカウントはまったく動かしていない。

俺にはトレードの方がコスパがよかったと気づいてしまったからだ。


そこをなんとか〜、と桃花は俺の服の裾を掴んでお願いしてくる。


「あんなはい……」


あんな配信、と言いかけて慌てて言い換えた。

配信者とその絵師だとバレるとまずい。


「あんな……感じだったなら稼げてるだろ!?」


「その分音源とか機材とかでお金飛んでるんですよねお〜!」


くそ。コネをつかいやがって。

絵を描いてやったのはお願いされた一度だけだ。

悪いな、俺は漫画の主人公みたいにしょうがないなあなんて言うほど優しくないんだ。


「新立ち絵!」


「無理」


「あ! じゃあ! 描かなくていいんで私に絵の描き方を教えてください……」


それなら先輩はなーんの必要ありませんよ!

なんて、さも名案かのように手を鳴らした。


「それもなかなか労力かかるだろ」


「手取り足取り構いませんので」


「取らんとらんいらん」


これで揺るがないから、主人公らしくないんだろう。年下女子に鼻を伸ばすべきなのにまったく伸びない。


「え〜ん、小田巻先輩の意地悪〜」


泣き真似は陳腐。


「わたしにあんなことしておいて〜!」


わざと耳目を集めるようなその発言にギョッとする。

あんなことってなんだよ。


「わたしのこと脅したじゃないですか」


それはお前だろ。

態度が打って変わった耳打ちに、計算高さを知る。こわいよお前。


返事を考える俺の前に現れたのは紫乃だった。


「……一年生? 可愛い子だねえ」


この後の授業で使う学校指定のダサいナップサックを持って、にっこりと桃花に向けて微笑んだ。

甘い匂いは花のようなのに、あまりにも威圧感のある笑いだ。口の端が引き攣った。


「はい! 小田巻先輩のSNS見ててファンなので話しかけにしました!」


「へえ〜?」


おいやめろ。桃花それは投資アカウントとイラストアカウントどっちの話だ。


「そっか。けど、もうすぐ授業の時間だよ?」


「あ、ああ。そうだな」


渡りに船とばかりに投げられた言葉に俺が頷くと、桃花は項垂れた。


「ふへー、残念です」


空気が抜けるように言って、それから上目遣いに俺を見た。丸くて大きい目は、俺の姿がよく見える。


「先輩にしかお願いしたくないんで、またお願いしますね?」


おい。

そう入念に言うと、俺の返事を聞く前に、軽く頭を下げるてするりと猫のように廊下の奥に消えてしまった。


「…………アオイくん」


何その顔。


「ちょっとお姉ちゃん、次の授業で使うものを取りに行きたいものがあるがあるなら教えてほしいなあ?」


「え? あ……」


「次の授業でつかうって──」


次、体育だろ。

しかも水泳。夏が終わる前、最後のプール。


「女子はもうそろそろ更衣室行かないとだろ、支度が──……」


「うん、支度」


「は?」


聞き返す前に紫乃が走り出した。

スカートの裾が翻って、普段は廊下なんて走らないやつだから抑えることも忘れてる。無防備に翻るから、俺は慌てて目を逸らして──


「こっちこっち」


先に走り出した紫乃の背中を追いかけた。

どこに行く気だよ!

走り出されたら、行き先が分からなくたって追いかけるしかないだろう。


廊下を二段飛ばしで降りて、最後に飛んだ数段は新記録だった。一階に降りると紫乃は足音を潜めて──職員室横の、教材室に入っていった。


「教材室って……」


次は水泳の授業なのに、ここに来る必要なんてないだろ。

教材室の開けられた窓から、カーテンが風を招き入れた。

入り口の扉は俺が閉めてしまったので、入ってきた風は閉じ込められて棚をカタカタと揺らす。


「私も…………お願いしたいな」


アオイくんにしか、頼めないよ?

それはささやきにも似た小さな声だった。


「確認してほしいの。 ……ちゃんと綺麗な肌か」


風に弄ばれて乱れた長い髪を耳にかけて、白と青を背景に紫乃が言った。


──それって。


「…………無駄毛が残ってないか探せってこと?」


「無駄毛って言わないの!」


それはそうだな。

本気か? なんでそうなった?

袋小路に閉じ込められて狼狽えているのは風だけじゃない。咄嗟に出た言葉は変な言葉だった。


「いやけど、剃刀とかないし……」


俺の言葉に、恥ずかしそうに紫乃は答えた。


「……持ってる」


なんでだよ。


「眉毛整えたりとかするから……」


ほんとか? ほんとなのか?

それってわりとコンプレックスが深いタイプの女子だけの話じゃ──


「アオイくん、お姉ちゃんに言えないこと考えてるでしょ?」


「…………そりゃあ、まあ」


男子高校生なので。

だってしょうがないだろ、と口ごもる俺を数秒見つめてそれから、ナップサックの中に手を入れた。

学校指定のクソダサいナップサックから出てきたとは思えない可愛らしいポーチを開く。


俺たちしかいない教材室の中に、チャックの音だけが響いた。

それからその細い指先が、同じくらいの細さの縦長の剃刀を取り出した。


「…………お願い」


「えっと……」


本気なんだな、と聞こうとして飲み込んだ。

うんとうなずかれる。

その言葉はただの返事じゃなくて──男を動かす合図だ。


「分かった」


俺が受け取ると、彼女はなぜか後ろを向いた。

俺に背を向けた。

また背中かな──……いやちょっと待てここで脱ぐ気か?


学校の水着は海で着ていたようなビキニなんて可愛いものじゃない。服のように半袖の形状のセパレートタイプで──ということは。


「……一応聞くけど、どこ?」


「この前──……」


この前? 同じ?


「やろうとしてくれたところ……」


やろうとしたところってどこだよ。

一体俺がどこをやろうとしてたと思ってるんだ。


「太ももの、うら……」


「太ももの裏」


「復唱しないの!」


思わず漏れてしまっていた。


「じ、自分じゃ見えにくい場所に決まってるでしょ!?」


まあ、それはそう。

長い茶髪が風に揺れて、同じようにスカートの裾が揺れた。


「………………分かった」


空気を飲み込んだ音がした。喉を鳴らしたのは俺か、紫乃か。

──何も言わずに、紫乃がスカートの裾を持ち上げた。


スカートが白い太ももに影を落としている。


「…………」


ぎりぎり下着が見えない程度。

ここまでミニスカートの女子はそうそういない。

スカートが持ち上げられて露わになった太ももは、普段隠れている分膝よりもはるかに白い。


「…………見て」


わかった。見るぞ。


「……あ、あの……見ちゃダメだよ?」


何を。見なきゃ確認できないだろ。


「だからその……ぱんつ……」


「…………」


「ぱんつは、見ちゃダメだよ……?」


「…………善処します」


「アオイくんからの初めての敬語がこんな場面なんてやだあ……」


俺もだよ。


「…………見るぞ」


しゃがみ込めて助かる。限界だった。

俺の顔より少し高い位置にあるスカートの中の秘密の部分を見ないように気をつけて顔を上げる。


白い太ももを見ると、コンビニの灯りに釣られる夜光虫の気持ちがよく分かった。

邪念を抱かない虫のように、太ももにとまる場所を真剣に探していると、頭上から声がかかった。


「……さっきの一年生にも」


危ない。顔をあげそうになった。


「こんなことしたの?」


……してないよ。

これか、凶行の理由は。


「誤解だよ」


「けど…………アオイくんにしか頼めないって……」


「なんでそれが剃毛になるんだよ……」


「え、え、え〜……だって!」


「しー」 


紫乃の大きくなる声を人差し指で制した。

隣は職員室。


話したら見つかっちゃうだろ。

動いたら見失っちゃうだろ。


「……動くなよ」


見つけたそれを人差し指でなぞると、触れた太ももがぴくんと跳ねた。


「……んんっ」


「動かないでって」


危ないだろ。


──けど、これ、あれだな。


海が近い学校は風が強い。


「…………」


沈黙は二人分。

俺が顔をあげたらすぐそばに彼女のスカートがあって、その中はぎりぎりで見えない。

……つまり。


風が吹いたら──


「……あ」


横切った俺の邪念を吹きとばすようなタイミングで、教材室に風が入ってきた。


あ。なんて──俺が言わなきゃ、きっとバレなかったのに。俺の声に彼女は振り向いた。


「アオ……イく……んっ!?」


「あ、お…………」


彼女が言ったのは俺の名前だし、俺の言葉もカーテンから見えた景色の話で──またはただの感嘆符で──だから決してスカートの中の話ではない。

高校生ガキだぞ。危うくそんなR18なこと言うわけないだろ。



その後の体育の授業は俺だけ遅刻した。

パール納なのに遅刻するなよ、と怒られてしまったのは長くトイレに篭った俺だけだった。

しょうがないだろ、水着に着替えなきゃいけないんだから。



***



スマホのスピーカーから俺を呼ぶ声の種類で、どうやらやっちまったということが分かる。


『ママママ聞いてえええ〜!!』


彼女にとって配信は女友達マキママと話す感覚で、電話は普通に俺と話す感覚。

ということで今夜はスマホの中で犬耳が揺れてくと鳴き声が聞こえる。


配信と電話の方向性の違いが見えてきた。

どうやらやっちまったらしい日は配信、そうでないなら電話を選ぶらしい。それでいいのか。どのみち俺だぞ。


『まえ〜に話した、その……クラスの男子が可愛いちっさい女子から告白みたいなのされてたって覚えてる?』


……覚えてるよ。

俺のリアクションを待たずに、犬耳がピクピク揺れる。


『それがね! なんでもないって言ってたのにまた仲良さげに話してたの! うう〜……』


唸り声をあげてそれから、なんでもないって言ってたんだけどね、と溜息混じりに付け足す。


『なんか明らかに秘密の会話してるんだもん、私にしたあんなことを他の子にもしてるのかなって思って──……』


あんなこと。うん……剃毛な。


『私じゃだめなのかな、って思ってもう一回してって言ってしてもらっちゃった』


うん、剃毛な!

著しく誤解を招きそうな言い方だな!

私じゃだめなのかな……って! まるで俺が剃毛フェチみたいだろ!


『恥ずかしかった……』


くそ。視聴者が俺だけでよかった。

そんな声を他の男が聞いていなくてよかった。


『もしあの女の子と……アレをしてたなら上書きさせなきゃって私からお願いしたんだけど……やっぱりすごかったよお……』


ドキドキしちゃった──なんて言う彼女の声は熱に浮かされた声で、聞いてて語弊がある。知らなかったらR18だぞこれ。


『恥ずかしさで全然あの子との関係聞けなかったよおお〜……うう〜……』


ああ、確かにそれから全然話さなかったな。

──席も離れてしまったし。

教室の新しい席を思い出していると、スマホの中から小さな鳴き声が聞こえた。


『ねえ、ママ。…………直接電話して、聞いてみてもいいと思う……?』


それと同時に『紅蓮ショータローさんが入室しました』というテロップ。瞬時にカラフルな絵文字のコメントが流れてきた。


『おつっぱ〜! メッ! だよ、葉っぱちゃん〜! 配信時間は分刻みで統一しなきゃメッだよ!』


結○師かと思った。

いきなり話題をぶった斬って現れた。


『し、知らなかった……そうなんですね。すみません……』


スマホの中で俺が描いたキャラクターが謝る。明るくて元気いっぱいなその顔が変わる。


くそ。


──さっきの話だ。

伝われ、と願って、俺は文字スタンプを送信した。送られたスタンプを確認してその声が跳ねて、


『うん! じゃあ配信は切ります! す、すみませんでした〜』


紅蓮ショータローのコメントが流れる前に配信は切れた。


唐突に黒くなったスマホに、画面に反射する俺の顔は笑っていた。


──着信音が鳴ったのはすぐだった。


俺はすぐに応答ボタンを押した。


「もしもし」


『ふあ……もしもし?』


ふあってなんだよ、と俺が笑うと、スピーカの奥で恥ずかしがっているような彼女の気配を感じた。


『こんなすぐ、出ると思わなくて……心の準備が……』


「紫乃からかけてきたのに?」


『え、いや、だって……うう〜……』


さっきの配信と同じ声だ。

犬のような唸り声に笑ってしまう。

配信中にボタンを押した時から、俺はとっくに、準備ができてたよ。


──俺が押したボタンは『いいね』ボタンだ。


「席、離れちゃったな」


『…………そうだね』


「俺、一番前の席なんだけど」


『……そりゃああんないい席だったんだもん、運使っちゃったんでしょ』


「そうかも」


ありふれた会話に彼女の緊張もほぐれたようだ。

昼間の教室でもできる会話を、電波を無駄にして夜の中に垂れ流す。


「…………最初の席が前後じゃなかったら、多分こんなに話してないよな」


『…………そうかも?』


そうだろう、と思う。

教室の中っていうのは不思議で、なんの共通点もない奴がただ近くの席になったっていうだけで話すようになって友達になって──果ては忘れられない存在になるのだから不思議だ。


喫茶店じゃそんなことありえないのに、学校じゃあ席が近いっていうそれだけで運命共同体だ。同じ教科書を開いて読んだり、消しゴムをちぎりあってまで分け合ったりする。

細いシャー芯をもらっただけで命助かったと思ったり──教室の中のなんでもないことはすべて寄せ集めの奇跡だ。


『……やっぱり、そんなことないかも』


紫乃が口を開いた。


『多分、私から話してたと、思う』


まるで確かめるように、紫乃はそう言った。


『タメ口で話してくれるのは、アオイくんだけだったから──……見つけてくれたのは、アオイくんだったから』


……それは俺のセリフだよ。

そもそも俺たちは始業式よりもずっと前に出会ってるんだ。

見つけたのはお前だよ──お前の方が俺を見つけたんだ。


『…………だから、アオイくん……』


鑑賞に浸っていたら、神妙な声で名前を呼ばれた。唾を飲み込む。スピーカーの向こうに聞こえてるんじゃないかと思うくらいいい音がした。


俺だって男子高校生。鈍感な漫画の主人公じゃないんだ──正直。

──正直、告白じゃないかと期待する。


『私以外の女の子の毛、剃っちゃだめだよ』


「なんでそうなるんだよ」


なんでそうなるんだよ。

もっと他に言うことあるだろ、と思うくらいには──俺だって思ってるのに。


『え?』


「いや……なんでもない、それより……」


そうして俺は、桃花と話していた内容は、俺の仕事にまつわることがちょっと知りたいみたいだと簡単に説明した。

仕事とは、投資の方じゃなくてイラストのことだけど。嘘じゃないだろ。


俺の説明に、彼女の頷きは曖昧だったが、一応納得してくれたみたいだ。桃花の話が終わる。


『私だって……年上だけど、また頼っても、いい?』


何をだよ。


「剃毛か」


『剃毛って言わない!』


じゃあなにか言ってくれよ。

しばらく沈黙して、それからゆっくりと彼女の言葉がスピーカーから漏れ出てきた。


『…………ずるいよ。私、お風呂入るたびにあの日のこと思い出してるのに……』


そんなこと言われたら──俺なんてシェービングフォームを見るだけで思い出すようになってしまったんだぞ。

思い出すまいと全く違うメンソール入りに買い換えたんだぞ。


そうやって毛ほどでもないくだらない話を、席が離れた分とばかりに話していた。

魔法が解ける時間が過ぎても、偉大な科学のおかげで彼女の声は消えない。


「…………紫乃?」


いつのまにか、聞こえるのは寝息だけになっていた。


おやすみ、と言ったら電話を切らなきゃいけないわけではないのに、彼女からいつもその言葉はなく。

気がつけば寝息だけになって、朝にはいつの間にやら終了した通話画面になっている。


「……おやすみ、紫乃」


朝を迎えれば、いつのまにか通話画面は切れていた。どちらが先に切ったのかは分からない。

まあ、曖昧なままにしておいてもいいことはあるだろう。

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