白
夏休みは学生にとって稼ぎ時だ。それは俺も。お盆を除き、一般的な高校生と変わらない。
高校三年生。
金にしろ勉強にしろ、青春と偏差値の稼ぎどきの夏。
窓の外からは青々とした木々が見えて、空と海の青が良く映える。
カーテンを開いて見えたその季節に、俺は眩しさで目を細めた。外に飛び出したくなるような景色。
──やっぱりクーラーの効いた部屋が至高だな。
別に引きこもりというわけでもないが、無駄に外に出て消耗することもない。
夏休みに入ってまだ三日。
貴重な時間を活かして、俺も出来る限り稼いでおこうとパソコンに向かっている。
俺のバイトは家の中で完結することがメリットだ。もちろん外に出ることも大事なのだが。
こんな暑い夏に、用事もないのに外に出る必要もるまい。
クラスのみんなで海に行こうと約束した日は、夏休み前半。
あと数日に迫ったそのイベントの準備は、青春ヤローであれば買い出しやら遊ぶ予定を立てるやらで忙しいだろう。
あいにく俺はそうじゃないので、水着は通販でサクッと購入したし、やる予定の花火などの準備はクラスのヤツらが準備している。
──というわけで。
夜。配信の通知がきて俺は配信画面を開く。
……クラスメイトの動向と、自分が描いたキャラクターなんだから、気になって当然だろ。
紅蓮ショータローがコメントする。
『葉っぱチャン!水着は買えたカナ?』
ああ、えーっと。
そう前置きしてから、犬耳の彼女は喋り出した。
『ちょっと忙しくて……まだ行けてないんですよ』
『買ったらレポしてネ! ナンチャッテ』
画面越しですらそのクセが強い文字列に顔が引き攣った。
何がナンチャッテだ難がありすぎるだろ。
そうですか、なんて流せる彼女のおおらかさに少し驚く。……いや、おおらかさとは違うのか。
『まあ、当日遊び行く前に買いに行くことにします』
まあ昼過ぎだしな。前に言っていたチダキュー百貨店なら海からも遠くないし、それで十分だろ。
彼女は紅蓮ショータローのコメントに答えた後、今度はひとりごとのように呟いた。
『クラスの子に会えたりしないかなあ〜……ずっと顔も見てないし……声も聞いてないんだもんなあ……』
……まあ、夏休みは、クラスメイトにはなかなか会えないよな。
『せっかく名前で呼んでもらえるようになったのになあ……』
その呟きに、思わず額を抑えた。
紅蓮ショータローのコメントが入る。
『オ! クラス仲が良いのは良きことカナ!?』
くそ。まあ──そういうことにしてくれ。
そうじゃないと──彼女の言葉と同じ気持ちになってしまう。
海に行く前に、あの百貨店に行けば会えるんだろうか。なんて考えてしまう。
けど──タイパ悪いからな。
だから俺が彼女に会うのはみんなと同じ時間。海に集合したタイミングだ。
海に行く日の朝、俺のスマホが着信音を鳴らした。
クラスのヤツからの電話だった。
***
「どうした、朝早く」
約束の時間は午後だろ、と電話口に言うと、ヤツは「それがさあ」と困ったように話し始めた。
「持ってく予定のバナナボート空気入れてたらさ、穴空いてたんだよね」
ああまあ、そういうことは多々あるよな。
相槌を打つと「だからさあ」と続けてきた。
「だからごめん! アオイ買ってきてほしい!」
なんでだよ。
「チダキューの割引券みたいなの持ってるだろお前!」
それに近いだろう、と距離と時間を言われれば、まあその通りなのだけれど。
「クラスの女子をバナナボートに乗せたいだろ!?」
それはわからんけど。
──楽しみにしてたもんな。
一人の女子の顔を思い浮かべて、何も言えなくなってしまった俺も、大概男子高校生だ。
というわけで、俺はこのローカル百貨店に来ている。チダキューといえば、このチダキュー百貨店しかない。
家からここへ来るまでにそうとう汗をかいてしまった。前髪から落ちる汗が目に入って、いっそう地球温暖化が憎くなる。
ローカル百貨店らしく、そこまでのハイブランド店は入っていない。昔ながらの地域のためのお店という側面を持ったままの百貨店。
中はクーラーが効いていて、世界が変わったように涼しくて快適だ。最後に一度汗を拭いて、どのあたりにバナナボートが売っていそうか確認する。
……季節用品が売ってそうな催事売り場は上の階か。
館内は様々な人で賑わっていて、この時間に小学生なんかを見ると夏休みだということを実感する。
エスカレーターに乗って、目的の階で降りる。
つい周囲を見てしまうのは──知り合いを探してしまうとかじゃない。
そんな俺の肩が、後ろから叩かれた。
「わっ!」
「えっ?」
驚いて振り向くと、そこには──
「え……誰?」
まじで知らないおじさんだった。
本当に知らない。腕の太い、全体的にふくよかなおじさん。
そんなどこにでもいそうだが知り合いではない中年男性は、俺と目が合うとにっこりと笑った。
「あの小田巻くんだろ〜!?」
……なるほど、俺を知ってる人か。
俺は知らないけど、俺を知ってる人。
「多分あのです」
そう言って俺が笑うと、俺の両手をとって勢いよく上下に振った。
「いやあ! 会えて嬉しいよお! ぼくもねえ、きみに憧れて始めたんだよ!」
「それはまあ、光栄です」
俺は知らないのに、相手は俺を知っているというのはなかなかゾッとするときもある。
こうして好意的に話せば安堵で胸を下ろせるが、ただヒソヒソ言われるだけだと疲弊する。
この対応はいっそ清々しくてありがたい。
心臓には悪いけど。
「ああ、ごめんね、びっくりさせて。あの通り沿い銀行の近くで酒屋やってる、怪しいモンじゃないよ」
そうなんですか、と好青年っぽく返事を打つと嬉しそうに続けた。
「いやあ、なかなか難しいねえ。いいお酒あげるから教えてよ」
「どんな銘柄、ですか?」
「わははは! 酒屋ジョーク!」
未成年にわかりづらいわ。
酒なんかもらっても飲めないぞ。
とはいえ感じのいいおじさんで、それから少し話すと「応援してるよ」と肩を叩かれた。
はあ、どうも、と返事をして手を振って別れる。
……インタビューなんて受けたのは一度きりだし随分前なのに、わかる人はわかるんだな。
やっぱり学校の外で俺のことがわかるのは中高年が多めなのか。
なんとなく考えながら、売り場に向かって進む。
浮き輪や水着などを売っている売り場を見つけて、賑わう人々の隙間から棚を睨んで、頼まれたバナナボートがないかと探す。
周囲にいる人々に見知った姿はなかった。
それに別に落胆なんかしていない。
……バナナボート、あった。
見つけた箱を持って、数人並んでいるレジの最後尾に並ぶ。前の人たちが買おうとするものを見ながら、やっぱりまた周囲を見てしまう。
……それは、さっきみたいに俺のことを知ってる人がいないか気にしてるからであって、別に俺が知っている人を探しているわけではない。
レジの近くには試着室があって、開いた試着ブースに中肉中背の男が入って行った。
男の試着シーンなんて興味ない。
いなかったな。なんて、気落ちしたほどでもないが──足元を見る。
バナナボートの箱を持った俺の肩が、ふと叩かれた。
「はい?」
今度は同じおじさんか違うおじさんか──顔を上げて振り向く。
「わっ」
同じ文字なのに、まったく違う声。
「紫乃」
久しぶりに見る甘い垂れ目。その目は笑うと、砂糖が溶けるように細められた。
「びっくりした? ううん……してなさそうだね」
それは、茶髪をハーフアップにまとめた、俺の同級生だった。俺が名前を呼んだら、えへへと笑って、長い髪を一筋耳にかける。
「アオイくんも、この後用の買い物?」
俺の持っている箱を見てそう言うので、そうだと頷く。
「持ってくる予定のヤツのが、穴が空いてたみたいで」
「あるあるだねえ」
沈黙。
前の人のレジが終わって、また一人分前に出る。
紫乃の後ろに、順番待ちがまた一人並んだ。
何買うの、なんて俺は聞かない。あからさまだからだな。
紫乃が後ろ手に隠すように持っているのは、ハンガーにかかった水着。
……どんなのだろ、なんて考えてしまうが、まあ後でわかることだ。
「次の方」
店員が手を挙げて呼んだ。レジが空いたようだ。
俺の後ろに並ぶ紫乃を伺うと、どうぞ、というように手を広げた。
彼女が買うのは──甘い水着なのかそうじゃないのか。どちらにしろ、
「……一緒に済ませた方がタイパいいな」
だってそうだろ。
レジカウンターにバナナボートの箱を置いた俺は、列に並ぶ紫乃の名前を呼んだ。
「一緒に払っちゃおうか」
「え!? いやいや、いいよいいよ!」
「割引券あるし、その方がコスパいいだろ」
列に人も並んでる。その方がタイパだっていい。
店員さんは俺たちの動向を待ってくれている。
その様子を見て紫乃が折れた。
「……じゃあレジの後お金渡すね……」
店員がバーコードをスキャンしたその水着は──多分甘めだ。
一応あんまり見ないようにはした。
***
買い物を済ませてしまえば、もうここに用はなかった。余裕を持って買い物に来たので、海で集合するまでまだ時間はある。
「遊ぶ用の水着、高校生になってから初めて買ったなー」
会計を済ませてから、なんとなくそのまま横に並んで、俺たちは百貨店を出た。
「そうなんだ」
「うん。なかなか遊ぶ機会がなくてね」
それは大変だっただろうな。
俺は出会う前の彼女が、どんな夏休みを過ごしていたか知らない。
なんと相槌を打てばいいか分からず「まだすこし時間あるな」とスマホを見て言葉を返した。
クラスの奴らとの集合時間には早すぎる。
どうしようか、なんて──我ながら答えの見つからない質問を投げると、紫乃の口が開いた。
「あ」
感嘆符一つ。
閃いた。または思い出した。というような声。
「やばい……かも」
どうした。
「いや、その…………水着を着るにあたっての下準備が足りなくて…………」
なんだそれは。
そして配信を思い出し
……思い当たることはあっが、聞きはしない。代わりに出すのは提案。
「……うち来る?」
「ふえっ!?」
そんな漫画みたいな声出るんだ。
「うち、近いし両親もいないから、気ぃつかわず使ってもらえると思う」
どうする?
そう聞いたら、えええ、とか、んんん、とか唸り出して、髪を耳にかけながら俺を見た。
「お、お姉ちゃんまだそういうの早いと思うんだけど……?」
「十八歳はもう成人だろ」
それに帰りづらいって言ってただろ、とは言わないでおく。
「ま、俺はまだ未成年だからなんかあったら逆に紫乃の責任になるんじゃない? ……お姉ちゃん?」
「う、うう……可愛くない」
上目遣いで言われても火に油だ。
お姉ちゃんなんて言い出したのはお前だろ。
学校では見られないその顔に、慌てて手で緩んだ口元を隠した。
まあ、と切り出せばちゃんと俺を見る素直な目。
「それに、家に帰るよりもうちの方が早いしどう? ってただの親切心」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
歩き出した彼女に、こっちだよ、と俺も進み出した。その姿は犬のようで、リードがないからどこかに行かないか少し心配で、けどしっかりリードすれば、素直についてきてくれた。
***
「ねえ、アオイくんっていいとこの子なの……?」
「や。別にそんなことないけど」
気まずかったエレベーターを降りて、家のロックを解除して扉に手をかける。
「はい、どうぞ」
「お邪魔しまー……ひ、ひろいね〜!?」
彼女は靴を丁寧に揃えてリビングに上がると、迎えられたばかりのペットのように部屋の中を見まわした。
「テレビこれ!? おおきっ! うっす!」
まあ確かに大きさはあると思うけど、今時のテレビの薄さはこんなもんじゃないか?
「うちのテレビ分厚いし地デジ映んないよ……基本カラオケにしか使わないしね……」
今時そんなテレビある? カラオケってなんだよ。
「ねえ、アオイくんのご両親ってすっごいお金持ちなの? 前も、確か……」
「いや、両親は普通の人だよ。まあちょっと自由すぎるけど」
「けどこんな家住めるなんて、どんなお仕事してるの?」
「…………うちの親は無職」
え!? と固まる顔は予想通りだ。
またまた〜、と左右に振られる手も予測の範囲内。
「ほんと」
「どういうこと? 学校でも有名人みたいだし」
どう話そうか──どう知ってもらおうか。
俺は選べる。
「まあちょっと、SNSで有名になってインタビュー受けたことがあるだけだよ」
イラストのアカウントの他に、元々別のアカウントを持っている。
それは
「もしかして、小説家さんとか、大ヒットしてる漫画家さん?」
「残念」
小説はウェブレベルだし漫画なんて描けもしない。せいぜい一枚の立ち絵を描くのがやっとだった。まあ、絵ということなら──紫乃と知り合ったアカウントに関しては当たらずとも遠からずだけどなあ。そっちはフォロワー全然いないけど。
「まあ、そうだな。努力家ってことにしておいて」
なにそれ、と顔に疑問符が浮かんでいる。
けどもう、この話題は終わりだ。
「ほら、準備するんだろ? 日焼け止めでも塗るんだろ……鍵閉められる風呂場使いなよ」
「あ、う、うん」
日焼け止めを塗りたいわけじゃないのは分かっていた。
それでも俺からそう言わないと、自然な流れで風呂場は貸せないだろ?
風呂場に案内して簡単に使い方を教える。
鍵閉めろよ、と言ってタオルを渡す。
「……覗きたい?」
「いっていいんだ」
「……冗談だよ!」
脱衣所の扉を思い切り閉められてしまった。
悪かったな。
──休みの日に会えるなんて、特別だから。
久しぶりに顔を見て浮かれてしまったなんて、そこまでは言わなくていいだろう。
自分の支度をしていたら風呂場の扉が勢いよく開かれた音がして、リビングに彼女が現れた。
「ねえ! ここ、お風呂場に鏡ないの!?」
「え?」
家の中に不釣り合いな水着姿。
白いビキニタイプの水着に、いつものハーフアップ。水着についている大ぶりのフリルは華奢な体つきを引き立たせて、掴みやすそうな肩や腰のラインの細さがよく分かる。
「あ、ああ……髭剃るのとか、洗面の鏡で十分だし」
「まあ確かに分かるけど! ちゃんと掃除するんだね!? お姉ちゃん感心したよ!?」
それはどうも。
あまりの狼狽えっぷりにキャラもブレブレだ。
鏡がないくらいでそんな騒ぐことか?
浴室の鏡は、大して使わないくせに掃除の手間がかかる。すぐに曇って見えなくてなるし、石鹸垢や水垢は落とすのが大変だ。
「浴室の鏡はタイパ悪いからな」
「ああそういう人だった……」
どういうことだよ。
そんなに鏡が使いたいのか。ないと困るか?
メイクとかなら洗面台の鏡で済むだろう。
「っていうか…………水着」
「あ、あ──……」
自分の姿を見下ろして、恥ずかしくなって手で隠すと思いきやフリルの部分を指先で持って俺に笑いかけた。
「せ、センスあるでしょ? どう?」
さしすせそ。無理がある。
本当は隠したいぐらい照れてるだろ。
……それならそれで見ていいってことだな。
「……それが甘めってやつ?」
全然甘くないだろ、露出はハードだ。
「そ、そうだけど……知らなかった?」
「……さすがに見すぎだよお……」
「すごくいいじゃん」
別にどこもおかしくないし、下準備とやらが必要な感じには見えない。
配信中に聞いた人に言いづらいコンプレックスも、なんとも感じない。
「鏡必要? いいじゃん」
「いやその……鏡がないと見えないんだよね……」
…………何がだ?
視線をやると、もじもじしながら喋り出した。
「せ、背中の……うぶげ……」
彼女が長袖長ズボンの理由。
女だけだと思ってるマキママ一人だけが視聴者の配信で明かしていたその理由は
「わ、私…………け、毛深いタイプで…………」
──毛深いことだった。
顔を赤くしたまま、彼女は続ける。
「ただでさえ、届きにくいのに……鏡がなきゃ、ぜ、全然見えない………」
お願い、と溢れた声は小さかった。
濡れたようなピンクの唇から落ちる言葉は雨みたいだった。
「…………わかった」
俺は結んでいた口を開いた。
「鏡、すぐにつけられるの!?」
ぱあっとその顔から雨が上がった。
鏡はもう撤去してしまったし、貼り付けるタイプの鏡なんてものもない。
「……俺にやらせて」
晴れた顔が──曇る。
だって、願いを叶えるにはそれしかないだろ。
「俺に紫乃の背中の毛剃らせて」
「…………えええええ!?」
教室では聞いたことがない声量だった。
彼女は目を白黒させている。
「や、あの、ちょっとお姉ちゃんそういうのは……えーちょっと厳しいかな〜?」
「なんで? お姉ちゃんなら平気だろ?」
俺は浴室の方に向かう。剃刀はあったな。
「え、え? ほ、本気?」
「本気だけど」
「さ、さすがにそれは……」
「え? 困るんだろ?」
浴室の床は濡れている。
さっき彼女が使ったせいだ。ぺた、と足に吸い付く水がリアルだ。
「ほら、おいで」
もうお姉さんぶる余裕はなさそうだった。
その様に満足する俺は性格が悪いだろうか。
床につく足音。水に濡れる二人分の足跡。
浴室に大人二人は、狭い。
気をつけばぶつかりそうだ。その柔らかそうな肌に当たりそうだ。
「ここ、座って」
俺が浴室の椅子を差し出すと、何も言わずに彼女が座った。
水着ではっきひとした下半身のラインが椅子の形に変わる。
「う、う〜……」
何も言わずに細い腕で髪を持ち上げて、俺の前に背中を剥き出しにした。
浴室の電気は薄暗くて、紫乃の背中が鮮やかに白い。
ハーフアップでいつも隠れていたうなじが。
制服を着ていたその背中が……俺の家の浴室で暴かれている。
「こんなことされたことない……」
「俺も」
したことないよ。
許してもらえたことが驚きだ。
──呼吸を整える。
「……じゃ、いくぞ」
「ちょ、ちょっと待って!? それ男の人の髭剃るやつだよね!?」
俺が持っているのは、髭を剃る時に使うシェービングフォームだ。
「ああ。毛だからこれでいいだろ?」
「え、や、やだ! なんかやだ!」
「だって何もつけないと肌が傷つくだろ」
毛を剃る時って滑りを良くするためにも、泡みたいなの使わないのがあったほうがいいはずだ。
「…………せっかく綺麗な肌なのに」
「じゃ、じゃあ、じゃあせめて! ボディーソープにしてっ!! お願いだから!」
俺が譲歩するしかないようだ。
「……分かったよ」
俺の声にほっとしたようだ。
ボディーソープのポンプを押して、両手で泡立てる。
いつもなら気にならないのに……ボディーソープってこんなにぬめりけがあったっけ。
長い髪を両手で前の方で押さえた、その無防備な体に手を伸ばす。
触れていいのか躊躇う。
これまで当たり前のように見てきた彼女の背中なのに、まるで別の存在のようだ。
その背中にはか弱い水着の紐一本だけ。
──意を決して触れた肌は思った以上に柔らかかった。
「ひゃあっ!」
…………そんな声出すなよ。
「ぬ、ぬるぬるする……」
「当たり前だろ、石けん《ソープ》なんだから」
「ううう〜っ……」
「……あのさ、紫乃」
「なに?」
「紐…………解いていい?」
「ううう〜〜〜っ」
「い、いいよ…………アオイくんなら」
その言い方はやめろ。
漫画の主人公じゃないんだ、俺ははっきり性欲があるんだぞ。
名前で呼ばせてることを後悔しそうだ。
背徳感がすごい。
俺はその水着の細い紐に手をかける。泡のついた手は滑ってほどきにくい。
「く、くすぐったいよう……」
俺だってその浮き出た背骨に触れてしまうのはわざとじゃない。
一刻も早く浴室から出ていきたいんだぞ。
「…………しっかり抑えてろよ」
「う、うん」
解けた紐を背中から落とすと、紫乃の肩に力が入った。留めるものがなくなったその水着を、頼りない細腕で抑えている。
何も纏っていないその背中は細くて、今まで見てきたどんなラインよりも綺麗だった。
ボディーソープの白濁した液と細かな泡が着いていて目を逸らしたくなる。
けれど、俺は今この背中から目を逸らすわけにはいかない。
剃刀を握った。
「……痛かったら、言って」
「うん……」
俺が手を動かしたラインに合わせて白い石鹸から肌の色の背中に線を作っていく。
ただ剃るという行為をするだけなのに、この瞬間、俺は一歩踏み込んでしまったのだという実感があった。
「…………大丈夫?」
「…………うん」
男がそれをするよりも、音は小さいんだな。
紫乃の少し荒い息が聞こえるほどだ。
ヒゲ剃るときと違って、しょりしょりいわないんだな、とか。
滑らかな体の輪郭とか。服の下に隠されていた知らなかったことを知ってしまう。
……細い背中なのに、小さな剃刀は思ったより時間がかかった。
「俺のつけていい?」
「はいっ!?」
紫乃が首を動かして俺の顔を見た。お湯など出していないのに、その顔は湯気に当てられたように赤かった。
「や。……俺のシェービングフォームと剃刀」
「や、やだあ……」
「その方が早いって」
多分。
「そんな大きさ変わんないでしょ……?」
「や。俺のの方が大きい気がする」
「…………うう〜……勝手にして……」
また前を向いてしまって、その顔が見えなくなった。しゃがんでいるからいいが、こっちを見ないでくれる方が正直助かる。
「分かった」
俺はシェービングフォームを手に取って、紫乃の背中に出した。
噴射する時のその音にその小さな背中が跳ねた。
「大丈夫」
白い泡が背中に模様を作る。
この方が先ほどよりも剃りやすそうだ。
さっきはボディーソープと女用の剃刀だったから……剃り残しがあるかもしれない。
俺はその背中を隠すように泡を広げた。
「うう〜……」
「
「な、なんかやだあ〜……」
浴室に鳴き声が響く。
「うう〜……やめてぇ〜……」
「やめない」
俺が剃刀を動かすと、白い泡が肌色の道を作った。
「最後までする」
お願いされたら責任取らないとな。
「──終わったよ」
…………というわけで、背中が終了した。
浴室は入ってきた時よりも暑くなった気がする。
なぜか俺よりも紫乃の方が息が上がっている。
「……紐、俺が結ぼうか?」
ずっと腕に力を入れていたのだろう、腕に隠れる胸元から垂れ下がった水着の紐は心臓に悪い。
「じ、自分でできる……っ」
「そっか」
気がつけば結構時間が経ってる気がする。
急がないとな。
俺は背中の紐を結ぶ紫乃の前に回った。
しゃがみ込んで白い足に手を伸ばす。
「じゃあ次、足だな」
「あ、足の指はもうしてあるっ! ちょっと待ってて!」
バタンと風呂場の扉が閉められた。
足の指なんて言ってないだろ。
……くそ。男子高校生らしい欲望を我慢したのに。
***
「あ、戻ってきた」
逆に俺が待たせてしまったみたいだった。
トイレから戻ってきたリビングに、ティーシャツ姿の紫乃がいた。
「…………お疲れさま」
少し気恥ずかしそうに俺に言った。
着替えたのだろうかティーシャツを着ている。
あ、違う──水着の上にティーシャツ着てるだけだ。意識してしまっているからか、その白ティーシャツの下から透けて見える気がして気まずい。
いつも制服の長袖ブラウスで隠されている二の腕も、その肌色にさっきまで触れていたせいで目を逸らせない。
「……紫乃、よかったら俺のパーカー着る?」
「え? なんで?」
日焼け防止だのなんだの適当に言って差し出すと、彼女は素直に着てくれた。
「それ、今日一日貸すから。それ着て行こ」
ありがとう、と俺のパーカーを着る姿に──ああこれはこれでいいなとか、男子高校生らしいことを考えてしまった。
待ち合わせ場所に向かっていく道では、正直会話はほとんどなかった。
だんだんと歩く道にきめ細かい砂が落ちていることが増えて、やっと海辺に着いた。
サンダルに入ってくる砂を踏んみながら海の家の近く向かうと、もう既にほとんどの奴らがいた。
波が砂浜に打ち寄せては引いていく音が、俺たちを迎え入れる。
「紫乃さーん!」
「アオイー!」
俺たちはお互い友人たちに呼ばれて、それぞれの友人に合流した。
「……ありがとね、アオイくん」
こちらこそ。
海の家の近くには同じ系列のホテルもあって、海辺はサーフボードを持った地元民や学生ではなく、レンタルパラソルを持つ観光客も多く賑わっている。
夏の日差しがジリジリと肌を焦がす。
更衣室から水着姿で現れた女子に野郎どもは歓声をあげた。その歓声を聞くと満足げに紫乃を含む女子たちはビーチバレーをしにいった。
一人だけパーカー着ている紫乃は異質だったが、俺としては大満足だった。
「やー……クラスメイトの水着姿っていいな……」
「わかる。他人じゃなくて、普段制服着てる奴な……」
俺たち男子はバナナボートや浮き輪に乗って海を満喫している。アホな会話も海の上ならしょうがない。俺も浮かれた浮き輪に身を任せている。
アホなヤツが浜辺でビーチバレーをする女子たちを見て呟いた。
「……紫乃さん、パーカー脱いでくんないかなー……」
俺が渡した俺のパーカー。
その中にある背中の毛も俺が剃ってやった……見せつけられなくて悔しい気持ちもあるが、隠されたいることで安心感もある。その白さを増した背中が誰にも見られなくてよかった。
「わかる。けどオーバーサイズで下何も履いてなさそうでそれはそれでよくね?」
くそ。ジャージのズボンも渡せばよかった。
あんまり見ているとこのアホなヤツらと同罪にされてしまう。
俺は青い空に浮かぶあの雲の形でも考えることにする。……うん、オオサンショウウオ。
小さい丸いふたつついた形はネズミかな……。
海の揺らぎに少し眠さを覚えてきた時に──
「あ、やばい…………女子」
──男子の一人が気がついた。
「どうした?」
「女子が男に絡まれてる」
その言葉を聞いて俺も目を凝らす。
浜辺を見ると、確かに女子たちに近寄る数人の男たちがいた。
助けに行こうぜ、と泳ぎ出そうとしたのはすぐだった。
「ちょっと待て」
浜辺の様子を見ていた一人の動きに、俺たちは動きを止める。
「あれ、俺が進学希望の大学に行った先輩だわ……」
女子たちに話しかけている数人の男たちは、どうやら顔見知りらしい。
「あ、その隣のは卒業した部活の先輩」
「うわー、OBかよ……」
角が立つなあ。
一人がそう言った。それはその通りだ。
俺たちには未来がある。やりとり次第ではこの先不興を買ってしまう恐れがある。
「女子たちも気づいてるだろ」
上手くやれるだろ。
やってくれ。願掛けのような言葉。
「……
女子たちを庇うようにしつつ、先頭で話しているのは紫乃だった。話してる内容までは分からない。
同級生だから、普通に世間話かもしれない。
嫌がってないかもしれない。
「けど」
今は俺たちが誘った、俺たちの仲間だ。
「俺たちの連れだろ」
だから迎えに行くしかない。
「俺なら部活も入ってなかったし進学とかも分かんねーから……ちょっと行ってくる!」
俺は一人で急いで浜辺に向かって泳ぎ出した。
「紫乃ちゃん、学校戻れたんだ! オレずっと心配だったんだよねえ」
砂を踏むと、そのょうし良さげな声はよく聞こえた。
「先に卒業しちゃったの心残りで、こうやって遊べなかったから、これからさ──」
「お疲れさまです」
俺は笑う。怒ったり泣いたり、そんな表情よりも笑顔の鎧の方が強いことを、俺は知っている。
案の定、表情を窺うような下手に出る俺の言葉に、先輩方は怒らなかった。
「おう……? 後輩か?」
紫乃の一番近くにいるリーダー格の男だった。
在学中は野球部だったのか、髪は短髪だ。
ピアスの数がやたら多くてその髪型との相性は悪い。
……よくもまあ自信満々に女子たちに話しかけられるもんだ。
「はい。先輩、僕帰宅部なんで存じ上げず、申し訳ありません」
会えて光栄です、と頭を下げれば、おう、と少し戸惑いつつも視線を俺に移してくれた。
「お話伺いたいのは山々なんですが、すみません、予約してある場所の案内時間になったんで……」
紫乃に視線を投げると、俺の意図をキャッチした紫乃が何度か頷いた。
「ほら、行こっか。すみません、失礼します」
女子たちに離れるように促して、それから俺自身も距離を取る。
暴力沙汰になるとは思わないが、まあ少しだけ煽りたいので念のため。
「あのホテルにいい感じのラウンジがあるんですよ…………まあ、誰でも入れるわけじゃないんですがね」
「…………調子乗ってる?」
俺の言葉に、先輩たちは一瞬だけ鋭い目を向けてきた。その視線に負けじと俺も笑顔を崩さずに応じる。少しの緊張が浜辺に漂った。
これ以上の話し合いは避けたい。
「いえそんな。普通の大学生の先輩の上に乗れるなんて、まったく思っていませんよ」
心配そうな紫乃の背中をそっと押した。
──離れろって。
「では、僕たちこれで失礼します」
──漫画みたいにはいかない守り方なんだから、あんまり見られたくないんだよ。
けどこの守り方が一番、タイパがいい。
俺はまだ海上にいる奴らにあっちだと手を振って合図を出して、女子たちと男たちを離すように歩き出した。
大丈夫? と声をかけると、その場を離れた女子たちはやっと口々にこぼした。
「先輩だったし強く言えなかった……」
「大学で会うかもしれないからね……」
やりきれないな。
──一年二年だろうと、先に生まれた相手に、俺たち学生は逆らえない。そういう枠にはめられるから。
「けど、紫乃さんが進んで相手しようとしてくれて……」
「同級生で、知らない奴ではないしね……まあ仲良いわけじゃなかったけど」
紫乃が不安げな女子たちに笑いかけた。
「そりゃあお姉ちゃんだもん! 可愛いみんなのこと守るよ〜」
「……守られたくなった時はちゃんと言えるのかよ」
──枠にはめられた分、庇護されるべきだろ。
守られたい時に声を上げないと、枠の外から手を伸ばせないことを……彼女はわかっているだろうか。
「お姉ちゃんなんだからだいじょーぶっ!」
「女の子だろ」
分かってないな。
「言えってば。年下だって男だぞ。それに……」
途切れた言葉に、それに? と紫乃が首を傾げた。
「……もう背中を預けてくれた仲だろ」
「ううっ!」
俺がそう言えば、赤くなって俯いてしまった。
……言いすぎたかも。
まあけど、その通りだろ。
静かになった俺たちの間に遠くから他の男子が戻ってきてすぐに騒がしくなる。
「で? どこ向かってるのアオイ?」
「見られてるかもしれないからな。ほんとにホテルのラウンジ入る」
ヤツに肩を組まれながら、俺はスマホの画面を操作する。
「確かになんか視線感じるよねー」
俺たちはただの高校生でしかも水着で、ドレスコードなんてまったく守ってないけれど──
「入れてもらえるはずだから」
ホテルの入口のドアマンに俺が話してスマホの画面をいくつか見せると、支配人がやってきて個室をひとつ貸してくれた。
ホテルの個室といっても、それは
期待していたラウンジに通してもらえる以上の扱いだ。
「うわ〜すげえ〜」
「結婚式とかでこういうとこ来たことある奴いるだろ」
「全員入れてもらえてよかった」
「マナー違反だし、あんまりやっちゃいけないんだけどなあ……」
俺はスマホの画面をタップしながら
「持つべきはアオイ様だわ〜」
「金持ちのクラスメイトだわ〜」
「やめろやめろ」
俺の名前の地銀の口座にはまじでお年玉の数万しか入ってないぞ。現金は持ってないって言ってるだろ。
「夕方まで使わせてもらえるから、涼しくなったら外に出て予定通り花火するか」
アオイ様、なんてヤツらがおどけながら俺に返事をする。
「アオイくんって何者……?」
「紫乃さん知らないの!? よく分かんないんだけど、小田巻くんて有名な──」
「そこ広めんなって」
紫乃に話しかける女子の会話を止める。
話される前に気づいてよかった。
「俺はたまたま上手く波に乗れただけなの。いつ落ちるかわかんない自慢できるもんじゃないから、知らん人に言わんでいいって」
はーい、と。紫乃に話そうとしていた女子が返事をして俺から離れていった。
「…………何? ここの社長?」
高校生社長とか、そんな漫画みたいなことあるわけないだろ。
「もっと地味な仕事だよ」
けど地道なんだ。
***
ホテルの窓から見える景色が夕焼けに染まっていった。浜辺に溢れていた人々は減ってきて、静かな景色に移り変わっていく。
「そろそろ行こうか」
俺が声をかけると、みんなは広げていたトランプを片づけ始めた。個室を出てホテルを出ながらそれぞれが話す。
「私そろそろ帰ろうかなあ」
「紫乃さんは?」
その視線が俺を見たことは──気のせいじゃないと思う。
「もうちょっと……いようかな」
やったー、と女子たちが抱き合った。
ホテルを出ると海の近く独特の塩気のある熱気が肌にまとわりついた。
浜辺に戻るクラスメイトを見ながら、俺は通してくれたドアマンに挨拶をする。
「ありがとうございました。すみません、また枚数足しておくんで……」
「アオイー! 早くー!」
先に進んで行ったヤツの声が飛んできて、俺はホテルの入り口に慌てて頭を下げて追いかけた。
準備のいいヤツらが浜辺に花火やバケツなどを並べていく。みんなが持ち寄ったからパックの花火は相当な数が重なっている。
「あっ、やば。ライターない」
「誰か着火のやつ持ってるー?」
「あ、私ライター持ってるよ」
紫乃が自分が持っていた荷物の中から黒いライターを取り出して一人に渡した。
受け取った女子は蝋燭に火をつけると、明るくなった手元にさっそくそのライターの文字を読んだ。
「……紫乃さん、これ、スナックのライター?」
「あ……」
俺は慌てて、こっちも火ぃ着けるから貸して、と手に持っていた女子から借りた。
──人に言えなかった、クラスメイトに打ち明けなかった家の仕事。
配信で顔を知らないたった一人にだけこぼしていた仕事のことは、たった今照らし出されしまった。
「いや、その…………怪しいって思われるのが嫌で、だから隠してた」
ライターのガスは充満だ。
俺は別の蝋燭に火をつけた。
足元に星より明るい光が灯る。
「うち、お母さんがスナックやってるんだ。それで手伝ってるの」
砂は俺たちの足の形にへこんで、風は昼間よりも重たい。
紫乃の告白を聞く一人が、それって大丈夫なの、と声をあげた。
「うん、家業としてで二十二時前までなら……ね、まあ、グレーゾーン」
まるで置いていかれた犬のように眉尻が下がる。
犬なら拾い上げてやれたのに──犬なら躊躇いなく撫でられるのに。
俺は蝋燭に向かって花火を向けている。無造作に掴んだ一本はどうやら湿気ているようで、なかなか火がつかない。
「……大変だねえ」
「偉いんだねえ、紫乃さん」
その言葉に、蝋燭の火の先を見ていた紫乃が顔を上げた。
「もしかして、留年もそれが原因?」
仕事が忙しすぎて、とか。
足された声に、まあそんな感じと紫乃が髪を耳にかけた。
──俺は黙って聞いている。波の音は静かで、会話の邪魔をしないでくれている。
「……ならさあ、今年こそ一緒に卒業しようね!」
女子たちの会話は、いつのまにかタメ語になっていた。
持っていた花火の先から光が弾けた。
しばらく火に当てていたら着火したようだ。
「アオイー、並んで文字書こうぜ!」
呼ばれて俺は花火を持って立ち上がった。
なんて字を書こうか、とサンダルに入った砂を振り払いながら相談する。
「おーい誰か写メ取ってー!」
俺たちは花火で肉眼で読めない文字を書きながら、海の音を聴いてそうやって笑っていた。
月が海に道を作っても、俺たちはずっと砂浜にいた。
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