白-3


繁華街の夜はタクシーに困らない。

すぐにタクシーを捕まえると二人で乗り込んだ。


「お金……」と気にする彼女をタクシーに押し込んだ。


「気にしないで。俺が歩き疲れただけ」


出してください、と運転手に告げると、タクシーは静かに動き出した。


「どちらに?」


疲れたて聞こえていないのか彼女は俯いている。

家を聞き出すべきなのだろう。けれどどんな理由で彼女が家を出たか分からない手前、今すぐ帰していいかも分からない。

俺の家? ……夜に連れ込むのは問題がありすぎるだろ。男子高校生とはいえ。


「……あの海の近くの高校の前まで」


──それなら後からどちらに転んでも移動しやすい。

学校の前ならタクシーだって呼びやすいだろう。


分かりました、とタクシーが俺たちの学校に向かいだした。どうやら運がいいらしい。ずっと青信号のままで、口を開く間もなく学校に着いた。



「あの小田巻くんかな?」


カードで支払いをした俺に運転手は話しかけた。


多分、あの小田巻です。

名前の書かれたクレジットカードをしまいながら俺は答える。

たまにあることだった。

地元の大人には──特に投資に関心がある人は俺を知っていたから、話しかけることはあった。


「デイトレード頑張ってね」


「今はデイじゃないんですよ」


デイトレードは一日で決済取引を完了させる手法のことだが、今は違う。


「今はスイング……いや、長期保有です」


いいと決めたらなかなか離さない。

これが今の俺の投資スタイルだ。


よく分からなかったらしい運転手は曖昧に笑って、紫乃は首を傾げていた。


「ありがとうございました。……降りよう、紫乃」


俺が言うと、彼女は躊躇いなく俺の手をを取った。


俺たちが降りるとタクシーは扉を閉め、点灯した空車ランプが夜の中に溶けていった。


海の匂いと、彼女の花のような、少し甘い匂い。

ネオンの明かりが届かないから星がよく見える。


「はー、ひと段落だな」


紫乃は確かに軽装だった。白い足は闇の中でよく分かる。綺麗な足だ。──誰のために手入れしたのかと考えてしまう自分が嫌だ。


「アオイくん」


「ん?」


「あの、なんだったの……?」


それは俺への疑問だと分かった。

なんだったの?

あなたは何だった?

茶化されずに言われたそれに、もう誤魔化さずに答えようと思った。


「…………俺、投資家なの」


投資家。

パソコンで株などを買い分配などで利益を得ている人のこと。

そう言えばクリック一つで稼げるんでしょ、と安楽椅子に座ってるだけのイメージで言われることが多く、だからずっと、俺のことを知らない人には曖昧に誤魔化していた。


「株を多めに持っていた会社が、海の家やホテルの他にも、クラブを経営してたから」


俺たちが行った海の家。俺が持っていた割引券。本来ホテルで入ろうとしていたのは株主専用ラウンジだった。人数が多いからと個室を用意してもらってしまったが。


「……夏の営業は浮かれた大学生とかがバカやらかすし、そんなことになってないかなって現状視察」


だから、そう。

あくまでたまたま。

まだ喋らない彼女は俺の話の続きを待っているかのように思えた。


「そしたら…………紫乃を見つけて、同級生がいるつて言っちゃったんだよ。うっかり」


そうだったんだ、と紫乃が言った。


「びっくりしたよ。なんか大人の人に連行されてるんだもん」


その言い方は語弊があるな。


「お姉ちゃん慌てちゃったよ」


いつもは突っかかるお姉ちゃん呼びも──今日はつっかかる気にはならなかった。


「…………楽しかった?」


だから聞けたのはそれだけだった。

今の俺には連れて行けない場所を知ってしまった。


「うーん、衝撃の初体験って感じ」


初体験って。

もっと嫌だった、とか言うかと思ったら……感想それかよ。


「けど、初体験なら…………あっちの方が衝撃的だったな」


あっち?

首を傾げた俺に、彼女は上目遣いで俺を見た。

何も言わないその瞳は子犬のようだ。

その瞳に俺を映して、ゆっくりとその指先が自分の背中を示した。


「ああ」


俺にとっても衝撃の初体験だった。


「剃毛な」


「剃毛って言わない!」


だってそうだろ。

暗闇でも恥ずかしがっているのが分かって、言い返すのはやめておいた。

あんまり思い出すと立っていられなくなる。


「…………夜の学校って初めてかも」


話題を変えたのは紫乃だった。


俺は後ろの大きな建物を見る。

ロケーション偏差値高め、青春偏差値高めといわれる俺たちの高校は、そんな輝きさえも夜の中に眠らせている。

外から見える教室の窓の奥は暗く、聞こえるのは夜風が木を撫でる音と虫の声だけだった。


「俺も」


夜空の星はお互いの顔を照らす程度。

二人きりだった。


「どうせなら」


青春偏差値高い学生らしい提案をする。

俺らしくない、と思う。

──けど、今夜の記憶を上書きさせたかった。


「……プールとか忍び込む?」


「侵入対策でセンサーついてるよ」


すぐに返された言葉に、俺にとっての青春偏差値が下がった。


「卒業式の後の教室で体育の先生が言ってた。秘密にしてるけどプール開きの間はセンサーついてるんだって」


そうだよなあ、どこもかしも今時はしっかりセキュリティしてるよなあ。


「去年の卒業生は捕獲回数一回だったなって笑ってた。毎年卒業間近の三年生がやらかすんだって」


卒業生の捕獲人数は毎年減ってるみたい。

そう続けた彼女になんの漁業だよ、と言いたくなったのを堪えた。

危うく俺が釣り上げられるところだったから。


「先輩っぽいな」


「そうだったもん」


俺は肩をすくめて、紫乃は肩を揺らした。


「お姉ちゃんっぽいでしょ?」


それは。


「…………そうだな」


今日ばかりは意地を張れなかった。

それだけ答えて黙ってしまった俺の横で、彼女が髪を耳にかけた。


「……けど、アオイくんの方が大人っぽかったよ」


「どこがだよ」


いいところなんてまったく見せてない。

劇的に助け出してもなければ、漫画みたいにプールに入ったりもしてない。

格好つく見せ場なんてなかった。今だって、どうせなら海にでも連れてきた方が美しいものを見せられただろうに。


そう思うと何も言えなくなった。

一緒に行こうと連れ出したのに、どこにも連れて行けなかった。


紫乃が黙り込んだ俺の横顔を見ている気がしたけれど、気がつかないふりをした。


「ねえ」


甘い香りが鼻をくすぐったのは──不意に紫乃がその場に寝転んだからだった。


「あ」


おい。


「……アオイくん」


アスファルトの上に、背中の痛さも汚れることも厭わずに寝転んだ。

痛くないか、と聞くと痛くないと言った。

汚れるぞ、と言ったら汚れても構わないと言った。

これでいい、と紫乃は言って寝転んでいる。


長い髪が地面に広がる様は、水に浮かんでいるように見えた。

暗いアスファルト。夜の色の水。


「寝転んでみる価値はあるよ」


同じ景色を見たいと思った。

痛くても汚れてもいいほどの景色を一緒に見たいと思った。


熱いかと思って手をついたアスファルトは存外冷たく、小石が手に食い込んだ。それでも隣に寝転ぶ。


「ほんとだ」


絵になるようなプールでもない。

物語にあるような土手でもない。

ただのアスファルトの上だっけれど、星は綺麗だった。


どこに行ったって星は綺麗なのだ。

誰も見ていなくたって月は昇る。

だけれどそれはありふれた光で、だから俺はそんな光よりも彼女を見たいと思った。


「──紫乃のことを聞きたい」


いつも後ろ姿ばかりだった。

横から見た彼女の顔は、まつ毛の長さがよくわかった。


「紫乃のことが知りたいんだ」


手の届かない空の星を見るより、隣にいる彼女の話を聞きたかった。


「教えてほしい。できれば──どんなふうに過ごしてたか」


今なら誤魔化されないと思った。

二人きりで、同じ空を見ているから。


「……うちの母親が、スナックをやってるのは海に行った時に聞いたよね?」


俺が相槌を打つと、そのまま話し始めた。


「簡単な料理とかをね、元々手伝ってたんだけど、いつの間にか──」


そうして紫乃は話を続ける。


いつの間にか客に求められ接客をするようになったこと。

逆に体を触られることがあったこと。

それでも母親に接客することを求められたこと。

──むしろもっと上手くやれと言われること。


「もっと売り上げが出るようにちゃんと演じなさいって言われるの」


触られるのお前が悪い。

上手くあしらえないお前が悪い。

もっとしっかりしなさい──学費を出してもらいたかったら。


「お母さんは中学出てから、ずっと水商売で頑張ってたんだって。高卒じゃなくても自分の店まで持って成功できるんから、私にも、別に卒業しなくてもいいでしょって」


だから、と紫乃は続ける。


「去年それに反抗したら、学費出してもらえなくって……辞めるしかないかなってところだったんだけど、先生たちが配慮してくれて休学扱いにしてくれたの」


家の手伝い押し付けられてたら単位も出席日数も足りなくて、三年生やり直しになったけどね。

やめなくて済んでよかった、と紫乃は言った。


「その間にお店手伝って……スナックのとして頑張ったら、給与として学費をあげるって認めてくれたの」


そして俺に笑いかけた。

教室で見るよりも、柔らかい笑みだった。


「取り繕ってなんとか、学校行かせてもらえるようになったよ」


──なあそれでいいのか。

そうは思うけれど、答えはそれしかない。

結局子は親に頼るしかない。


それが嫌なら高校を辞めて家を出ろ。

学歴はないが若い体があるだろうときっと世間は言う。

若さはすぐに衰えて、消費されるだけ消費された後に、学歴が必要と言っても助けてくれないのに。


「ああ、今はね、困ってないの! 学校にこられなかった期間は今はお金もらえるから家でご飯も食べられるし」


──それって。

その間、家で食べ物がなかった。買う金も与えられなかったってことか?


「うん。お客さんの食事作りながら自分の分用意して、って。働かなきゃ売り上げないから食費もないよって言われちゃってね」


紫乃の表情は変わらない。

歪んでくれれば、俺だって歪ませられるのに彼女がただ淡々と話すからそれができない。


「頑張ったよ。だから覚えたの──男の人が喜ぶ


高校生の女の子にそれを言われて喜ばない男はいないだろう。

下手な接客だ。けどそれでも若ければそれさえも可愛いと思うだろう。


「他でバイトしようにもそんなの許してもらえないし、バイトしなきゃ家なんか出られないし……

……それでね」


それでねと彼女は秘密を話した。


「在宅で稼げたらラッキーだな、と思って配信? とやらをちょっと齧ってみたんだけど」


たまたま運よくキャラクターの絵を描いてくれる人が見つかってね、と言った。

ああ、うん俺だな。


「そうは簡単にいかないね。ただ、よく話を聞いてくれる女の子がいるから、その子についつい弱音をこぼすだけの場所になっちゃってるんだよねえ」


俺だな。


「あれ? アオイくん?」


「なんでもない」


顔を覆ってしまった俺に、彼女が上半身を上げて俺の顔を覗き込んできた。

心配そうに俺の顔を見下ろす。

──話してたお前の方が痛いだろ。

彼女の肩から髪が一筋落ちて、俺の顔にかかった。


「……なんでもあるかも」


──息が止まった。


先に息を止めたのは俺かもしれない。


「紫乃」


息を止めた。時間が止まればよかった。

星も止まれ。瞬きをするな。

誰も眠って目を開けるな。


「もし──……」


もう星空なんて目に映っていない。

綺麗な景色なんて一緒にいるための口実だったと、もうこの見つめ合った視線でバレてしまった気がする。


垂れてきた髪に触れた。

教室でずっと見ていた後ろ姿にやっと届いた。

まつ毛の先が震えているように見える。

その唇は動きを止めてた。


呼吸を止めたら、きっと重なりやすい。

お互いそう予感していて、それを確かめようとしたその時──


場にそぐわない鳴き声は紫乃のスマホだった。


「ふあっ!?」


軽快なその音は紫乃のパーカーからだった。

驚いた紫乃はパッと俺から離れたし、俺もなんとなく持ち上がっていた上半身を再び地面に戻した。勢いよく頭を下ろしたせいで痛かった。

くそ。


「メッセージ?」


これぐらい聞いてもいいだろ。


「あ、う、うん」


ポケットからスマホを取り出した紫乃の顔が、白っぽい光に照らされている。


「あ、ほら、さっき……配信ちょっとやってるって話したでしょ?」


あ、これ、恥ずかしいから秘密ね。

と、紫乃が指を一本唇に添えた。

俺が確認逃した柔らかそうな感触だ──黙って頷く。


「なんか見てくれてる人からのメッセージだった」


は?

俺を見て答えると紫乃はまた顔を画面に戻した。


え? 誰?

紫乃の──葉っぱちゃんの配信を見てるのはマキだけだろ。


「なんか、また配信してねだって、えへへ」


「…………紫乃」


「ん?」


「今のの、続きは?」


唇が触れそうな距離。


「えっ!?」


紫乃が動揺してスマホを落とした。

俺の近くに落ちたので拾い上げ──こっそり確認する。


『可愛い声がまた聞いたいナ! 配信待ってるよ!』


SNSのメッセージフォームだった。

送り主の名前は紅蓮ショータロー。

くそ。お前か。


「ありがとう」


画面を裏が返して渡せば、彼女はそう言ってスマホをポケットに戻した。


邪魔されてしまったな。

いや、けど──焦ることはない。

漁師は潮を見る──今じゃない。


「帰ろうか」


俺は立ち上がってスマホを取り出す。

帰したくないと思うのは、今日話を聞いたからじゃない。

もっと前に同じ状況があってもきっと俺は思っていた。帰したくない──帰さなきゃいけない。


「帰っても大丈夫そうなら、タクシーで送るよ」


紫乃はうんと言ったけれど、その顔が少し残念そうに見えるのは俺の欲目だろうか。


「…………その前に」


危うく忘れるところだった。


「連絡先を交換しよう──なんかあったらメッセ送って」



***



俺が家に着いた頃にはもう日付が変わっていた。


どっと疲れた気がする。

タイパがよかったかと考えれば、そんなことではない。

コスパはどうだったかと問えばまあそうかもしれない。

ただウェルパはよかった。──あの時間は幸福だった。



寝支度を整えて布団に入って目を閉じた俺を、スマホの着信音が揺り起こした。

なんだよこんな時間に。


海外に行った親か?

そう思ってスマホに手を伸ばした。

画面を見た俺は大きく目を見開く。

それは先ほど登録したばかりの名前だった。


「紫乃?」


『アオイくん』


すぐに出たらスピーカーから彼女の声が聞こえてきた。

配信と同じ声なのに、その声の雰囲気だけがどこか違う。


「どうした? 何かあった?」


俺は彼女を家の──店の前まで送り届けて、家の中まで入るのを見送った。

だから何かあったとするなら、家の中か。

心に風穴が開いて、布団を捲り上げたその時に──


『声が聞きたかっただけなの』


──甘えるような声が耳に溶けた。

紫乃の声が夜を埋めた。

……くそ。

俺が黙ればスピーカー越しに布が擦れるような音が聞こえた。布団の中だろうか。


『もうちょっと』


まだ。


『声が聞きたくて』


まるで布団の中で潜ませるような声だったから、息遣いがよく聞こえた。


アオイくん、と。配信では決して呼ばれることない俺の名前が呼ばれて、寝るとこだったよね、と控えめに言われる。


『このまま電話してていい?』


「いいよ」


くそ。こういう時にはお姉ちゃんぶらないのか──それが素か。

甘いその声は夜に摂取するとまるで毒だ。疲れてすぐに眠れそうだったが、眠気が飛んでしまった。


「……電話してて大丈夫なの?」


紫乃は。

そう聞くと、うん、と鼻につく声で返事があった。


「一人だから」


──いつもそうなのだろうか。

夜に店の手伝いが終わると、そのまま一人で眠っているのだろうか。

彼女の夜の過ごし方を想像して思わず黙ったその時


『ほら、見て』


そう言われてスマホを耳から離した。


『一人だよ』


すると画面に──パジャマを着た紫乃が映っていた。

スマホのカメラをオンにして、布団の中に潜っていた。髪は下ろされていて、いつもより少し幼く感じる。


『アオイくんは、画面つけないの?』


「つけないよ」


『なんで?』


「別に面白くないだろ」


『面白さなんて求めてないけど……』


じゃあ何を求めてんだよ。


『ちょっと顔見て、安心したいだけ……だめ? お願い』


なんだよ夜は甘え上手なのかよ。

ずるいな。

そう言われたらつけるしかないだろ。


『あっ、見えた。えへへ』


えへへじゃないって。

ああけど、画面越しにこんな顔をしていたんだな。

──俺の顔まで見られてるのは微妙だけど。


『今日はありがとう』


いや、別に。かえって邪魔しなかったか、と聞いたのは俺からの意地悪とささやかな期待だ。


『そんなことないよ』


じゃないかと邪推してしまう。

聞いた俺が悪かったな。


『素敵だったよ』


「…………紫乃」


「なに?」


『手抜きがいい』


「え?」


「…………なんでもない」


そういうのは──やっぱり。

画面越しじゃなくて、対面で言うべきだよな。


俺たちは取り留めのない話をして、俺は沈黙にさえ耳をすまして聞いていた。

紫乃の声はだんだんと角砂糖のように崩れて、そのまま寝息になって溶けた。


「おやすみ」


それでも電話は切らなかった。

カーテンの隙間から見える空が白んできていた。


「手を取ってくれてありがとう、紫乃」

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