委員会活動も始まり部活動勧誘やらも終わり一年生なら新生活に慣れ始めたであろう頃。三年生なら最後の夏に向けて各々が考え出すであろう頃。


教室。俺の席の右斜め前から声がかけられた。



「なーなー、アオイって絵ぇうまかったじゃん?」


授業が終わって教科書をトントンしている時に話しかけられる。


「そんなことないって」


自画自賛ではない。

絵のアカウントはろくに動かしてないからということもあるが、依頼はこないし俺はやっぱりその世界にしちゃあ上手い方ではないのだろう。これは自己評価の結果だ。


「普通だって」


「じゃ、図書委員のポスター描いてくれない?」


なにが、じゃ、だよ。聞いてないだろ。


「美術部とかに頼めばいいだろ」


美術部仲良いやついねーもん、とヤツは唇を尖らせる。


「ドリンクバー奢るから!」


「タイパ悪いんだよなあ」


それに何より──リスクがある。

話しかけてきたヤツの隣の彼女は、別の女子に呼ばれて他の席に行っている。勉強を教えてるみたいだった。

彼女は俺の絵を知っている。もしも見られたら彼女にバレてしまう可能性がある。


「え〜んアオイのケチ〜」


えんえん言うなよ。

受けないからな、と俺のダメ押しにヤツは泣きついた。


「紫乃さ〜ん!」


あ、くそ。……ずるいぞ。


「聞いてくださいよ〜!」


「え? なになに?」


大声で呼ばれて彼女が席の方に戻ってきた。

ヤツは得意げに泣いたふりをする。ああもう。


「コイツに一緒にお願いしてもらえませんか?」


「何を? えーっと……お願い?」


彼女はこてんと首を傾げた。

状況がわからないせいかキャラも作れていない、そんなナチュラルな仕草だった。


「おいコラ………………分かった、やるよ」


溜息を吐いた俺に、ヤツはやったー! と両腕を上げて、彼女はやっぱりわけがわからなさそうだった。


「デザインこんな感じで。サッとよろしく!」


渡されたルーズリーフは棒人間が顔の部分に手を当てている絵だった。雑すぎるし絵がサッと描けるわけないだろ。


とはいえ。

というわけで。


俺は家に帰ってサクッと頼まれたポスターを作る。絵を描く。

図書室ではお静かに、という文字と、唇の前で人差し指をたてる生徒の絵。


──図書室内に貼るだけだよ。利用者少ないけどそろそろ古いポスターがボロボロになってきたからさあ。

と言っていた。


まあ彼女は図書室を利用していた様子もないし大丈夫だろ。とはいえ多少絵のタッチは変えた。

 

次の日描いて渡すと、ヤツは喜んですぐに図書室に貼りに行った。

彼女に見られなくてよかった。


「ちゃんと仕事したし、これで同じ委員会のあの子に褒めてもらえるわー」


仕事したのは俺だっての。

とはいえコスパ悪いなと思った無償労働もそう聞けばなかなか悪いもんではない。他人の恋のダシに使われるのは癪っちゃあ癪だが。……まあせいぜいいい味出してくれ。


その日の放課後だった。


「失礼します」


俺たち三年生の教室を、知らない声がノックした。


「小田巻先輩いますか」


あろうことかその客人は俺を呼んだ。

クラスメイトの視線を感じてその客人を見ようとしたら、俺よりも先に奴の方が反応をした。


「うわっ!? 榎園えのきぞのさん!?」


「せんぱーい! ポスターありがとうございましたー!」


「……おい、誰だよ」


俺はヤツに小声で聞く。


「あ、えーっと、図書委員会の後輩」


教室の入り口にある一年生は俺たちに手を振っている。


なんでだよ、俺も知らん、と男二人で囁きあっていたら──目が合った。


「あ、そちらが噂の小田巻先輩ですねー!?」


けっこう小柄な女子だった。黒髪のボブカットに猫のような大きな目。黒猫のような上品な感じではなく、ハチワレのようななつっこい感じだ。


「ちょっと告白したいんで来てくれますかー!?」


その言葉に、俺がリアクションするよりも先に教室中がざわめいた。



***




『う、ううう〜……ママあああ〜……』


その日の夜、葉っぱちゃんが配信を開始したという通知を受けて画面を開くと、犬耳をつけたキャラクターが唸っていた。


『聞いてよお〜……え〜、ちょっとほんとにさあ……』


悲しそうな顔は画面操作かリアルな顔の反映なのか。俺が作った陽気な犬耳キャラクターはなんとも鳴いている。


『え〜……ううう〜……ねえ、ママ〜』


『どうしたの?』と書かれているスタンプを送信しても、さっきからこんな調子で要領を得ない。


『うう〜、いや、あのね〜ほんと、それがね〜……ううう〜さいあく〜』


なんなんだよ。

いつもなら配信しない夜遅い時間だ。

二十二時過ぎにスタートした配信ももう三十分くらいこんな調子だ。

他の視聴者が入ってきたりしても彼女はそれを構わない。そんな様子だから視聴者は俺だけだ。

さっきっからずーっとショボショボしている。見ている側もタイパ最悪である。


『うう〜……寝れる気がしない……マキママ、聞いてくれる……?』


話すために配信つけたんだろ。聞いてるよ、と書かれたスタンプを押すとやっとその口が動き出した。いやまあさっきから動いてはいたんだけど。


『クラスの男子がさあ、可愛い女子に呼び出されてた……』


……誰のことだろな。

ずっと溜められていた文章は、やっと堰を切ったように画面からこぼれ出した。


『なんか一年生の可愛いちっさい女の子だった〜! え〜もうまったく意味わかんないよ〜! 私のこと抱っこしておいてそんなことある!?』


俺だよなあ。

一年生に呼び出されて、抱っこしたのなんて……いや抱っこなんて語弊があるけど、まあ確かに……俺だよなあ。

とは思うけど、他の奴らに抱っこなんかされてるわけがないよな?


『しかもその子! 告白とか言って呼び出してるの!? 何どういうこと!? なんか人気があるのは知ってたけど、入学して間もない後輩から告白って!? 私の知らないところでそういう接点あるってこと!?』


さっきまでの重い口が嘘のように矢継ぎ早に言う。流れる音声はキャラクターの口の動きに全く合っていない。パタパタ動く犬耳のモーションだけがやけに似合ってる。


『後輩のこととか学校行けてなかった頃のこととか私まったく知らないからよくわかんないし! ずるいずるい!』


……何がずるいんだよ。聞いてくれりゃ教えるし、そう言うならそっちだってずるいだろ。

そんなこと書き込まないけど。


『あ〜もう! すぐに教室でてったしやっぱ年下の可愛い女の子がいいってこと!? うう〜!』


とりあえず一言感想が送れるスタンプボタンには『そんなことないよ』という文字のものはないみたいだ。


『年上の女なんて気ぃつかうしやだよね? 学校で唯一タメ口で話してくれるから気にしてないと思ったのに! ねえ、もう〜……』


もう。もう──なんだ。


『私ばっかり意識してる! やだやだ、やだ〜……告白って……なんなのどうなったのおおお!?』


ああくそ。

画面越しでよかった。スピーカー越しでよかった。

顔を見られなくて済むし、俺のマイクはオフだ。


『私のことあんな助け方しといて、彼女がいたとかできるとかないよねえ!?』


スピーカーから聞こえる声のせいで、全然眠れない。



次の日の朝──


「あれ、紫乃さん隈できてますよ?」


彼女はクラスメイトに寝不足の証拠を指摘されながら教室に入ってきた。


「ちょっと予習? ……あ、二回目だから復習かな? が捗っちゃって」


……嘘だって知ってるぞ。あれから結局ずーっと同じようなことを何度も吐き出してたじゃないか。

『もう辛い……やだ。寝る。ごめんね、ママ』

なんて言った頃には、俺は時計を見ることもできずに眠ってしまったぞ。


「留年ジョークですか!」


なんて笑われながら、真面目ですねとか言われてる。


「アオイ〜、おはよ〜! あれ、なんか寝不足?」


教室に入ってきた右斜め前の先のヤツが、俺の顔を見て言った。


「ほっとけ」


窓際の席。風が入ってきて、カーテンが揺れる。

自分の席に──俺の前の席にきた彼女が、長い髪を耳にかけ直した。


「……おはよう、小田巻くん」


「おはよ、葉賀」


彼女は俺の方を向いて口を何度か開いては閉じると──結局何も言わずに前を向いて座ってしまった。


聞けよ。


髪の匂いはいつもと同じだ。甘い匂いを嗅いで、あくびを噛み殺した。



***



昨日の放課後、俺は呼び出しにきた一年生のとんでもない一言に、即時にその場から離れることを決めた。


「こっち来て!」


「もちろん行きます!」


少女漫画みたいに腕を引っ張ることなく、彼女は俺に素直についてきた。


教室を飛び出して、屋上に繋がる鍵のかかった扉の前にやってきた。そこは誰も来ないし、人が来たらよく分かる場所だったからだ。


「え……なに、どういうこと?」


そして二人っきりになった彼女の顔を、見る。

初対面だろうに、懐っこい猫のように──あるいは知っていたというように親しみのような笑顔で俺を見る。


「先輩、SNSでイラスト募集してましたよね!? 私にも立ち絵を描いてくれませんか!?」


「はあ!?」


どういうことだ。小柄な彼女の丸い目に、間抜けな顔をした俺が映る。魚眼レンズのようだ…………いや近いな。そんなに近付くなよ。

スカートを短くして制服を着崩している様子は、黒髪なのにギャルっぽい感じがする。距離を取って一歩下がる。


「俺は小田巻。……えーっと、榎園さん、だっけ?」


「はい! 榎園えのきぞの桃花ももかです! 声楽部の一年生で図書委員です!」


「あ、そう……どうもありがとう」


聞いたことを教えてくれる。けど何より聞きたいのは、そういうことじゃない。


「で、さ。……どういうこと?」


「ふふー。じ、つ、は!」


胸を張る。スレンダーな小さい体躯がえっへん、と俺にそう言って主張した。


「桃は配信アプリでだ〜い活躍してる配信者で、事務所にも入ってるんです!」


「へえ……」


よく分からないが、軽く拍手をする。

知らないけどすごいんじゃないか? それなら俺に用なんてないだろ、と思うが。


「といっても……事務所所属は今月までで来月からは個人勢になるんですけどね……」


「あ〜……そうなんだ……」


少し引く俺に今度はがっくりと肩を落とす。

画面上でもこんなキャラクターなのだろうか。目めまぐるしく変わる表情はなかなか見応えがある。


「と、いうことで転生するのに新しい立ち絵が必要で、絵師さんを探していると言うわけです。まさかこの学校にネットで見た絵師さんがいるなんて!」


「いやー、俺ちょっとよく分かんない世界だなー」


「またまた〜!?」


しらばっくれてもこの後輩はもう確信を持っているらしい。


「図書室に飾ってあった絵! ちょっと画風は変えてますけど塗り方とか線とか間違いなくネットで依頼募集をしてた絵師さんの絵だって! 最近タグ検索しまくってましたからすぐ気づきましたよ!」


くそ。ヤツが「図書室にちょこっと飾るだけだからそんな注目を浴びない〜」と申し訳なさそうに言ってたから受けたのに。

めちゃくちゃピンポイトな視線の集め方してるじゃないか。


「あ、いや〜……」


大きな黒目に真っ直ぐ見つめられて、俺は視線を右上に逸らす。


「……もしもそうだとしてもあんまり絵は描かないって決めてるから描けないかな〜?」


目を逸らした俺の顔を、小柄な顔に不釣り合いなほどの大きな目が、唸りながら見つめた。

目を合わせないように右上を見つめ続ける俺に、小さな唇がニヤリと笑った。


「この絵師さんはテレビでインタビューされたことがあるくらいの有名人のあの人で〜す! って、先輩のもう一つのアカウント名載せちゃいますよ?」


「…………勘弁してくれ」


よく小説や漫画で見る相手を舐めたガキくさいゆすりは嫌いなんだ。──屈してやるわけがないだろ。


「その言い方はを脅迫だと受け取ると刑法二百二十二条…………出るとこ出てもいいんだぞ」


高校生だけれど、俺はバイト《副業》でそれなりにやってきたのだ。

──年下ガキの低俗な言い方に従うわけがないだろ。


思ったより低い声になった。


俺の言葉に、目の前の後輩は弾かれたような顔をしてそれから──


「ううう〜! ひ、ひどい〜!」


泣き出すそぶりをした。

そうやって目元を擦って子猫みたいに鳴いてるが、泣いてるわけではないのは分かっている。

ちょっとリアルなせいで胸が痛むのが悔しい。


はあ、と溜息を吐いて、一拍。


だからさ、と俺が語りかけるとすぐ顔を上げた。ほら見ろやっぱり泣いてない。


「…………そう言う言い方じゃなくて、お願いですって可愛く言えばいいだろ」


せっかく愛嬌があるのに、なんでその一番の武器を使わない。


「なんでわざわざバイオレンスを選ぶんだよ。こじれるかもしれない恐喝よりも一言でおねが〜いってねだって言う方がタイパいいだろ」


男でも女でも。ひれ伏すふりをして相手の隙をつくのは賢い戦法だと思うんだけどな。


「まあそれじゃ描く気にはならなかったから……まあ、いいけど」


途端に後輩の顔が花が咲いたように明るくなった。ボブカットの毛先が揺れて、せっけんのような匂いがする。


「やったー! ふふー! 嬉しい〜!」


……これはギブアンドテイクだ。

俺はシークレットが欲しい。この後輩はイラスト《時間》がほしい。まあしょうがない。


これっきりだからな、と約束をして連絡先交換を交換する流れになった。


「ふふー。憧れの小田巻先輩と連絡先の交換までできるなんて! お金持ちで有名ですけど! 本質はそこじゃなくて努力家なとこじゃないですか!」


「それはどうも」


というかお金持ちなわけじゃない。よく言われるが、俺は現金資産なんて全然持ってない。というか一年生にまで俺のこと知られてるのか。


「かっこよくてインタビューを受けたことのある学校の先輩なんて憧れの的になるに決まってるじゃないですか!」


くそ。たまたま受けただけのインタビューでまさか。黙ってスマホを見ていると、後輩は笑いながら俺の体をつついた。


「ふふー。告白なんて呼び出されたからドキドキしちゃいました?」


まあそりゃあなあ。

否定しすぎるのも失礼だろうな、まあ嘘ではないと思ってそう答える。


「ふふー。すみません。配信者なんで彼氏作れないんですよ〜! リア恋枠なんで?」


ああそうかよ。なんだって。


「あ、けど、小田巻先輩にお願いされたら……喜んで彼女になりますよ? 特別に桃花って名前呼びも先輩なら大歓迎です!」


「……そりゃあどうも」


「これからよろしくお願いしまーす! じゃあ部活行ってきまーす!」


──そういうやりとりがあってお願いをききいれ、夜に彼女の配信を見ながら描いてたっていうわけだ。

というわけで彼氏彼女なんかじゃないし告白だってそういう告白じゃない。

そういう説明をしたいけどできない。聞かれないから。


他の女子たちと話す顔は、後ろの席の俺にはよく見えない。



「おーい、美化委員ー! 来れるやつは放課後プール掃除頼むー!」


教室に突然入ってきた教師の声に、俺は分かりましたとすぐに返事をした。



***



突然の召集だったから集まれるやつは少なかった。というか来れるやつだけ、と言われたら普通のやつは部活を選ぶ。……入ってるやつならな。


「今年暑くなるからプール開きを早めにしようと思ってなあ」


俺は体育教師からモップを受け取る。

もう一人の美化委員はもう既にモップを持っている。


「あとから水泳部の奴ら来るから!」


どつやらプール掃除主力の水泳部は問題を起こしてお説教中らしい。これから夏だというのに大変なことだ。


「二人で悪いなあ! しばらく頼んだぞ!」


──というわけでプールサイドには俺と葉賀紫乃の二人きりになってしまった。

やっぱり美化委員は労力が多いなあ、と俺は制服のズボンの裾を上げて靴下を脱いだ。


「…………俺たちだけだな」


「そ、そうだね! よーし、頑張ろうねー!」


「ちょっと待て」


意気込む彼女は、スカートの下にジャージを履いて靴下を脱いでいる。──プールの中に降りようとするその足を、止めた。


「え? なに?」


「俺が降りるから、葉賀は上からモップで擦って。……滑りやすい」


水を抜かれたプールは、しばらく使われていなかったから底に若干の藻のような緑があり見るからにぬるぬるしている。

漫画や小説ラノベみたいに爽やかなプール掃除というわけにはいかなさそうだ。

こんな映えないの、せいぜい三流のウェブ小説だ。


「え〜、いいよいいよ、平気平気〜!」


「俺が気ぃつかうからそうさせて」


まずはプールサイドに立って上から長いモップで掃除してぬるみを取っていくべきだ。そこからが漫画に出るような青春ヤローの出番で、こすりあったり水掛け合ったりしてキラキラする景色になるというわけだ。どうせ俺は王道主人公タイプじゃない。しょうがないだろ。


「さ、さすが小田巻くん……」


さすがって。

そういえば配信で、ついで褒めてしまうとかなんとか言ってたな。


「あれ? 何笑ってるの?」


お前のことだよ、なんて言うわけにはいかなくて、なんでもないと適当に誤魔化した。



俺たちの間に言葉がないせいで、野球部の声と吹奏楽部の楽器の音がよく聞こえる。


俺はぬかるんだプールの床をデッキブラシで擦る。……くそ、高圧洗浄機がほしい。なんで教師は学生にタイパ悪いことばかりさせるんだ。


彼女は俺が言ったようにプールサイドをデッキブラシで擦っている。


照りつける日差しは遮るものがなく眩しくて暑い。長袖長ズボンで暑そうだ。

話しかけるなら、定番としては「暑くないの?」というフレーズだが、肌をできるだけ見せたくない理由を知っているため聞くわけにもいかない。


悩んで──まあしょうがない。黙々とプール掃除を続ける。青いプールの底が鮮やかになっていく様子は見ていて楽しい。


黙々とプールの底を磨いていて、デッキブラシが硬い床を擦る音しか耳に聞こえなくなるほど。

なんて話しかけようか、なんて悩みがだんだんと思考からも遠くなるくらい夢中になっていたから──気付かなかった。


「よっしゃー! プール掃除やるぞー!」


その見知らぬ声は、同時に飛んできた。


「あ、ちょっとま──……小田巻くん!」


──ホースからの大量の水と共に、プールの底にいた俺に。


「…………」


頭上に突然水は降ってきて、前髪から雫が滴り落ちて状況を理解した。

まじかよ。

水泳部員が急いできたノリで勢いよくホースの水をプールの中に向けたこと。


「小田巻くん、大丈夫!?」


「うわ!? 人いたんだ!?」


見上げると水泳部の奴らと、彼女が俺を見ていた。すいませんと野太い声がかけられて、俺はプールサイドに上がる。


「あ〜……大丈夫」


ぼーっとしてた俺も悪いしな。

プールサイドに上陸すると、俺から滴った水が床に染みを作った。なかなか豪快に濡れたようだ。


どうしようかな、と考える俺の視界に、カラフルな色が……目の前に、見知らぬタオルが差し出された。


「大丈夫? これ、タオル」


「葉賀」


顔を上げると、彼女が俺の目の前に来ていた。


「よかったら使って」


「……ありがと」


素直に受け取って頭を拭う。……たまに彼女から香る匂いが肌に触れて、少し落ち着かない。もう拭いた顔をタオルで拭いた。


「お姉ちゃんが拭いてあげよっか〜?」


「じゃあお願い」


「ふえっ!?」


なんだよ。そっちが言ったんだろ。

犬が電柱にぶつかったみたいな顔をしやがって。


「拭いてくれるんだろ? お姉ちゃん?」


「か、可愛くないからだめ〜!」


なんだよ。拭いてくれないのか。

残念だな、やっぱり現実は本のようにはいかないな、と思いながらひととおり拭いていく。


「ありがとう。洗って返すよ」


「…………そ、そうだね。なんなら花束とかつけてくれてもいいけど?」


なんだよそれ。冗談めかしたその言葉にやっぱり笑えた。この雰囲気で話してやろう。


「わかった、覚えとくよ。……あのさ昨日──」



***



『──ってことがあったの!? ヤバくない!?』


ああ確かにやばいな、俺が。こうやって聞くと浮かれすぎだろ。とんでもない青春ヤローじゃないかよ。


あれから俺と彼女は、濡れたことを口実に水泳部の奴らに掃除を任せてとっとと引き上げた。

俺は今は一人の家で──彼女の配信を聞いている。


『えへへ〜、あの一年生は彼女とかじゃないみたいだしよかった〜えへへへへ』


もうさっきっからこんな調子だ。

犬耳のキャラクターが耳をパタパタさせながら笑っている。

それからプール掃除のことを言ってはえへへと笑うのを繰り返す。

……いたたまれなさすぎる。切りたい。

けど俺がいなくなっても配信を続けるかどうか知りたくないから嫌だ。


『水も滴るなんとやらな姿もよかったし〜……普通濡れたクラスメイトって見られないから役得だよねえ〜……えへへへ』


これだけ笑ってもらえれば慣れたのもまあ悪くないと思えてしまうのだから不思議だ。


『や〜、帰りが遅いってママにちょっと怒られちゃったけど、なんかもうそんなことどうでもよくなったよ……えへへへ』


さらっと言うなあ。

そんな遅い時間でもなかっただろ──ああ、家の仕事とやらのせいか。

怒られたなんて聞くと聞きたくなる。

けれども聞いていいのかわからない。そもそも聞くべきではない配信を聞いているのだから聞けない。


『そうなんですよ〜。これから夏休みで仕事ばっかりになっちゃうから嫌だな〜……海とか行ったりしたいのになあ〜』


『そうなんだね』とスタンプを送信した。

すると俺のリアクションに気づいた彼女は、そうなんですとえへへと笑った。


『けど今年はできるだけママの仕事手伝って頑張らないと……また卒業できなくなっちゃうしね』


頑張るよ、と言ってそれから配信は終わった。


留年ということにほとんどの者がそれくらいならと退学を選ぶだろう。大学生でさえ半数は大学を選ぶ。

高校なら単位制などに転校する方法もあるだろう。

後輩と同じ教室で同じ勉強をする気まずさを抱えても、彼女が選んだ留年。


──なあどうしてお前みたいなわりと優等生が。


誰も知らない彼女を知った気になってその実、なんにも知らないないなと気がついた。

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