白-2



紫乃──もとい、葉っぱちゃんの配信ペースは夏休みになって期間が開くようになった。

それでも三日に一度程度は開かれるので、元気に過ごしているようだ。


顔は合わせることはないが、俺のスマホからは彼女の声が聞こえるので、どこか会っているような気分になる。


今日も俺のスマホからわんわんと鳴き声が聞こえる。


『うわああん! 全然会ってないよお〜』


ああ確かに……紫乃からみればまったく会ってないようなものだが。


『学校ないと会えないの〜……うう、さびしい』


まあ、そうだよな、クラスメイトのみんなに会えないよな。


『パーカー返す口実に会えたりしないかなあ……』


……ああもう。

スマホから聞こえるその言葉に、息を飲んだ。

テレビ通話じゃなくてよかった。顔を見られずに済んだ。


『あの海行った日から会えてないし、連絡先だって交換してなかったから、つらいよお〜……』


元気かなあ、としょげる犬耳になんと返事をしていいか分からない。


連絡先を交換しているわけではなかった。


俺は彼女の配信アカウントを知っているから一方的に連絡を取ることはできるけど、よく考えると、彼女は俺の正体を知らない。

連絡したとて、マキママ《女》だから俺とはわからない。

今更正体を明かすのも、どうにも気が引ける。


『なあんで連絡をくれるのは微妙な人なんだろうね…………あ、いや、まあ知ってる人だけど』


──話の方向が変わった。


『元々は同級生なんだけど』


思い出すような感じだが、それは仲が良かった口調ではない。

聞けるなら聞きたい。

だから『そうなんですね』というスタンプを送信した。

ママ、と呼んでから彼女は喋り出す。


『うん、そうなの、この前海に行った時にたまたま会ったんだよね』


あの時声をかけてきていた男のうちの誰か。短髪の男じゃないか、と思ったのは勘だ。

去年同じクラスだった女子から連絡先を聞いたらしく、それから連絡がくるようになったらしい。


『真面目なタイプだった気がするんだけどね〜……はあ〜』


くそ。あの男絶対大学デビューだ。

思い出すのは短髪と日焼けした肌。そしてピアス。

同級生と海で再会。

進学して自信もついたのだろう。そのうえに、紫乃な留年。そりゃあ強気に誘ってこられるわけだ。


『ちょっとね〜……行くしかないかなーって』


なんでだよ。

それがね、ずるいんだよと話し出す。


『今のクラスメイトが大学来た時優しくしてやりたいから話そう? だって。そうやって言われたら──いくしかないじゃん』


犬耳が定められたモーションで動く。

ずるいどころか卑怯だろ──そんな、今のクラスメイトを人質扱いするなんて。


『私みんなよりお姉ちゃんだから、ね』


何言ってんだよ。

なんで言わされてんだよ。

──俺はできるだけその言葉を言わせないようにさせてるのに。

強がらせないようにしてるのに。


『はー、室内だけど人多くて暑いと思うからから薄着できて、だって……ボウリングとかかなあ?』


紅蓮ショータローが入室しました。

悪いなお前、来たばっかりなのにな。

葉っぱちゃんはリアクションなしだ。


『というわけで今から出かけます』


時計を見る。二十二時三十分。

仕事終わりに歩くの疲れるんだよね、と彼女がこぼしたのを聞いて耳を疑う。


こんな遅くに──女一人を、こんな遅くに出歩かせる気かよ。


『上にパーカー着てこっかな? ……えへへへ』


くそ。そんなこと言うなよ。


『気が重いなあ……お願いしたらすぐ帰らせてくれるかな?』


──そんなこと言われたら。

俺は立ち上がって外に出るために着替える。


人が多いって分かってんなら俺なら薄着なんてさせない。

夜に会いたくなっても呼び出したりなんかしない。


俺の服を着た女が他の男に会いにいくなんて──黙って見ていられるわけがない。



***



俺は夜の街に向かって走り出す。タクシーも考えたが途中で見逃すかもしれないと思って泥臭く走ることを選んだ。


街灯は心強い。影は色濃い。でも空気は重たい。

昼間よりも潮の匂いが漂うのは、行き交う人が昼間よりも少ないからだろう。


繁華街に近づくにつれすれ違う人が増えていく。


大学デビューした奴が好きそうなところ。

人が多くて暑いところ。

夜のこの時間帯。

正直目星はついていた。


──クラブハウス。


漫画みたいにどこにいくかひたすら探し回るなんてことするわけないだろ。そんなのタイパが悪い。


目指す場所に近づくにつれ、露出が多い女が増え、煙草を吸いながら歩く男が目につく。香水と煙草、ほんの少しのアルコール臭。もう海の匂いはしない。


ビルの外壁にアルファベットでクラブの名前が書かれている。

一階部分が入り口になっていて、二階のベランダ部分には抱き合う男女が見えた。


ここだ。歩いて行ける繁華街のクラブはここしかない。


ネオンの明かりは足元の影さえ眩むほど。

外からでも重低音が漏れ聞こえるその場所。


入り口には、スーツ姿の体格のいい男が二人立っている。

その間を、ミニスカートの女性と絡み合いながら歩く男が通って行って、扉の奥に消えた。


絶えず人が吸い込まれていくその場所に──茶髪のハーフアップを見つけた。

巻かれていない髪。服の色は俺のパーカーと同じ色。


──紫乃?


人ごみのなかで目を凝らす。声をかけようときたが出遅れた。


紫乃と思われる女の隣には予想通り、短髪でよく日焼けした男がいた。

二人は扉の前の男たちと話すと、中に消えてしまう。彼女が中に入るのを躊躇っているように見えたのは気のせいか。


くそ。


俺がすぐさま扉の前に行くと、スーツ姿の男たちに呼び止められた。


「IDを出してもらえますか?」


「ID?」


「……身分証です」


なるほど、と思ったと同時にしまったと思った。


「十八歳未満の方、および高校生のご入場は出来ませんので」


この言葉に愕然とした。


──俺は十七歳。


年齢確認ができないと入れません、と続けて言われる。

ポケットの中の財布には、保険証はあるがそれを出しても何の意味もない。逆に追い払われるだけだ。


「いや、ちょっと忘れちゃって……」


そんな言葉で通してもらえると思ってなんかいないのに、つい口をついて出てしまった。


案の定、スーツ姿の男に首を振られる。


IDが確認できないと入場できませんので。

入りたければ取りに戻ってください、なければ諦めてください──と言ってきた男は、俺が未成年だとわかっている気がする。


くそ。


入り口から少し離れて、吸い込まれるようにクラブに入っていく人たちを見送る。隣の男が吸う煙草の煙が、やけに目に染みた。


彼女が入れたのは横にがいたからだろう。高校生こどもだと疑われることもない。身分証を出せばその年齢は十八歳──本来なら高校を卒業している学年。


どうすればいい。

どうすればいい──考えろ。

今まで考えて考えて、テクニカルでどうにかしてきたじゃないか。


俺がこうしている間にも、紫乃は中で重低音に細い体を揺らされているのだろう。

…………あの男の横で。


身を以てわかったが入り口でしっかり年齢確認をするクラブだ。中に入って無理やり酒を飲まされることはないだろう。トラブルに巻き込まれる心配もないのかもしれない。


だって彼女は入場資格がある十八歳だ。

もう大人としての資格を持っている。


クラスメイトではあるけれど、俺たちには確かに線が引かれていると気付いてしまった。

年齢という、見えないボーダーラインがたしかにあった。


くそ。お姉さんぶるその仕草をやめさせたいと思っていたのに、俺の方がガキだった。

俺は未成年で、彼女はもう成人。

俺は入れなくて、彼女は入れる。──こんなにも遠い。


俺は紫乃を迎えに行けない。


クラブハウス──。

アルファベットの看板を見る。

なんとか入れる方法はないか。なんとか紫乃を外に連れ出せないか。

スマホを取り出して考えた。


マキのアカウントを使って連絡する?

見てもらえるだろうか。そしてそれは、今正体を明かすということになるのか。

けど連絡したとしても、彼女自身があの男から離れられないと意味がない。


ましてやクラスメイトをダシにする男だ。連絡きたから帰りますと言った紫乃を素直に帰すもないだろう、と思う。


さらいにいかないと。

俺の手で彼女をさらいださないといけない。

俊敏に──穏便に。


足元に煙草が捨てられる。それを捨てた男が踏みつけると、火が消えて煙が消えた。


クリアになった視界で、俺は思い至った。

自分の武器を。

未成年でも通用させていた戦い方を。


スマホの画面でクラブハウスの名前を検索する。

経営する会社は──大手飲食店グループ。

海の家の割引券を出していたのと同じ会社。


そうだ、俺の予想通りだ。



今までも、予想を立てて線を引いて勝ってきたのだ。




俺はもう一度クラブの入り口の前に立った。


「IDは?」


俺が持っているのはスマホだけだ。


「クラブの客として来たわけじゃないんだ」


その言葉に、男たちは顔を見合わせた。


「俺、このクラブやってる会社の大株主なんだ」


そう言ってスマホの画面を見せる。

表示されているのは証券会社の口座。保有している株の社名と数が並んでいる。

普通人に見せるものではないが──今だけは別だ。


「経済誌にこの名前が載ってるの知らない?」


ここでIDを──保険証を取り出す。

小田巻碧──十七歳。


「検索してみてよ。この名前で保有株数が載ってるはずだ」


スーツ姿の男たちは困惑した顔をしている。どうすべきか悩んでいるようだ。


「会計帳簿の閲覧をしに来たんだ。ここは営業時間でしょ?」


持ち株比率が三パーセント以上ある株主は、会計帳簿の閲覧する権利がある。


「だから中に入れてもらえる? もしくは、上の人を呼んで」


でないと──と続けて念押しする。


「株主総会を開いちゃうか、持ってる株を全部売って大暴落させてしまうかもしれない」


俺の名前は検索すれば出たはずだ。

インタビューで報道されたことがある。

『驚きの保有資産を持つ現役高校生トレーダー』という見出しで。



***



父親は普通の会社員。母親もそう。

きっかけはニュースでやってた投資特集。


保護者の同意があれば十八歳未満でも口座を開設することはできる。

中学三年生、十五歳になった日のことだった。


興味があるならやってみるといい、と。両親は俺に今まで溜めていたお年玉を渡してくれた。


最初は少額で、試しだった。

たまたま運よく日本株全体が上がっていて、その流れに乗ることができた。


三万円が五万円になり、五万円が十万円になった。

しかしそこから六万円になった。

もとの三万円よりは増えているのだがそれでも十万円になっていた時もある──ショックだった。

運だけでは勝ち続けられないと知った。


運に頼り切らないように勉強した。


株価を表すグラフ──チャートに移動平均線を引き支持線を引き抵抗線を引き自分のラインを作るテクニカル分析。


株のトレードはそれだけでは勝てなかった。

加えて経済の動きや時事ニュース。心理戦。


効率パフォーマンスよく稼ぐことに俺は夢中になった。


情報収集のために作ったSNSのアカウントで、自分の勉強のアウトプットもかねてやり方や考え方を投稿するようになった。

するとフォロワーが増えていき有名になり、とうとうテレビのインタビューの依頼が来ることになった。


インタビューを受けたせいで学校のやつらにはバレてしまったが、もう三年生になるので上級生から目をつけられることもないだろ──気にならなかった。


両親は、俺の稼ぎ方を見て仕事を辞めてしまった。俺のトレードの利益で海外に家を買って移住してしまったが、株から得られる配当金で十分に暮らしていけるし、両親は楽しそうだし満足だった。


金そのものが幸福ではないが、幸福を手に入れるためには金が必要だ。人生において大切なのはウェルビーイング──幸福だ。


俺は幸福を効率よく手に入れるために今まで戦ってきたのだ。



まあ日経平均の低下やら株を保有していた会社の酒の製造中止やらで他にも金を稼げる方法はないかとイラストを描いてみたが──俺にはトレードの方が相性が良かったな。


まあ、イラストのおかげで思わぬウェルビーイングが手に入れられたのは事実なのだが。



***



クラブの中に入ると、重低音が体の奥まで響いてきた。聞いたことの流行りの曲が何度も同じフレーズを繰り返している。

好きで来ているなら音に溺れられるこの場所は最高だろう。

そうでないなら沈ませてくるようなこの音の揺れはなかなかキツい。


歩けばすぐに肩がぶつかるほど人は多く、人々が放つ熱気が充満していて暑苦しい。

そんな狭いクラブの箱の中を、俺は二人の男に守られるよう歩いている。


入り口の男に呼ばれた別のスーツ姿の男は支配人。俺の話を聞いて焦った男は、とりあえず支配人室に案内すると俺を中に先導した。

その俺の後ろに入り口で俺を追い払った体格のいい男がいる。


表向きは余裕を装っているが、握った手のひらには汗が滲み、足元は音が響くたびにぐらついている。

──早く紫乃を見つけないと。


会計帳簿の閲覧。及び謄写請求の権利。

保有比率が三パーセント以上の株主に認められた権利で、営業時間内にいつでもそれを行使することができる。これは本当だ。

──ただし。


俺は先導する支配人の顔を窺う。

人並みを鬱陶しそうに掻き分けるその顔は突然の権利の行使に焦っているようだった。

……呼ばれたこの男はあまり株のことは分かっていないようだ。とりあえず支配人室に案内して対応を決めるから来てください、と中に通してもらうことができた。



大株主から企業に認められたこの権利。

企業株主に請求された際には、拒否すべき応じなければならない。


しかしそれは株主側も同じだ。

閲覧はできない。


不正がないか経理に疑いがある、とか。代表訴訟に関する調査とか。


本来この権利は書類と理由があって行使できるものだ。


つまり──俺の口頭でその権利を請求するということはものなのだ。


ラッキーだった。何を言っているんだと一蹴されたら終わりだった。それほどまでに俺の持っていた数字は黙らせることができたらしい。


この男が支配人室に行って、について調べてわかるまでがチャンスだ。


バレたらそこまでは知らなかった、で通そう。

俺だって行使することがないとさっきまで思っていた権利だった。


照明の色は目まぐるしく変わって、視界が点滅する。瞬きをした次の瞬間には、俺を守るスーツ姿の男たちが首根っこを掴んできてもおかしくはない。


クラブの中はやけに暑い。肩を出して踊る女に、近付いて話しかけたそのまま、無防備な肌に触れる。

音が俺の頭を絶えず殴ってくる。

中には入れた。

──見つけてどうやって紫乃を連れ出す?


俺の前を歩く支配人が振り向いて大声で話しかけて来た。


「ビップの! 奥を通って! 二階の支配人に上がれます!」


人が多くて空気は煙たい。

アルコールの匂いすら目に見えるようなのに、目当ての姿だけが見つけられない。


早く。早く見つけないと。


音が俺の肩を揺さぶってくるようだ。

人が集まるフロアを抜けた少し奥のソファが置かれ仕切られたこの場所がビップルームらしい。

中心のDJブースとその周りで踊る人々を笑いながら見るにはうってつけのそのソファブースはいくつかあって、テーブルの上にはシャンパンやフルーツ盛りが置かれていた。


階段が近い。……二階の支配人室からでも見つけられるだろうか。

今ここで全員にシャンパンを奢るとか言えば、注目を集めつつ時間稼ぎになるだろうか。

それなりに金はかかる。コスパは悪い。

けどそれでも──コストなんか気にならない。


しかし未成年に酒を売ってもらえるのか?

そう考えて酒を売るカウンターを見ていたら──俺は見つけた。


ずっと見ていた後ろ姿。

長い茶髪。その髪を一房まとめるバレッタを知っている。


紫乃。


その隣いる男は、彼女の背に手を回していた。

短髪に日焼けした肌。それは珍しくもない。特徴的なのは──大学デビューっぽいそのピアス。


くそ。

その背中は──俺が毛並みを整えた背中だ。

俺が綺麗にした背中だぞ。


その背中のラインが、俺が貸したパーカーで隠されていたからすぐに駆けつけなくて済んだ。

すぐに見つけて駆け付けるなんてガキみたいな──犬みたいなことはしない。


「あ、あのカウンターにいる女の子」


──紫乃を見つけてしまえば、もう後はどうでもいい。どうなってもいい。

俺の声のボリュームは普通だったが、支配人は俺の声を聞き逃さないようにしてくれていたらしい。


「俺の同級生だ」


男から紫乃への不評を買わずに引き離す方法。

──紫乃を追放させればいい。


俺の言葉に、支配人が俺の後ろにいる体格のいい男を睨んだ。


「セキュリティ何やってんだあ!!」


丁寧だったのに──これが支配人か。声には威圧感があり、周りにいた人々が一斉に見てすぐに視線を逸らすほどの怒号だった。周囲の空気が少しピリついた。

しかし、カウンターまではこの声は届かなかったようだ。人垣は厚い。彼女は隣の男とカウンターに座ったままだ。


「……いや、セキュリティはしっかりしてたよ。俺だってしっかりID確認で弾かれたしね」


俺は後ろにいるスーツ姿の彼を擁護する。さらに言葉を続けて、入り口で俺を追い払った男の援護をする。


「あの女の子が特殊。十八歳だし、本来なら大学一年生。ただ休学してたせいでなだけ」


ただ彼女は例外だっただけだ。

線の外の存在の、欄外。


「だからセキュリティはしっかりしてた。ただ、うーん……俺と同じ高校生だからなー……ここにいるのはグレーゾーンなんじゃないかな?」


スポットライトの色は目まぐるしく変わるが、その色はグレーになんて光らない。


「評判が下がると株価に影響して嫌だし、帰らせた方がいいかもね?」


俺の言葉に、ちょっとお待ちくださいと言って、支配人とスーツ姿の男が目を合わせた。


「俺も行くよ」


異質なスーツ姿は、この場所の支配人は容易く人垣をかき分ける。


「すみません、お客様──」


支配人の慇懃な声に二人が振り向いた。


「紫乃」


名前を呼べば、なんで、とその顔が聞いてきた。

大きな目。スポットライトの点滅に合わせて光る艶のある唇。


横にいた短髪の男も間抜けな顔をしている。

後輩である高校生の俺を見てこう言った。


「ガキは入れないはず」


「ガキと違って遊びに来たわけじゃないから」


ガキだってできる戦い方があるんだよ。

俺は武器を持っていた──だから大人と戦えた。


「紫乃。出よう──一緒に」


だから彼女に手を伸ばすことができる。


「行くな、紫乃」


短髪の男が立ちあがろうとした彼女の腕を掴んだ。

未練がましい。

そうやって手を掴みたかったなら、なんでクラスメイトだったときに──手を伸ばせばすぐに触れられたときに掴もうとしなかった。


男は行かせまいと彼女の細い腕を掴んでいる。

俺はその手を無理に引っ張らない。

引っ張られると痛いと、大岡裁きで知っている。


引き寄せたい。だけど痛がるから引っ張らない。

こういうときの戦い方は──相手に手を離させること。


「悪質なナンパは出禁にされますよ。……ねえ、支配人?」


この言葉で手を離してくれるくらいには愛していたのか。

こんな言葉だったから、なにより愛しているのは自分の身なのか。

短髪の男が彼女の手を離した。


「この女性には退出をお願いしたいので」


──とにかくこれで、遠慮なく彼女を引き寄せられる。


「いたくない場所に無理にいなくていい」


抱き寄せた背中の細さを知っている。

服の中に隠れたきみを、俺は知っている。


こんな騒音の中じゃ、顔を近付けないと声を届かせられない。

俺のこの言葉は彼女にだけ聞こえればいい。


「俺と行こう」


ここを出よう、と耳元で言えば、うん、と頷く声が聞こえた。


俺にだけ聞こえたその声は、スピーカーごしに聴く声よりも甘かった。



***



こんな事態だしまた必要があれば来ますね、と俺は誤魔化して笑いかけた。


「しっかりとした経営をしていると確認できたので満足したし、とりあえずいいかな」


ありがとうございます、と俺に頭を下げるスーツ姿の大人の男たちに、短髪の男も紫乃も驚いている様子だった。


「じゃあ、ガキはガキらしくお家帰ります」


先輩に頭を下げてクラブを出た。

彼女の背中を抱き寄せる

俺のパーカーから彼女の甘い匂いがした。

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